焦土のエロスと、お茶の間の呪縛〜国民的聖母の仮面の下で、黒い淫汁を滴らせていた長谷川町子の悲鳴〜
お茶の間に犯され続けた女傑が、最後に飲み込んだ猛毒の快楽。
焦土のエロスと、お茶の間の呪縛
〜国民的聖母の仮面の下で、黒い淫汁を滴らせていた長谷川町子の悲鳴〜

本文
日曜の夕暮れ、黄昏の匂いが部屋に立ち込める頃、テレビから流れるあの陽気なテーマソングを聴くたび、俺の奥歯の根元がチリチリと疼く。
日本中がぬくぬくと温かい茶の間でみかんを剥き、平和の湯気に浸かっている。だが、その平和を差し出した張本人の女――長谷川町子が、どれほど昏い情欲と悪意の檻の中で喘ぎ、自らの生血を絞り取られていたか、想像したことがあるか?
町子の本性は、底なしの「毒婦」であり、人間の股ぐらに潜むドス黒い闇を愛撫する稀代の観察者だった。『いじわるばあさん』のページをめくれば一目瞭然だ。老人の陰湿な悪意、他人の不幸を蜜にして濡れる残酷な舌先、社会の欺瞞を嘲笑う冷えた笑み。彼女が真に筆先を尖らせて描きたかったのは、そんな人間の剥き出しの業、ドロドロとした肉の体温だったはずだ。
敗戦直後、見渡す限りの焼け野原。男も女も尊厳を奪われ、飢えと絶望の中でただ泥水をすするしかなかった時代、彼女は飢えた日本人のために『サザエさん』を産み落とした。それは傷口に塗る軟膏であり、生き抜くためのカンフル剤だった。
だが、悲劇はそこからだ。
あまりにも売れすぎた。作品が国民の「理想の家族」という名の怪物に成り果てた瞬間、町子は自ら生み出したその怪物に、手足を縛られて組み敷かれたのだ。
大衆という名の化け物は、貪欲に「安心」と「アットホーム」を町子にねだった。
「もっと健全な笑顔を見せろ」「もっと無邪気な団欒を描け」――。
町子が本当に描きたかった大人のシニカルな性(さが)、人間の心の奥底に渦巻くブラックなユーモアなど、誰一人として求めやしない。『エプロンおばさん』を描こうが『いじわるばあさん』で悪意を撒き散らそうが、世間はサザエの豊満な笑顔ばかりをむさぼり喰らう。
生涯独身、男を知らぬまま仕事に身を捧げた女の肉体。その内側では、母親や姉との息の詰まる確執、夜逃げのような家出騒ぎ、血を吐くような孤独が渦巻いていた。金は唸るほど入ってくる。豪邸に住み、優雅に海外旅行へ出かけ、世間からは成功者と崇められる。だが、彼女のプライベートベッドに横たわっていたのは、誰にも触れさせることのできない、冷たく湿った「心の闇」だけだった。
「孫子の代まで絶対させたくないのが漫画家」
「スランプの苦しみは尋常じゃない。こんな苦しみを味わうくらいなら普通の人生を送りたかった」
残されたその告白は、もはや愚痴などではない。精神を削り、インクに自らの愛液と毒を混ぜて紙に擦りつけ続けた女の、むき出しの絶叫だ。大衆に愛されるほど、己の魂をレイプされ続けるような屈辱。自分が本当に愛した「黒い欲望」を押し殺し、処女のふりをして微笑み続けなければならない生き地獄。
昭和49年、彼女はふっつりと筆を折った。
「体調不良」という無機質な理由を盾にして、二度とサザエの元へは戻らなかった。大衆の手から、自らの肉体を力ずくで奪い返した瞬間だった。
平成4年、彼女は静かに逝った。
もしも彼女が、世間の道徳という分厚い毛布をかなぐり捨て、欲望のままに筆を走らせていたら――。磯野家の障子の向こうで繰り広げられる血みどろの愛憎劇や、波平の老獪なエゴ、サザエの狂気じみた情念を描ききっていたとしたら。
俺たちは今頃、そのあまりの淫靡さと猛毒に中てられて、狂い死んでいたかもしれない。
町子先生、あんたが墓場まで抱いていったその極上の闇を、俺は今夜もしゃぶりたくてたまらないんだよ。
〈了〉
142,278回視聴 2022/06/18
サザエさんのネタ、パロディ動画です
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