両親と愛犬を立て続けに看取った話
じぃじのクリスマスプレゼント
2017年。
日に日に寒さが増し、秋の深まりを感じ始めた頃のこと。
SNSアプリがポップアップし、メッセージが届いたことを知らせた。
「エアコンのリモコンが壊れて寒くて震えています」
その知らせは頻繁だ。
またある時には、
「鍵をなくして家に入れません」
といったメッセージが届く。
いずれも弱気なおじさんからの―――私の父からのメッセージであった。
当時私は実家から車で30分ほどのところで暮らしていた。
手を付けられないくらいやんちゃな2歳の子どもを抱えて育休から復帰し、第2子を妊娠中だった。
実家には両親が暮らしていたが、その年の5月から、母は長期入院中。長くがんで闘病中だったさなかに誤嚥性肺炎を起こし、危篤状態となったのである。
小康状態を保ってはいたが、意識は戻らぬまま、半年以上入院を続けていた。
つまり、父は半年ほど独居生活を送っていた。
その頃の父は、とても気弱になっていた。
結婚を控えた私の弟のフィアンセの実家へのあいさつにも、
「おれ一人でどうしたらいいか分からない…」
と思考停止したまま、行こうとしなかった。
母が入院してから、寂しい寂しいと、些細なことで連絡をしてきた。
そのたびに弱気なメッセージがしばしば私の携帯電話に届いたが、私はそのたびいらだっていた。
「復職したてで、小さな子を抱えて忙しいのに。
自分でなんとかしてよ!!」
そう思いながら、おなかがすいたとわめく子どもを車に無理やり乗せこんで、仕事帰りに失くしたという鍵を急いで届けたこともあった。
いらいらしながら、無言でにらみつけるように鍵を渡してしまったことは、今思い出しても恥ずかしく、申し訳ない気持ちになる。
そういえばこんなメッセージも届いていた。
「私のことを癒してくれるのは、老犬ヒナだけです」
ヒナというのは私が高校生の頃に実家にやってきた飼い犬だ。
ポメラニアンの女の子で、当時既に16歳。人間でいうと80歳の老犬だった。
その時の私には、父が弱気になって悲劇の世界に自己陶酔しているように見えた。
私が子どもを連れて実家に帰っても、孫である私の息子と遊んだり、私に声をかけたりといったこともなく、肩を落として自分を憐れんでいる。
確かに母が入院して辛いだろうけど、母のことはもちろん、目の前にいる他の家族のことにも、もっと目を向けて欲しいと強い口調で言い返したこともあった。
11月下旬のことである。
父からまた、メッセージが届いた。
「もうすぐクリスマスですね。
孫君の欲しそうなものを買っておいてくれますか。
私から渡します」
こんなことは初めてだった。
それまで孫に目もくれなかった父が、孫のためにクリスマスプレゼントを用意したいという。
嬉しかった。
プレゼントがもらえることもだけれど、哀れな自分にしか目が向かなかった父が、誰かのために何かをしたいと思ったことも嬉しかった。
私はネットで息子の欲しがっていたアンパンマンのおもちゃを注文し、実家に届くように手配した。
翌月実家に帰った時に、父から息子に渡してもらう約束をしてメッセージを終えた。
2017年、11月29日
その日、仕事から帰ってあわただしく子の世話をしていると、電話が鳴った。
叔母からだった。
「今日、おばあちゃんの病院の日だったのに、お父さんと連絡がとれなかったのよ。何か聞いてる?」
父は、私の祖母の介護も叔母と交代で行っていた。
祖母は元気な高齢者で当時90歳くらいだったが、デイサービスなどを利用しながら一人暮らしをしていた。
通院やケアマネジャーとの面談など、用事があるときは父と叔母が交代で祖母のもとに行き、お世話をしていたのだ。
「何も聞いてないです。確認しますね」
電話を切って私からも父の携帯電話や自宅の固定電話に電話するが、応答がない。
まさかとは思いつつ、念のため、実家に車を走らせた。
父に何かあったのだろうか。
不安と混乱でざわざわする。
実家に着いて、ドアを開けると、真っ先に走ってきたのは、犬のヒナだった。
ヒナは興奮した様子で、玄関先をくるくるまわりながら吠え続ける。
喜んでいるというよりは、パニックに近い様子だ。
中に目をやると、部屋の電気が、ついていた。
父は、亡くなっていた。
解剖の結果、虚血性心疾患で2日前くらいに亡くなっていただろうとのことであった。
玄関には、私が父に頼まれてネットで注文していた孫へのプレゼントの、アンパンマンのおもちゃが置かれていた。
2週間後、父の手から私の息子に渡してもらうはずだったものである。
涙が出た。
そして母も
そこから父の葬儀、もろもろの手続きと慌ただしい日が続いた。
