Netflixで『清洲会議』を観てみた
清洲会議のことが気になって、Netflixで映画『清洲会議』があったので観てみた。
三谷幸喜監督『清洲会議』
丹羽長秀が重要ポイントとなっていた。
今夜9時
— BS日テレ【磯田道史の歴史をゆく】番組公式 (@rekishiwoyuku) April 29, 2026
『豊臣秀吉 天下統一の瞬間』
岩崎城の戦いを徹底調査
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▽家康を救い歴史を変えた悲劇の16歳武将
▽特別潜入❗️
痕跡残る空堀の内部へ
▽戦に負けて政治に勝った秀吉
官位に関する政治工作とは
▽歴史を左右した大地震…
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小牧長久手の戦いの時では丹羽氏重が重要ポイントとなっていた。
丹羽氏・・・あんまり知らない💧
歴史好きだけど、そこまで心底の歴史オタクではないので、さらりとしか知らない💧
磯田道史先生の歴史オタクぶりは素晴らしい✨
丹羽長秀と丹羽氏重の血縁関係は?
丹羽長秀と丹羽氏重(岩崎丹羽氏)に、直接の血縁関係はありません。名字は同じですが、家系が異なります。
* **丹羽長秀**:児玉党の系統とされる「児玉丹羽氏」
* **丹羽氏重**:足利一門の一色氏の系統とされる「一色丹羽氏(岩崎丹羽氏)」両家は全く別のルーツを持つ家系として扱われています。
児玉丹羽氏とは?
「児玉丹羽氏(こだまにわし)」は、武蔵七党の一つである**児玉党**を源流とする**丹羽氏**のことです。一般的に有名な織田信長の重臣・**丹羽長秀**を輩出した家系として知られています。主な特徴は以下の通りです:* **出自:** 武蔵国(現在の埼玉県・東京都付近)を本拠とした武士団「児玉党」から分かれ、尾張国(愛知県)に移り住んだとされています。* **著名な人物:** 丹羽長秀。彼は織田政権で「米五郎左」と称されるほど重用され、後に近江佐和山城主や越前北ノ庄城主となりました。* **その後:** 長秀の三男・丹羽長重の代に陸奥二本松藩(福島県)の藩主となり、幕末まで存続しました。良斎(りょうさい)流など他の丹羽氏と区別するために、家紋の「本」の字(児玉党の象徴)や系譜から「児玉丹羽氏」と呼ばれます。
織田四天王とは?
織田四天王(おだしてんのう)とは、織田信長に仕えた家臣の中でも、特に功績が顕著で中心的な役割を果たした4人の武将を指す呼称です。一般的には以下の4人を指します。
1. **柴田勝家**(筆頭家臣、「権六」)
2. **丹羽長秀**(「米五郎左」)
3. **滝川一益**(「進むも退くも滝川」)
4. **明智光秀**(「惟任日向守」)
これに**羽柴(豊臣)秀吉**を加えて「織田五大将」と呼ぶこともあります。彼らは信長の天下統一事業において、各地の方面軍司令官として軍事・政治の両面で活躍しました。
織田四天王の一人である明智光秀が謀反を起こしたから、明智光秀を討った羽柴秀吉が入り込んだわけか。
発言権を持ったんだな。
なら、何故、滝川一益は会議に遅れたのだろう?
滝川一益が清洲会議に間に合わなかった理由は?
滝川一益が清洲会議に間に合わなかった主な理由は、**神流川(かんながわ)の戦いでの敗北と、その後の撤退に時間を要したため**です。
1. **本能寺の変直後の状況**: 当時、一益は上野国(現在の群馬県)におり、関東の攻略・統治を任されていました。
2. **北条氏の侵攻**: 信長の死を知った北条氏政・氏直軍が、一益の領地に攻め込みました。一益はこれを迎え撃ちましたが、神流川の戦いで大敗を喫しました。
3. **退却の難航**: 敗戦後、一益は伊勢(三重県)の本拠地を目指して退却しますが、信濃や飛騨を経由する険しいルートを通らざるを得ず、清洲会議が行われた1582年6月27日までに清洲城へ到着することができませんでした。この遅刻により、一益は織田家の宿老でありながら清洲会議への参加権を失い、その後の権力争い(羽柴秀吉の台頭)において大きく出遅れることとなりました。
そうなんだ〜。
ん?なら、池田恒興がどうして入ってるの?
