演出についての往復書簡———5通目 『恋人たち』大ちゃん→四世
四世さん、こんにちは。
お待たせいたしました。今回は、「2010年代以降の日本映画」の中で、自分の映画作りにおいて最も影響を受けた作品のひとつである『恋人たち』を選びました。確か本作を初めて観たのは、コロナ禍真っ只中の2020年だったはずです。
当時、本作を観た僕は「本当に傷ついた人にしか撮れない映画」だと感じました。橋口亮輔が、実人生でかなり苦労をしてきた人物であることを後から知り、当時抱いた直感は結果的に間違っていなかったと言えるかもしれません。「傷ついた人にしか撮れない映画」と感じたということは、当時(あるいはそれ以前)の自分がそれなりに荒んでいたことを示すことになるので、少し恥ずかしさもありますが、「映画は感情を動かしてなんぼ」という考えは、『恋人たち』からの影響が大きいと思います。
今回、久しぶりに鑑賞して、やっぱり感動してしまいました。なぜ、本作を観て「本当に傷ついている人にしか撮れない映画」と感じたのか、それは演出によってもたらされたものなのか、考えていこうと思います。
俳優自身の名前と役名
くどいようですが、「本当に傷ついた人にしか撮れない映画」と感じたということは、「登場人物が本当に傷ついている」ように見えたということだと思います。リアリティラインは、映画によって様々ですが、本作は「オリンピック開催による突貫工事の弊害」といった具体的な事象に触れられている通り、リアリズムに則した作風と言えるでしょう。
そういった点では、前回便りを交わした『昼も夜も』とは対照的な作品かもしれません。『昼も夜も』のように、映画でしかありえない“運動”を捉える試みにも勇気がいりますが、『恋人たち』のように、人物が実在している手触りを目指すことも、誤魔化しが効かないという点では、難しくて勇気がいることだと思います。正直に言えば、今までの自分はこのようなリアリズムを避けてきたきらいがあるので、久しぶりに観てぐさぐさきたような気もします。
本作の人物に実在感をもたらすための手段として、俳優の名前に近い役名を付けています。篠原篤には篠塚アツシ、 成嶋瞳子には高橋瞳子、黒田大輔に至っては役名もそのまま黒田大輔です。ワークショップをきっかけに作られた本作の成り立ちを考えると、虚構と現実の境目を少しだけ曖昧にするというのは、有効なのだと思います。特に篠原演じる篠塚は、役名の虚と実を曖昧にしたことで、居たたまれなくなるほど「傷ついた人」として説得力がもたらされていると感じました。
ただ一方で、人物と役が一体化した先に、身体のコントロールが効かなくなることはあり得そうです。
では、『恋人たち』は、虚構の世界に現実の人物を押し込んでいくことで、俳優を邪険に扱っているのかというと、そうではないと感じました。この点については、後述するとして、四世さんは映画の役名についてどのように考えていますか?名前をつけてやる行為それ自体にどことなく気恥ずかしさを感じるし、役名にどこまで意味を付与するかも悩みどころです。
僕の場合は、ある程度普遍性がありながら、自分の近しい知り合いにはいなくて、発話が複雑にならない語感、といった感じでしょうか。企業秘密もあるでしょうから、言える範囲で四世さんの役名についての考えを聞いてみたいです。「見えたものと聞こえたもの」について思考を巡らせる、本企画の趣旨から少し外れてしまったような気がするので、ここからは映画本編の話に入っていきます。
カメラの近さ
本作は、何やらしどろもどろに独白をしている篠原篤のクローズアップから始まります。まず、単純にその近さに驚く一方、確かにカメラを近くに置きたくなる顔をしていると思いました。なんというか、放っておけない顔をしているなと。
あまりにも手垢がついた言葉の引用になりますが、チャールズ・チャップリンが「人生はクローズアップで見たら悲劇で、ロングショットで見たら喜劇である」という言葉を残しました。劇中で最も悲劇的な背景を抱えている篠原に対して、カメラを近くに置くという選択はとても合理的です。これをもって、説明的かつ感傷的過ぎるという指摘は確かにできそうですが、物語を語っていくために、感情移入すべき対象をわかりやすく示すことも重要だと思います。
ただ、篠原に対して無闇矢鱈とカメラを近づけているかというと、そうではありません。役場の職員を演じる山中崇との会話の際には、受付口という境界を提示した上で、それぞれを断絶するような切り返しショットが選択されていました。そして、この一連のやり取りが終わったあとの、篠原の「ままならなさ」と形容するほかない、フレームアウトするのかしないのか、そのもどかしい佇まいに僕は胸を打たれました。
本作で、もどかしさが定着している篠原の佇まいについて、もう少し書かせてください。序盤で篠原が、帰宅後に独り言を呟きながら、部屋に置かれている衣類やペットボトルを蹴り散らかすシーンです。このシーンこそ、クローズアップで感傷的に撮ってしまいそうですが、少し引いたバックショットで、控え目に八つ当たりを続ける篠原を捉えています。
何を隠そう、僕はこのシーンを見て、「本当に傷ついている人にしか撮れない映画」だと感じました。壁を殴って穴を空けるでもなく、隣人に訝しまれるほど大声を出すわけでもない。でも、とにかく世の中の摂理に納得がいっていない、ままならない身体がそこにあります。振り返ると、感傷的な顔を捉える場面と、ままならない身体を捉える場面を巧妙に使い分けている映画だと実感しました。
そして、本作のクライマックスと言える、篠原が亡き妻に対して思いを吐露する場面。ここで、篠原の視界に入る場所へカメラを置く橋口亮輔の度胸に恐れ入りました。死者に対して泣き顔で思いの丈を述べるシーンを、これほどまっすぐ撮るのか...。言ってしまえば、観客に対して芝居の甲乙が如実に伝わってしまうカメラポジションで、このような芝居を課すことは、かなりの賭けではないでしょうか。
