保護とは驕りなのか、それとも欲なのか

副題:弱肉強食の世界で、人間はなぜ守る対象を選ぶのか

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序章

守るという言葉の濁り


自然保護という言葉には、どこか清らかな響きがある

失われそうな命を守る

絶滅しそうな生物を残す

壊された自然を回復する

未来の世代へ引き継ぐ

そう言えば、たしかに美しい

けれど、その言葉を少し深く見つめると、そこには濁りがある

なぜなら、保護とは選ぶことだからだ

すべての命を守ることはできない

すべての自然を元に戻すこともできない

すべての川を清流へ戻すこともできない

すべての生物の生息地を維持することもできない

だから人間は選ぶ

この生物は守る

この環境は残す

この場所には予算をつける

この命には名前を与える

この存在には看板を立てる

では、選ばれなかったものはどうなるのか

見えないまま消えていくのか

名づけられないまま失われていくのか

そこにあるのは善意だけではない

倫理だけでもない

制度だけでもない

そこには、人間が自然を守るときですら、何かを選別しているという事実がある

保護とは救済である

けれど同時に、選別でもある

さらに言えば、保護とは驕りでもあり、欲でもある

人間が守る対象を選ぶ以上、そこには選別者としての驕りがある

しかし、人間が守ろうとする以上、そこには失いたくないという欲もある

ここでいう驕りとは、保護する人間が傲慢な性格であるという意味ではない

限られた知識しか持たない人間が、それでも何を残すかを選ばざるを得ない構造のことである

また、ここでいう欲とは、利己的な利益だけを意味しない

失いたくない、償いたい、残したい、共に生きたいという願いまで含めた、人間を行為へ向かわせる力のことである

保護とは、汚れなき善ではない

守りたい欲が、選ぶという驕りをまとって、自然へ手を伸ばす行為なのかもしれない

この矛盾から逃げずに考えてみたい

保護とは驕りなのか

それとも欲なのか

そして、守られる命と見捨てられる命の違いは何なのか


第1章

弱肉強食の世界で、保護は不自然なのか


自然界は、やさしさだけでできているわけではない

食べるものがいて、食べられるものがいる

増えるものがいて、消えるものがいる

環境に適応するものが残り、適応できなかったものは姿を消す

その意味では、自然界には冷たさがある

弱肉強食という言葉は単純すぎるかもしれない

けれど、命が命を押しのけながら続いてきたことは確かだ

ならば、人間がある生物を守ることは、自然の流れに逆らう行為なのではないか

消えるものは消える

残るものは残る

それが自然の摂理なのだとすれば、人間がこれは守るべきだと決めることには、たしかに驕りがある

人間は神ではない

自然全体を見渡すこともできない

すべての因果を理解しているわけでもない

それなのに、この種は守るべきだ、この川は残すべきだ、この森は価値があると判断する

そこには、自然の外側から自然を裁いているような視線が混じる

保護には驕りがある

この指摘は避けられない

自然のままに任せればよい

人間が余計なことをするべきではない

そう言いたくなる感覚もわかる

けれど、ここで立ち止まる必要がある

本当に人間は、自然の外側から余計なことをしているだけなのだろうか

それとも、人間はすでに自然の中へ入り込み、自然の条件そのものを変えてしまった存在なのだろうか


第2章

人間はすでに生態系に組み込まれている


人間は、自然の外側に立っている存在ではない

人間もまた、生態系の内側にいる

呼吸する

水を飲む

食べる

排泄する

住む

移動する

火を使う

土地を変える

道を作る

川を整える

森を切る

畑を作る

動物を飼う

外来種を運ぶ

排水を流す

保護区を指定する

観光資源にする

寄付を募る

無関心のまま通り過ぎる

それらすべてが、現代の生態系の一部になっている

つまり人間は、自然に介入する外部者ではない

生態系の内側に組み込まれた、影響力の大きすぎる構成要素である

ここを見誤ると、話がずれる

人間が自然に手を出すべきかどうか

その問いは、少し遅れている

すでに手は出ている

すでに生活は流れ込んでいる

すでに人間の巣は、他の生命の条件を変えている