弟は遠方に住んでいたため、幼児を抱えた身重の私が中心になってやるしかなかった。
加えて入院中だった母の容態も安定しなかった。
何度も病院から連絡がきて、何度も足を運んだ。
じっとしていない2歳児を連れて病室に行くのは、毎回骨が折れた。
意識不明で寝たきりだった母は、当然父の葬儀にも出ていない。
枕元で、父の死を報告したけれど、どれくらい伝わっていたのだろう。
そんな慌ただしい年末を過ごしていたが、父の満中陰が明けるのを待たず、2018年の年明けには入院中だった母も亡くなった。
母が亡くなる直前まで、私は病院にいた。
知らせを受けた弟も、かけつけていた。
しばらく手を握ったり、そばで仕事をしたりして過ごしていたけど、少し落ち着いたかなという看護師さんの言葉に、自宅に残している夫と息子のことも気になったので、私は一度帰宅した。
私が自宅に帰ってすぐ、母は急変したらしい。
連絡を受けて引き返した時には、弟に看取られ、亡くなったところだった。
さっきまで手を握っていた母。
そして今、その命の尽きた母。
さっきも、今も、喋れないし意識はない。
この生と死の間には、何があるのだろう。
意識もなく、身を横たえたまま生きていた母も、その命を終えた亡骸の母も、大して変わらないようにも思えた。
でも、やっぱり、違うのだ。
喋れなくても、寝たきりでも、苦しそうに顔をゆがめていたとしても、やっぱり、生きていたのだ。
そしてもう、いないのだ。
私は悲しみと、とんでもない不幸感に襲われたが、それ以上に毎日に必死だった。
短い間に2度の葬儀やさまざまな手続き、そして今度は実家の処分にも追われることになった私は、悲嘆にくれる暇もなく、いろいろなことをこなす日々を送った。
ヒナ、我が家にやってくる
もう1つ、大きな役目を担うことになった。
父の死に伴い、実家で飼っていたポメラニアンのヒナを、我が家に引き取ることになったのだ。
父が亡くなったと言われているのは、私が駆け付ける2日前。
その間飲まず食わずだった彼女は、それだけでもかなり衰弱していた。
私には当然なついているとはいえ、16歳にして突然知らない家に引っ越して、見慣れない家族のもとで暮らすこととなったことは、彼女にとって負担であったに違いない。
我が家に来た当初、ヒナはすべてに対しておっかなびっくりであった。
それまで暮らしていた畳がほとんどの実家から、フローリング中心の我が家に来て、歩くのもおぼつかない様子だった。
その上予測不能な動きをする2歳児と暮らすことになったことも、きっと怖かっただろうと思う。
若い頃は元気に吠えたくっていた、どちらかというと気の強い犬だったヒナは、気弱なおばあちゃん犬になっていた。
ヒナのことは大好きだったし、図らずもまた暮らせる嬉しさもあった。
時々2歳の息子とヒナが寄り添うように寝ているのを見ると、心が温かい気持ちになったし、いつも手が付けられず暴れまわっている息子が、
「ヒナちゃん、おいで~」
と自分より儚きものを愛でている姿にじんときたこともあった。
しかし、当時の私にそれを噛みしめる余裕はなかった。
環境が激変した上に老犬である彼女は、トイレの場所もなかなか覚えられず、よく失敗をしていた。
仕事から帰宅すると、あちこちに粗相がしてある。
2歳児がわき目もふらず走り回る前に、フロア中の床を拭いて回る日々が始まった。
ただえさえフルタイム勤務と子育ての両立でへとへとだったが、そこに犬の介護も始まったのだ。
これはなかなかに、大変だった。
その上、我が家に引き取ってすぐ、ヒナに腎不全の持病が発覚した。
身重の体で、2歳児を連れて、定期的に動物病院に通院することになった。
相続に伴う手続き。
実家の売却に伴う手続き、物の処分。
仕事。
家事育児。
犬の通院に介護。
次第に大きくなるお腹。
余裕はますます、なくなっていった。
2018年4月―――
母が他界してから3ヶ月。
春になり、第二子が生まれた。
産後の私は、ホルモンバランスの乱れのせいか、ヒナの粗相が気になって仕方がなかった。
ヒナはいつも私の足元で丸くなって寝ていたが、思い立ったようによたよたと歩き、さまよい出す。
そのたびに私は、昼夜問わず一緒についていく。
その気配があればトイレに連れて行くのだが、よく対処が遅れて失敗した。
少しでも粗相をすると、乳飲み子と2歳児がさらに汚さないように床掃除に追われる。
ただでさえ頻回な赤子の授乳で寝不足なのに加えて、ヒナのトイレ介助で余裕は全くなかった。
目を離したすきに失敗をした時はついヒナに怒ってしまった。
