シュレーディンガーのガーラ。あるいは干上がった海で出会った二人の賢者
太陽にじりじりと焼かれ、頭の芯まで熱が染み込んだようにぼんやりしている。気がつけば四時間、僕は海でルアーを投げ続けていた。
やりきった。そして、圧倒的に遊び疲れた。
でも、この感覚がたまらなく好きだ。三十代も後半戦に突入し、日常生活では「よっこいしょ」が口癖になりつつある。階段を上れば息が切れ、昨日の疲れは平気で明後日まで居座るようになった。それなのに、釣り竿を握った瞬間だけは、少年の頃の無限のスタミナが戻ってくる。脳内麻薬がドバドバ出て、疲れという概念が消え去るのだ。人体の明らかなバグである。
今日は、大潮の中でもさらに潮が引く「マイナス干潮」の日だ。
目の前に広がるのは、いつもの見慣れた海ではない。どこまでも、本当に地の果てまで潮が引いていき、海底だったはずの地肌が剥き出しになっている。普段は海面からちょこんと頭を出しているだけの岩も、今日はその無骨な全貌を完全に露わにし、別の地に降り立ったような錯覚を覚える。このまま歩き続ければ、いつか水平線の手前まで行けるんじゃないか。そんな気さえしてくる。
風に乗って運ばれてくる潮の香りも心地よい。本州の海によくある、あのムワッとした磯の強い臭いではない。珊瑚礁の海特有の、薄くてどこかすっきりとした、ミネラルウォーターのような清潔な香りだ。
そんな干上がった別世界を、島のお爺い(以下、オジイAとする)が歩いてきた。手に持った網の様子からして、貝かモズクでも採りにきたのだろう。足取りはすこぶる軽い。
すれ違いざま、オジイAは僕に尋ねた。
「兄ちゃん、何狙いだ?」
「ガーラ(ロウニンアジ)か、タマン(ハマフエフキ)ですかね」
この海域のヒエラルキーの頂点に君臨する、強者の名前を口にした。
するとオジイAは、少し気の毒そうな顔をして言った。
「あー、ここにはいないさぁ。あっちの端っこの方が絶対良いはずよ」
親切な助言である。長年この海を見てきた地元の賢者の言葉だ。素直に従うのがセオリーだろう。
しかし僕はその助言を完全に無視し、一歩も動かずに同じ場所で釣りを続けた。なぜかって? 理由は一つ。移動するのが面倒くさかったからだ。釣り人の謎の意地と、三十代後半の体力が、ここで急に手を組んだのである。
それから数十分後。
今度は別のオジイ(オジイBとする)が近づいてきた。オジイBもまた、海と一体化したようなベテランの風格を漂わせている。
「何狙いだ?」
デジャブである。全く同じセリフが飛んできた。
「ガーラかタマンです」
「そうかそうか! ここはいるもんなぁ。大きいガーラ、昨日もそこを群れで泳ぎよったさ」
……ちょっと待ってほしい。
ついさっき「ここにはいないさぁ」という神託を下されたばかりなのだが。
オジイAは「絶対にいない」と言い、オジイBは「絶対にいる(昨日見た)」と言う。同じ海、同じポイントに対して、真逆の真実が提示されたのだ。
僕はルアーを巻きながら、静かに悟った。
ああ、みんな思ったことをそのまま言っているだけなのだ、と。
自分の経験や、昨日の記憶や、あるいはその日の気分で、思い思いの「真実」を口にしているだけなのだ。情報化社会だ、ファクトチェックだ、エビデンスだと騒がれる現代において、この海辺にはそんな窮屈な概念は存在しない。
誰も箱を開けていないのだから、ガーラはいるし、いない。
観測されるまで、魚は「いる状態」と「いない状態」を同時に泳いでいる。
箱の中の猫は、開けて確認するまで生きているとも死んでいるとも言えない——量子力学にそんな話がある。
まさに「シュレーディンガーのガーラ」だ。
そしてそれは、オジイたちが適当なのではなく、海というものが、そもそもそういう場所なのかもしれない、とも思う。確かめようのない深さを持つ場所で、人はみんな自分の見たものを信じて話すしかない。
他人の言葉に振り回されず、自分が信じたいものを信じて、ただ目の前の海に向き合えばいい。適当でいいのだ。僕はオジイたちから、思いがけず人生の深い真理を学んだような気がした。
で、結局釣れたのかって?
もちろん、狙った魚は一匹も釣れなかった。
でも帰り際、ふと目をやった波打ち際に、悠然と泳ぐとてつもなく巨大なガーラの姿を、僕は確かに見たのだ。
やっぱりね。
箱を開けたら、ちゃんといたのである。
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