池田恒興がなぜ清洲会議に入っているのか?
清洲会議に池田恒興が宿老の一人として参加した主な理由は、以下の3点に集約されます。
1. **山崎の戦いでの功績**:本能寺の変の後、羽柴秀吉と共に明智光秀を討った「山崎の戦い」で大きな軍功を挙げたことが最大の理由です。
2. **織田家との深い縁故**:恒興の母が織田信長の乳母であったため、信長とは「乳兄弟」の間柄にありました。この血縁に近い信頼関係から、織田家内での地位が非常に高かったのです。
3. **勢力バランス**:柴田勝家・丹羽長秀に次ぐ実力者であり、会議を主導したい秀吉が、自分に近い立場をとる可能性のある恒興をメンバーに加えるよう働きかけたという側面もあります。
結果として、勝家(2票:勝家・滝川一益の代理)対 秀吉(3票:秀吉・長秀・恒興)という構図を作る上で、彼の存在は決定的な役割を果たしました。
清洲会議参加者で生き残った人は?
清洲会議の主要な出席者4名のうち、最も長く生き残ったのは**羽柴(豊臣)秀吉**です。それぞれの没年は以下の通りです。
1. **羽柴秀吉**:1598年没(病死)
2. **丹羽長秀**:1585年没(病死)
3. **池田恒興**:1584年没(小牧・長久手の戦いで戦死)
4. **柴田勝家**:1583年没(賤ヶ岳の戦いに敗れ自害)会議の翌年には柴田勝家が滅び、最終的に秀吉が天下を統一する形となりました。
清洲会議の時、徳川家康はどうしていた?
清洲会議(1582年)が行われていた当時、徳川家康は会議には出席しておらず、**旧武田領(甲斐・信濃)の平定**に注力していました。主な状況は以下の通りです。
1. **「伊賀越え」直後:** 本能寺の変の際、堺にいた家康は命からがら三河へ帰還(伊賀越え)したばかりで、まずは自国の体制を立て直す必要がありました。
2. **天正壬午の乱:** 織田家の支配が空白となった旧武田領を巡り、北条氏や上杉氏と争っていました(天正壬午の乱)。この領土拡大の好機を優先したため、清洲会議で織田家の後継者争いに関与する余裕がなかったと考えられています。
3. **静観の構え:** 結果として、家康は羽柴秀吉と柴田勝家の対立を静観する形となり、後に秀吉が台頭する中で独自の勢力を築いていくことになります。
堀秀政って何者?
堀秀政(ほり ひでまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名です。織田信長と豊臣秀吉の二人に重用されました。主な特徴は以下の通りです。
* **「名人久太郎」**: 通称の久太郎と、軍事・政治・茶の湯など何事も完璧にこなす多才ぶりから「名人」と称えられました。
* **信長の寵臣**: 若くして信長に仕え、側近(小姓)から軍事指揮官へと出世しました。信長からの信頼が非常に厚かったことで知られています。
* **秀吉政権の柱石**: 信長の死後は豊臣秀吉に仕え、山崎の戦いや小牧・長久手の戦いなどで大きな功績を挙げました。
* **早すぎる死**: 秀吉による天下統一の総仕上げとなった「小田原征伐」の陣中で、38歳の若さで病死しました。もし長生きしていれば、徳川家康に匹敵するような有力大名になったのではないかと言われるほど、当時の武将たちから高く評価されていた人物です。
三法師のその後は?
