ポテトマッシャーの社会――多様性という干渉圧力
こんにちは、谷博貴です。
ここ数年、多様性って良く見聞きすると思うのですが、それって個人の内側からくる気質のようなものだと思っている方が、ほとんどだと思うんですよね。
でも今回は、個人の外側からくる多様性について書きたいと思います。
みなさん、多様性と聞いてどんなものを想像しますか?
働き方?
性別?
趣味思考?
いろいろあると思うのですが、以前の記事で多様性についてまとめたものがあるのでご紹介いたします。
さて、本題に入りますね。
ここから先は社会的圧力としての多様性の話をします。
「男は男らしくなければならない」
ってほとんどの人がどこかで見聞きした事があると思う。
「何故そんなことに従わなければならないのか」
なんて、疑問にも思わずに従っていた人だって多いと思う。
しかし時代は変わった。
今では、
「男は男らしくなければならない」という呪縛が、
「男は色白で全身脱毛していなければならない」
という呪縛に変わったように思える。
それは、
求められる一様性の中身が変わっただけで、
別に多様になったわけではない。
ということ。
もし、若者たちの「一様性へのプレッシャー」を測ることができたら、
「多様性の時代」という言葉の虚しさがわかるはずだ。
1. 多様性という名の新しい制服
現代の「多様性」は、奇妙な統一感を帯びている。
違っていいと言われながら、
「違い方」にさえ流行がある。
ジェンダー 価値観 ファッション 言葉遣い
そのどれもが、“自由”という名の新しいドレスコードに縛られている。
多様性とは、もはや解放ではなく、整列の言葉になりつつある。
人は「自由に生きろ」と言われたとき、
自由の基準を探し始めてしまう。
そして気づけば、他人の自由を模倣している。
2. 均質化のメカニズム
社会は、暴力ではなくやわらかい同調で人を均す。
かつての同調圧力は「規範」だったが、
いまは「空気」というかたちで機能する。
「空気を読め」と言われなくても、
人は読まなければ生きていけないと感じる。
この自発的な服従こそが、現代的な圧力だ。
みんなが「自分らしさ」を表現しているように見えるが、
それは“同じ方向を向いた自分らしさ”であることが多い。
SNSにおける自己表現は、
実際には模範的な他者像の再生産だ。
3. ポテトマッシャーの寓話
もし社会を一つの台所とするなら、
私たちはそこに転がるじゃがいもかもしれない。
ポテトマッシャーが押しつけられるたび、
形が整えられていく。
ゴツゴツした個性は滑らかに潰され、
丸みを帯び、
混ぜやすくなり、
扱いやすくなる。
それでも、マッシュポテトの山を見れば、
一見「均等で平和」に見えるだろう。
だがその裏で、個々の形は確実に失われている。
社会は、暴力的に人を壊すのではなく、
優しく潰すのだ。
抵抗できない柔らかさを、
“協調性”と呼びながら。
4. 柔らかい暴力と無痛の同調
現代社会の恐ろしさは、
誰も悪意を持っていないことだ。
マッシャーを握るのは“社会”という匿名の手。
押される側もまた、その一部になっている。
多様性というのは、マッシャーで潰されたポテトのことだろう。
上司が部下を潰す。
親が子を潰す。
そして、誰もが誰かの形を“整えよう”としている。
「あなたのため」と言いながら、
相手を滑らかに均していく。
そのたびに世界は扱いやすくなり、
同時に息苦しくなる。
5. 抵抗としての形
多様性が本当に意味を持つのは、
“潰されても形を保つ勇気”があるときだ。
尖っていることは、不器用で生きづらい。
けれど、その尖りがあるからこそ、
人は互いに刺さり、関わり、
世界は摩擦によって動く。
マッシュポテトは滑らかで、口当たりがいい。
だが、誰がどの粒だったかは、もうわからない。
だから、こう言いたい。
「みんなに馴染めない形で生きている」
そのこと自体が、あなたの社会批評なのだ。
結語:潰されながらも熱を保て
人間はじゃがいもと違って、
一度潰されても、また形を取り戻せる。
それが意識と意志の力だ。
押しつぶされながらも、
温かさを失わないこと。
形は変わっても、熱は伝わる。
社会がマッシャーを押しつけてくるたびに、
心の中でこう呟けばいい。
「まだ、芯が残っている」と
今日はこの辺にしておきます。
この記事では社会的圧力による多様性の話をしました。
だけど、社会的圧力の中には上の世代からの圧力も存在しますよね。
それが、老害という圧力です。
以下の記事は、そんな老いる病について考察しています。
では、老いることは悪なのでしょうか?
決してそんな事はないと考えています。
この記事では老害の必然性について書きました。
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