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「正しい支援者」でいたい

私の大学は福祉系の大学だ。そこでは日々、福祉の理念や制度、そして「支援の仕方」について学ぶ。今日は、その支援の仕方について、私が日頃から感じている葛藤と本音を書いていきたい。

援助関係において重要視されているものに「バイスティックの7原則」というものがある。 ①個別化、②意図的な感情表出、③統制された情緒的関与、④受容、⑤非審判的態度、⑥自己決定、⑦秘密保持の7つだ。(詳しい内容は本やネットの方が正確なので、そちらを見てほしい)

今日言及したいのは、この中の「非審判的態度」についてだ。

まず簡単に説明すると、「援助者の価値観や倫理観を押し付けたり、クライエントを一方的に非難したり、判断したりしない」という原則である。これはクライエントに対するソーシャルワーカーの援助姿勢として、基本中の基本とされる態度だ。

真面目なソーシャルワーカーであるほど、自分の考えや言動が審判的態度になっていなかったかを振り返る「自己覚知」を行う。だが、実はそれが「自分自身を審判すること」に繋がりやすいというパラドックスがある。

言い換えれば、非審判的態度が実現されているかどうかについて、極めて審判的態度に陥りやすいのだ。

それは強い正義感の中から生まれてくる。「相手を裁かないぞ!」と決意して、「今の自分の発言、ジャッジしてなかったかな?」と自分を見張る。しかし、その見張りが次第に厳しくなりすぎて、「あぁ、またジャッジしてしまった。自分はワーカー失格だ」と、今度は自分自身を裁き始めてしまうのだ。

魔法の杖か、自分を刺す凶器か

この非審判的態度の問題点は、強いて挙げるなら2つある。

一つ目は、「優しい職員ほど燃え尽きる」ということだ。 大学では自己覚知がまるで魔法の杖かのように教えられるが、時としてそれは自分を追い込むための凶器にもなる。人間だもの、どうしても利用者の言動にイラッとしてしまう時はある。そんな時、「非審判的態度」という理想が高ければ高いほど、『イラついた自分』を許せなくなって、結局ワーカー自身の心が死んでしまう。

もう一つの問題は、これが結局のところ「ワーカーの自己満足」の延長線上にあるということだ。 大学では「自己覚知が大事だ」と耳にタコができるほど言われるけれど、結局それって、ワーカーが「自分は清廉潔白な援助者だ」と安心したいだけのエゴなんじゃないか。

自分が自分を裁くことに必死になっている時、視線はクライエントじゃなく『自分の内面』に向いている。それって、相手を完全に置き去りにした独り相撲ではないだろうか。

私自身、似たような経験がある。 私は基本メモ魔で、上司の発言をよく聞くようにしている。あるとき、上司と別の職員が会話をしていて、自分は上司の発言が面白いと思い熱心にメモを取っていた。すると後になって、その職員の人から「周囲にわかるようにメモをするのはやめてほしい」と指摘された。

私はもちろん「悪いことをしてしまった」と猛反省した。だが、その時の自分の思考を振り返ると、「相手がどう感じたか(相手への関心)」ではなく、「自分はなんであんなことをしてしまったのだろう」という、自分にしか関心がいっていなかったのだ。

「良心的エゴイズム」というタチの悪い病

では、こうした独りよがりな罠に陥ってしまった場合、どうすればいいのか。 米村美奈氏は著書『臨床ソーシャルワークの援助方法論―人間学的視点からのアプローチ』の中で、次のように述べている。

「そうした困難を乗り越えるためには、ソーシャルワーカーが自分自身へ関心を向けることから自由になること、すなわち「良心的エゴイズム」を乗り越えることが大切な条件となるといえよう」

要するに、「正しくありたい」「良い支援者だと思われたい」「ジャッジしない自分でいたい」という、誠実さゆえの執着を手放そうということだ。

余裕がなくなった時に出てくる本音を『不適切だ』と断罪して、自分を『審判』し続ける。そんなことをしていたら、いつか心が燃え尽きてしまう。

むしろ、『あぁ、自分は今、この人をジャッジしてるわ。人間だもんな』って適当に受け流せるくらいの方が、結果的に相手を追い詰めない『非審判的な支援』になるのではないだろうか?

結局、支援者が『いい人』でいようとするのをやめた時、初めて支援が始まるのだと思う。

以前、バイト先の「優しい職員」が、実は利用者の自立を奪っているんじゃないかと疑問に思ったことがあった。あの職員たちは、まさに「自分への関心(=私は優しい、良い職員であるという自己像)」から自由になれていない典型例だったのかもしれない。

著者が言う『良心的エゴイズム』って、つまり『自分の良心を傷つけたくないから、目の前の相手に迎合する』という身勝手さのことではないだろうか。

自分の内面を凝視して「私は非審判的だろうか?」と悩むのは、一見すると謙虚だが、実は『クライエントよりも、自分の魂の清らかさ』を優先している。そんな『綺麗な支援者』でいるための努力なんて、利用者からすれば知ったこっちゃないはずだ。

本当の意味で『自由』になるっていうのは、『たとえ自分が審判的だと思われようが、嫌われようが、今この瞬間にこの人に必要な関わりは何か?』に全振りできる図太さを持つことではないだろうか。

綺麗なプライドを捨てる

この良心的エゴイズムは私自身にも痛いほど当てはまることだから、完全なる自虐だと思って聞いてほしいのだが……良心的エゴイズムに陥っている人ほど、一番タチが悪いタイプである。

『私はあなたのことを思って、こんなに悩んで、こんなに自己覚知を頑張っているんです!』というオーラを出す援助者ほど、実は利用者を見ていない。見ているのは鏡に映った『悩んでいる健気な自分』だけだ。

つまり、求められているのは「立派なソーシャルワーカーになりなさい」ということではない。『立派なワーカーだと思われたいという、その薄汚いプライドを今すぐ捨てろ』と突きつけられているわけだ。

余談として

余談だが、この「良心的エゴイズム」を提唱したのは早坂泰次郎氏という方だ。その方の本を大学の図書館から借りて何冊か読んでいるが、良心的エゴイズムについて書かれてはいたものの、それを脱出するための「即効性かつ簡単な方法」については書かれていなかったと記憶している。

それに、このブログを書いている筆者も21歳の世間知らずの大学生だ。そんな簡単に答えがわかるわけがない。

教条主義(権威ある人の言葉をうのみにする考え)や、経験主義(自分の少ない経験や体験に固執する考え)に陥らないように、現場を通して自分が腹落ちする解決策を見つけていきたい。

だが、それにはまだまだ時間がかかりそうだ。

【参考文献】
・中央法規出版株式会社「わかる!受かる!社会福祉士国家試験合格テキスト2026」P.460
・米村美奈「臨床ソーシャルワークの援助方法論ー人間学的視点からのアプローチ」

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