三法師(後の織田秀信)のその後について、主な流れは以下の通りです。
1. **家督継承と岐阜城主** 清洲会議で織田家の後継者に選ばれた三法師は、元服して織田秀信と名乗り、美濃国岐阜城主として13万石を領しました。
2. **関ヶ原の戦いでの敗北** 1600年の関ヶ原の戦いでは石田三成(西軍)に味方しましたが、福島正則ら東軍の猛攻を受け、岐阜城は落城しました。
3. **追放と最期** 戦後、徳川家康によって死罪は免ぜられたものの、高野山へ追放(改易)されました。その後、1605年に26歳の若さで亡くなりました。自害説や病死説がありますが、詳しい死因は分かっていません。これにより、織田信長の嫡流としての織田家宗家は断絶することとなりました。
織田三十郎信包の立場は?
清洲会議における織田信包(三十郎)の立場は、主に以下の通りです。
1. **織田一族の代表・後見役** 信長の実弟として、会議に参加しました。宿老(柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興)による合議が中心でしたが、信包は一族の長老的な立場でこれに立ち会いました。
2. **三法師の後見人** 会議の結果、信長の嫡孫である三法師(後の織田秀信)が家督を継ぐことになると、信包は三法師の後見人に指名されました。
3. **秀吉への協力姿勢** 当初は織田信孝(信長の三男)を推す動きもありましたが、最終的には秀吉が推す三法師を支持する立場をとり、秀吉の主導権確立を容認する形となりました。一族の中では中立的、あるいは秀吉に近い立場をとることで、織田家内での地位を維持しました。
織田信孝のその後は?
織田信孝(織田信長の三男)の清洲会議以降の動向は以下の通りです。
1. **清洲会議と対立**: 本能寺の変の後、後継者を決める清洲会議で柴田勝家から推挙されましたが、羽柴(豊臣)秀吉が推す三法師(織田秀信)に敗れました。
2. **挙兵と敗北**: 秀吉への不満から柴田勝家や滝川一益と結んで挙兵しましたが、1583年の「賤ヶ岳の戦い」で勝家が自害。孤立した信孝は、岐阜城を兄・織田信雄の軍に包囲され降伏しました。
3. **最期**: 降伏後、尾張国知多郡の野間(現在の愛知県美浜町)に送られ、秀吉の命を受けた信雄によって切腹を命じられました。享年26。辞世の句には、秀吉への激しい恨みが込められていたことで知られています。
織田信雄のその後は?
織田信雄(信長の次男)のその後の歩みは、波乱に満ちながらも最終的には大名として生き残るというものでした。主な流れは以下の通りです。
1. **秀吉との対立と臣従** 本能寺の変後、一時は徳川家康と結んで羽柴(豊臣)秀吉と戦いますが(小牧・長久手の戦い)、単独で和睦し秀吉の家臣となりました。
2. **改易と流罪** 1590年の小田原征伐後、家康の旧領(東海地方)への転封を拒否したため、秀吉の怒りを買い改易(領地没収)され、下野国(栃木県)などに追放されました。
3. **復帰と関ヶ原の戦い** 後に赦免され、秀吉の御伽衆(相談役)として復帰します。しかし、1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に内通した疑いをもたれ、再び改易されました。
4. **大坂の陣と晩年** 豊臣家と徳川家の緊張が高まると大坂城に入りますが、冬の陣の直前に城を脱出して徳川方に降伏しました。戦後、家康から大和国宇陀(奈良県)や上野国小幡(群馬県)などに5万石を与えられ、再び大名に返り咲きました。
5. **最期** 1630年に京都で73歳の生涯を閉じました。彼の血筋は、江戸時代を通じて大和宇陀藩や丹波柏原藩などの藩主として幕末まで存続しました。信長の息子たちの中で、唯一大名として明治維新まで家系を繋ぐことに成功した人物です。
勉強になった〜♪︎ヽ(*´∀︎`)ノ
織田信長にはたくさんの子どもが居たのに、何故、その後が続かなかったのかなって、ずっと疑問だったんだよね。
織田家の家督争いの清洲会議。
その後も家督争い。
それを上手く利用したのが、豊臣秀吉。
今更、納得(*´ー`)ゞ
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の誰が好きかと言われたら、迷わず、織田信長🩷
好きの順番は1️⃣織田信長2️⃣豊臣秀吉3️⃣徳川家康。
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