都市も、農地も、道路も、排水も、護岸も、保護区も、観光も、制度も、もはや生態系の外側にはない

それらは自然を壊す要素であると同時に、現代の自然を構成する要素でもある

だから問題は、人間が生態系に関わるかどうかではない

人間はもう関わっている

問うべきなのは、どのように関わってしまっているのか

そして、その関わり方をどう調整するのか

保護とは、自然の外側から手を伸ばす行為ではない

生態系の内側にいる人間が、自分自身の影響を調整しようとする行為なのだと思う


第3章

人間が消えれば、自然は回復するのか


人間はすでに生態系に組み込まれている

ならば、ひとつの問いが出てくる

人間が消えれば、自然は回復するのだろうか

直感的には、そう思える

開発は止まる

排水は減る

伐採も止まる

道路は割れ、建物は朽ち、草木が戻る

たしかに、ある場所では自然は回復するだろう

人間の圧力から解放されることで、息を吹き返す森や川や湿地もあるはずだ

けれど、それは人間以前の自然へ戻ることとは少し違う

すでに外来種は入り込んでいる

川の流れは変えられている

土地の形も、水質も、土壌も変わっている

都市に適応した生物がいる

農地に依存して広がった生物がいる

人間の管理によって維持されてきた草地や里山もある

人が手を入れなければ、逆に失われる環境もある

そして、人間が自然に与える影響が大きいほど、人間が消えたときの影響もまた大きくなる

人間は自然を壊すだけの存在ではない

すでに多くの生命にとって、人間は環境条件そのものになっている

ムサシトミヨやトキのように、人間によって保護されている生物がいる

犬や猫のように、人間と共存してきた生物がいる

蚕や家畜のように、人間に依存して生きる生物もいる

人間が消えれば、ある自然は回復するかもしれない

けれど同時に、人間の保護によって支えられていた命は危うくなる

人間と共存していた生物は生活条件を失う

人間への依存度が高い生物の一部は、生活条件を失う可能性がある

それは進化論的には、大波のように押し寄せる衝撃なのだと思う

人間という巨大な環境形成者が突然消えれば、自然は静かに元へ戻るのではない

支えられていた命は崩れる

押さえ込まれていた命は広がる

都市に適応した命は居場所を失う

農地や道路や建物の跡には、別の命が入り込む

そこでは大量死が起こるだろう

支配権の変化も起こるだろう

生態系ピラミッドの組み替えも起こるだろう

人間という巨大な環境形成者が突然消えれば、生態系には大きな再編が起こるだろう。

人間に依存していた生物の一部は減少し、押さえ込まれていた生物は広がり、都市や農地には別の生物が入り込む。

その再編がどれほどの時間を要するかを、一つの数字で示すことはできない。

ただ、それは「人間以前の自然」への単純な巻き戻しではない。

だから、人間が消えれば自然は回復する、という言い方は少し粗い

自然は過去へ巻き戻るのではない

人間が消えた後の条件の中で、まったく別の自然へ再編成される

人間がいることも、自然に影響する

人間が消えることも、自然に影響する

だから必要なのは、人間が消えることではない

人間が、自分の巨大な影響力をどう扱うかである


第4章

人間はすでに盤面を変えてしまっている


もし、ある生物が自然の変化だけで消えようとしているなら、人間がそこに手を出すことはたしかに難しい問いになる

気候が変わる

川の流れが変わる

山が崩れる

天敵が増える

餌が減る

そうした変化の中で、ある生物が消えていく

それは自然の流れだと言えるかもしれない

しかし、現代の多くの絶滅や減少は、純粋な自然の変化だけでは説明できない

人間が川を変えた

森を切った

土地を開発した

水を汚した

道路を通した

外来種を持ち込んだ

生活圏を広げた

その結果として、ある生物の生きる条件が壊れていった

このとき、人間は自然の外側にいる観察者ではない

すでに盤面を変えてしまった当事者である

そのあとで、弱肉強食だから仕方ないと言うのは、本当に自然への謙虚さなのだろうか

それとも、自分たちが変えてしまった条件への責任から目を逸らすことなのだろうか

ここが重要だと思う

保護には驕りがある

たしかにある

けれど、保護しないことにもまた、別の驕りがある

人間が壊したあとで、自然に任せると言う