でも、その賭けはこれまで適切な位置にカメラを置いてきた、という確信があってのことなのでしょう。観客の感情を最も動かしたい場面に備えて、適宜カメラポジションを決めていく。映画監督のひとつの仕事を見せてもらったような気がしました。
さて、ここで四世さんにひとつ質問です。この篠原が独白する場面、僕はあの襖を越えるシーンがないことに少し驚いたのですが、四世さんなら襖を越境するシーンを撮りますか?本番テイクとして撮影し、さすがに感傷的過ぎると編集上でカットしたこともあり得ると思いますが、良ければ四世さんの見解をお聞かせください。
喜劇と悲劇の移ろい
チャップリンのベタな名言を迂闊に引用しましたが、『恋人たち』を面白くしているのは、重苦しい篠原のパートとは裏腹に、成嶋と池田視点のパートではコメディタッチに撮る采配にあると思います。
2人に比べてスマートな佇まいかつ弁護士という仕事柄である池田に対し、カメラと距離を置くという選択は頷けます。となると、作品全体のバランスを担っているのは成嶋と言えそうです。家庭がありながらも、皇室中継を部屋で1人で見る姿を見るにつけ、作り手側は、成嶋を感情移入の対象と見なしていると考えられます。
しかし、映画を見進めていくと、成嶋に対して極端なロングショットもクローズアップも使っていないように思いました。彼女が、本作を悲劇と喜劇の間を繋ぎとめる役柄として機能し得ると、橋口亮輔が判断した、ということでしょうか。
そう考えると、作品全体を通しても、ひとつの場面の中で、喜劇と悲劇の境界を越えていく場面が散見されているように思えてきました。リリー・フランキーから愛のある説教(という名の痛々しい誤魔化し)を受けている篠原に対して、ロングショットから徐々にズームで迫っていくカメラワークも印象的で、終盤の成嶋と池田の独白は、少し引いたアングルからほぼ同軸に繋ぐクローズアップでした。これは、本作で喜劇と悲劇の境界を渡り歩き、140分という比較的長尺の物語を、きちんと観客に届ける手段を模索した結果なのかなと思いました。
思えば、今作の篠原に、救いというにはささやか過ぎるけれども、温かいユーモアが注がれた「うちのお母さんが家で一緒にテレビ見ようって言ってましたよ」というあの名(迷)言の直前のショットを思い出してください。防波堤に座り込む篠原をロングショットで捉えています。ここでも、悲劇から喜劇への軽やかな越境がなされていると思い、今回の再見で最も感動しました。先述した、篠原の亡き妻への心情を述べてから、職場で開催されるBBQでは、画面の奥に位置する防波堤に篠原が座っているさまに、安堵と共に落涙したことはここだけの話です。
俳優を守ること
このように、作り手による演出(コントロールとも言えるかもしれません)が施されている映画ですが、少なくとも僕にとって『恋人たち』は、全く作り物に見えませんでした。それは、大雑把なまとめに入ってしまいますが、俳優との信頼関係にあると言えそうです。
『恋人たち』はワークショップを経て制作に入っているため、一定の信頼関係を結んだ上で成り立っている作品ではあるのだと思います。冒頭に述べた、俳優の名前と役名を近づける手段も、そのひとつと言えそうです。監督と俳優がどのように信頼を結んでいくかを、観客の立場からは見えたものによって想像するしかありません。ただ、ひとつ印象的なシーンがありました。
篠原が自宅の浴室で、自傷行為に至るシーンです。荒々しい手持ちカメラで浴室に向う篠原を捉えていると、やおら篠原が振り返り、手に持った剃刀を手首に当てます。自宅でままならない身体を晒しながら、物に当たっていた篠原と比べてみると、いささか段取り臭さを感じませんか?
ここで、僕の擁護にも近い推測をさせてもらうと、浴室まで向う篠原に対して、最低限の大まかな動きしか指示していないように見えました。手持ちカメラは、俳優の想定外の動きに反応できる利点があると思います。
しかし、この振り返りによってその利点が消失してしまっている、と感じました。やや強引な推測なのですが、篠原が役と現実世界の境界の一線を越えてしまわないように、剃刀をとったら必ずカメラの方へ向くように指示をしていたのではないでしょうか。
いくら「本当に傷ついた人」を描くためとはいえ、本当に俳優の身体に傷を負わせる必要はありません。危険行為に発展しないよう、篠原の状態をスタッフが目視できる動線にした、というのが多少無理筋ではありますが、この不自然な動きの真相かもしれません。
と言っても、僕の推測が正しいか否かは、さほど問題ではなくて、俳優が安全に撮影に臨めるだけの環境を整える必要があるという話です。自分が映画を撮るとなれば、予算上、スペクタクルを捉えることは(何をスペクタクルと定義するかという問題はありますが)、叶いません。となれば、俳優との親密な共同作業は不可欠になります。久しぶりに『恋人たち』を鑑賞して、物語を観客に届けること、俳優を守ること、について考えるきっかけになりました。
色々書き連ねてきましたが、なんにせよ一番気になるのは、『恋人たち』を初めて観られたという四世さんの率直な感想です。橋口亮輔といえば、『ハッシュ!』と『ぐるりのこと。』がリバイバル上映されますし、映画館で観てみると、改めて発見があるかもしれません。いくつか質問を投げかけさせてもらいましたが、可能な範囲でお答えいただければ…!
それでは、お返事を楽しみにしています。
大ちゃんより
大ちゃんのPodcast番組「シネマの前で論じること」
四世さんのPodcast番組「D2シネマトーク」
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