その頃ヒナは、トイレの段差を上がることがなかなか難しいほど、足腰もおぼつかなかったというのに。
腎不全もさらに悪化しており、毎日自宅での点滴が必要となっていた。
医療職でもない私が、点滴なんてと最初は怯えた。
しかし、毎日通院するか、自宅で点滴するかの選択肢の中では、後者を選ぶほかなかった。
点滴をするためには、一人がヒナを抱え、一人が針を刺す必要がある。
大人二人が必要であるため、仕事で深夜に帰宅する夫を待つ。
睡眠が削られ、私は常にいらだっていた。
すべての終わり
秋になったある日。
子どもを寝かしつけようとしていると、ケージにいたヒナがフローリングをつかつかと爪で鳴らしながら、ゆっくりと私たちのいる寝室に向かって歩いてきた。
まず子どもたちを寝かせ、その後ゆっくり対応しようと思った私は、「あとで行くからね」とヒナを抱き上げ、ケージに戻した。
ヒナは再びケージから出て、またこちらに向かって2,3歩歩いてから、その場でうずくまっていた。
私はただただ、早く子を寝かしつけることに必死だった。
1日を効率よく、段取り良く回すこと。
子どもが起きている間の喧騒を早く終わらせること。
毎日、そのことで頭がいっぱいだったのだ。
寝かしつけを終えて、ヒナのもとに駆け付けた。
その時、初めて気づいた。
彼女は身を横たえて亡くなっていた。
まさかこちらに歩いてきたのが最後になるなんて、思わなかった。
ほどなくして後悔の念が押し寄せ、悲しくて辛くて大号泣した。
数か月前に両親を亡くした時の何倍も何倍も泣いた。
全てが終わった気持ちになった。
最後、私の方に向かって歩いてきたのに、なぜ抱いてあげずに、ケージに戻してしまったのだろう。
死ぬ前に連れ戻されて、どんなに悲しかっただろう。
高齢で、病気で、主も失くして慣れない我が家にやってきたのに、なんで私は怒ってばかりで、優しく介護してあげられなかったんだろう。
振り返ると、そもそも子犬だったヒナを迎えることになったのは、当時学校に行けなかった高校生の私が、家にいても寂しくないようにという理由からだった。
そして、両親をほぼ同時に亡くすという辛い状況の中でも、自分を保ち、日々を送ることができていたのは、残されたヒナの面倒を見ないといけない、そして生まれた我が子を育てなければならないという責任感のみであった。
ヒナはその存在をもってして、私を支えてくれていた。
そのヒナが亡くなった。両親も死んだ。私は家族を、見送った。
泣いても泣いても後悔は消えず、その気持ちをどうしたらいいのか、私は全く分からなかった。
未だ尽きぬ思い
毎日、仏壇の両親と、ヒナの写真に手を合わせる。
父に対しても、ヒナと同様に後悔がある。
闘病の長かった母には、近い将来に最期の時がくることを覚悟しながら、
8年間の闘病を共に歩んだ。
亡くなる間際も、手を握り、見送ることができていた。
しかし、まさか母より先に父が死ぬと思っていなかった。
配偶者が入院し、弱気になる父に、私はいつも
「母が大変な時なのに、もっとしっかりしてよ」
と冷たく怒ってばかりいた。
エアコンのリモコンが壊れて寒かった時、父はどんな気持ちで私にメッセージを送っていたのだろう。
妻が長期入院し、娘の私にも叱られ、一人で寒さに震えているとき、その寒さは、やがてくる別れの寂しさと相まって余計に身に堪えたのだろう。
そんな時、いつも一緒に寝ていたヒナのぬくもりだけが、癒しに思えたのかもしれない。
母が入院してから、ずっとヒナと肩を寄せ合い、寂しさに耐えていたのかもしれない。
私はよく、目の前の私たちのことも見てよと父に伝えていた。
生前父は叔母に、
「2人目を妊娠したらしいから、手伝ってあげないと。今度は母親がいないから。」
「しっかりしてよって怒られたんだ」
と語っていたという。
冷たい言葉をかけ続けていたにもかかわらず、最後はちゃんと孫のことを考えてくれていた。
そして自宅で一人、亡くなってしまった。
自分の父がいわゆる孤独死で亡くなるとは思っていなかった。
最期のとき、父はどんな様子だったのだろう。
何を思っていたのだろう。
その瞬間を知るのはヒナだけだ。
きっと彼女も怖くて寂しい気持ちで、その時、居合わせていたに違いない。
決して起きて来ない主を見て、2日間、どんな気持ちで過ごしたのだろう。
父は、ヒナは、私を恨んではいないだろうか。
もう一度会いたい気持ちと、寂しい気持ちと、後悔の気持ちと、申し訳ない気持ち。
今でも、思い出すだけで胸がきゅっとなる。
両親が他界したとき、お腹の中にいた娘はこの春、小学1年生になった。
なかなか前向きに受け止められぬまま、今年も私はその死を悼んでいる。