人間が追い込んだあとで、弱いものは消えると言う

人間が条件を変えたあとで、これは自然淘汰だと言う

それは、自然への謙虚さではなく、人間の介入をなかったことにする言葉になり得る

だから、問いは単純ではない

保護は驕りか

そうかもしれない

しかし、保護しないこともまた、責任逃れという驕りになり得る

倫理は、その両方の濁りを見たところから始まる


第5章

保護とは欲なのか


保護には驕りがある

だが、それだけではない

保護には欲もある

ここでいう欲は、利権や利益だけではない

失いたくない、残したい、償いたいという願いもまた、保護を動かす欲である

守りたい

失いたくない

後世に残したい

自分たちは倫理的でありたい

壊したことを償いたい

地域の誇りにしたい

観光資源にしたい

研究対象として残したい

自然を守る自分たちでありたい

そうした欲が、人間を保護へ向かわせる

欲という言葉を使うと、少し汚く聞こえるかもしれない

けれど、欲は必ずしも悪ではない

欲がなければ、人間は何も守らない

失いたくないという欲がなければ、失われるものに気づかない

残したいという欲がなければ、未来へ手を伸ばさない

償いたいという欲がなければ、過去の破壊を見つめ直さない

誇りたいという欲がなければ、地域の小さな存在に光を当てない

つまり、保護を動かしているのは、純粋な善だけではない

そこには、かなり混ざった欲がある

善意

責任感

罪悪感

郷土愛

美意識

研究心

制度上の都合

観光への期待

行政の実績

人間は、そうした欲の束によって守ろうとする

だから、保護の形式は驕りである

人間が守る対象を選ぶからだ

そして、保護の動力は欲である

人間が何かを失いたくないと思うからだ

問題は、驕りや欲を消すことではない

その驕りと欲を自覚したうえで、どこまで手を伸ばし、どこで止まるかを考え続けることなのだと思う


第6章

保護される命と、見捨てられる命の違いは何か


では、保護される生物と見捨てられる生物の違いは何なのか

希少性なのか

保護の難易度なのか

生態系への影響なのか

人間が壊した責任の大きさなのか

それとも、人間が物語にしやすいかどうかなのか

たとえば、世界で限られた場所にしかいない生物は保護されやすい

絶滅危惧種という名前がつけば、社会の視界に入りやすい

見た目がかわいい生物は共感を集めやすい

大きな動物は象徴になりやすい

地域の名前と結びつく生物は、郷土の宝として扱われやすい

学校教育に使いやすい生物は、未来へ残す意味を語りやすい

逆に、目立たない虫はどうか

雑草はどうか

小さな貝はどうか

微生物はどうか

嫌われる生物はどうか

名前を知られていない生物はどうか

そこにも命はある

そこにも関係はある

そこにも生態系の一部としての意味はある

けれど、人間はそれらすべてを同じ強度で守ることはできない

予算は有限である

人手も有限である

土地も有限である

関心も有限である

だから、人間は守る対象を選ぶ

これは綺麗な話ではない

けれど、避けられない現実でもある

保護とは、救済であると同時に選別である

そしてその選別には、欲が入り込む

守りたいと思えるものが守られやすい

語りやすいものが守られやすい

名前をつけやすいものが守られやすい

人間の感情に触れやすいものが守られやすい

保護は、客観的な価値判断だけで動いているわけではない

人間が価値を感じられるかどうか

そこにも左右されている

だからこそ、保護は美しく、同時に危うい


追記|では、何を基準に守るのか


保護する対象を選ばなければならないとしても、人間の好みだけで選んでよいわけではない。

少なくとも、いくつかの基準を重ねて考える必要がある。

その命が消えたとき、同じ役割を担うものが残るのか。

その命は、世界のどこかにまだ存在するのか。

減少の原因に、人間はどこまで関わっているのか。

生息環境を守ることで、他の多くの命も守られるのか。

保護によって回復する可能性はあるのか。

保護のために、別の命や人間の暮らしへどのような負担が生じるのか。

つまり保護の判断には、

生態系の中での役割
代替不可能性
人間の加害責任
回復可能性
周辺環境への波及
費用と負担の公平性

が関わってくる。

それでも、完全に公平な選択はできない。

数字だけでは測れない文化や記憶もある。

合理性だけで選べば、目立たず、役割の分かっていない命が切り捨てられるかもしれない。

感情だけで選べば、かわいく、語りやすい命だけが守られるかもしれない。

だから必要なのは、ただ正しい基準を一つ決めることではない。

どの基準によって選び、何を見落とした可能性があるのかを、公開し続けること

である。

保護の驕りを完全に消すことはできない。

だが、選択の理由を隠さず、批判と修正へ開いておくことで、驕りを管理することはできる。


第7章

人間はすべてを守れないから、象徴を選ぶ


人間は自然全体を守る神にはなれない

だから象徴を選ぶ

ある魚を守る

ある鳥を守る

ある森を守る

ある湿地を守る

ある川を守る

その象徴を守ることで、周囲の環境も一緒に守ろうとする

一種類の魚を守ることは、その魚だけを守ることではない

水質を守ることになる

水草を守ることになる

流れを守ることになる

周辺の土地利用を見直すことになる

地域の人の関心をつなぎ止めることになる

だから、象徴を選ぶことには意味がある

すべてを直接守れないからこそ、一つの生物を入口にして、環境全体を守ろうとする

これは現実的な戦略である

けれど、象徴を選んだ瞬間、象徴になれなかったものは見えにくくなる

魚の名前は看板に書かれる

しかし、その水路にいる他の生物は書かれないかもしれない

鳥はキャラクターになる

しかし、虫は嫌われたままかもしれない

森は保護される

しかし、その周辺の名もない草地は開発されるかもしれない

人間は象徴を必要とする

しかし、象徴は世界の一部だけを照らす

照らされたものの周囲には、必ず影ができる

ここに保護の苦さがある


第8章

価値と知名度の高低差


保護は、価値と知名度の高低差の狭間に生まれることがある

価値が高く、知名度も高いものは守られやすい

世界遺産

国宝

有名な絶滅危惧種

象徴的な景観

そこには人も金も制度も集まりやすい

一方で、価値が低く、知名度も低いものは保護対象になりにくい

あるいは、価値があるのに知られていないものは、知られないまま消えていく

ここに保護の難しさがある

価値があるだけでは守られない

知られなければ、社会は動かない

けれど、知られすぎれば別の危うさが生まれる

人が集まる

観光化する

消費される

踏み荒らされる

悪意の対象になる

利権が乗る

地域ブランドとして利用される

つまり、保護とは単に知らせることではない

どこまで知らせ、どこから隠すか

どこまで見せ、どこから遠ざけるか

どこまで価値化し、どこから消費化を止めるか

この距離の設計でもある

知られなければ消える

知られすぎても壊れる

保護とは、この揺れを管理する行為なのかもしれない


第9章

無関心に守られているものもある


ここでさらに苦い事実がある

あるものは、大切だから守られている

けれど、あるものは、大切さを知られていないから壊されずに済んでいる

人間の悪意は、しばしば価値あるものへ向かう

金になるもの

目立つもの

恨みを集めるもの

破壊すれば注目されるもの

社会的な意味を持つもの

そうしたものは、善意だけでなく悪意も引き寄せる

一方で、知られていないものは無関心の中に置かれる

無関心は、たしかに危険である

知られなければ守られない

消えても気づかれない

しかし同時に、無関心によって壊されずに済んでいるものもある

この矛盾は重い

保護には関心が必要である

けれど、関心は危険も連れてくる

知られることは守られることにつながる

しかし、知られることは傷つけられる可能性を高めることでもある

だから保護は、善意だけでは成り立たない

倫理だけでも成り立たない

制度だけでも成り立たない

時には無関心に守られている部分すらある

この濁りを含めて、保護の現実なのだと思う


第10章

選別する驕りと、見捨てる無責任


人間が守る対象を選ぶことには、驕りがある

この命は守る

この命は守れない

この場所は残す

この場所は諦める

そう判断する人間の姿は、どこか神のようでもある

本来、人間にそんな資格があるのか

そう問うことはできる

しかし、選ばないこともまた、現実には選んでいることになる

守らない

予算をつけない

名前をつけない

看板を立てない

見に行かない

語らない

それは、結果として見捨てることに近づいていく

だから、人間は逃げられない

守ることには、選別する驕りがある

守らないことには、見捨てる無責任がある

倫理は、そのどちらか一方に逃げることではない

自分たちの手が、どちらにしても濁っていることを知ることだと思う

保護とは、純粋な善ではない

けれど、偽善と切り捨てれば済むものでもない

それは、壊す力を持ってしまった生物が、自分たちの影響を引き受けようとする不完全な試みである


第11章

弱肉強食という言葉の限界


弱肉強食という言葉は、人間に都合よく使われることがある

強いものが残る

弱いものは消える

それが自然だ

そう言えば、何かを見捨てる理由になる

しかし、現代の自然において、強いものとは何なのか

都市化に適応できるものか

汚れた水でも生きられるものか

人間の食べ残しを利用できるものか

道路や建物の隙間に入り込めるものか

人間の生活圏に寄生できるものか

だとしたら、人間が作った環境に適応できるものだけが強いということになる

それは本当に自然の強さなのだろうか

それとも、人間が変えた盤面に適応できるかどうかという、別の選抜なのだろうか

弱肉強食という言葉は、自然の厳しさを説明するように見える

けれど、人間がすでに環境を変えてしまったあとでは、その言葉は危うい

それは自然の摂理ではなく、人間が作った条件への適応競争を、自然の摂理のように見せてしまうことがある

しかも、その人間もまた生態系の外にはいない

人間が作った環境に適応する生物が増えることも、人間の生活圏で生きられない生物が減ることも、現代の生態系の現象である

だからこそ、弱肉強食を持ち出すなら、まず問わなければならない

その強さは、どの環境で測られているのか

その弱さは、誰が作った条件の中で現れているのか

そして、その条件を作った人間は、自分もまたその生態系の一部であることを自覚しているのか


終章

保護とは、自覚された驕りと欲の管理である


保護とは驕りなのか

たぶん、驕りである

人間が守る対象を選ぶことには、選別者としての驕りがある

すべてを知っているわけでもないのに、これは守るべきだと決める

すべてを守れるわけでもないのに、ある命にだけ名前を与える

そこには、自然に対する人間の傲慢さがある

では、保護とは欲なのか

これも、たぶんそうである

守りたい

失いたくない

残したい

償いたい

誇りたい

語りたい

利用したい

そうした欲がなければ、人間は保護へ動かない

保護は、汚れなき善ではない

守りたい欲が、選ぶという驕りをまとって、自然へ手を伸ばす行為である

しかし、保護しないこともまた、別の驕りになり得る

人間が川を変え、森を切り、水を汚し、生息条件を壊したあとで、弱肉強食だから仕方ないと言う

それは、自然への謙虚さではなく、自分たちの責任から目を逸らす言葉にもなる

だから、保護を純粋な善として語ることはできない

同時に、保護を単なる驕りとして捨てることもできない

人間は自然の外に立つ神ではない

人間もまた、生態系の内側にいる

けれどその内側にいながら、自然全体の条件を大きく変えてしまう力を持った生物である

そして、その影響は人間が存在するときだけに生じるのではない

人間が消えることすら、すでに生態系にとっては巨大な変化になってしまう

だから、人間がいなければ自然は救われる、という単純な話ではない

問うべきなのは、人間がいるか消えるかではなく、人間がどのように居続けるかである

その力を持ってしまった以上、何を守るかを問わずにはいられない

そして、何を守れないかも引き受けなければならない

保護とは、救済であると同時に選別である

保護とは、驕りであると同時に欲である

選別には驕りがある

守ろうとする動機には欲がある

しかし、見捨てることにも無責任がある

その三つの間で、どこまで手を伸ばし、どこで止まるのかを考え続けること

それが、人間にできる倫理なのかもしれない

保護とは、汚れなき善ではない

濁った責任である

壊す力を持ってしまった人間が、自分もまた生態系の一部であることを忘れず、驕りと欲を自覚しながら、それでも守る対象を選び続けること

その不完全さの中にしか、人間の自然倫理は存在しないのだと思う


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