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【人と比較することに苦しむ全ての人へ】



副題:比較の螺旋モデル――自己・他者・時間の交点として


比較は悪いことではない。


気づけばまた、誰かと比べている。

誰にでも経験があることだと思う。

SNSを開けば、他人の成果や幸福がいくらでも流れ込んでくる。

「なぜ自分だけ、うまくいかないのだろう」

「なんであの人だけ」

そんな気持ちが頭をよぎるたび、心の中に小さな痛みが生まれる。

けれど──

人が比較してしまうのは、弱いからではない。

あなたが誰かを羨んでしまうのは、まだ世界に対する希望を失っていないからだ。

それに人間は「時間を感じる存在」である。

他者を見て自分の未来を想像し、過去を思い出して自分を測る。

比較とは、意識が時間感覚を持ちはじめた瞬間の証でもある。

また、「比較」と「承認欲求」は似ているように見えて、心理的な向きがまるで違う。

比較は自分の位置を知ること

承認欲求は自分の価値を知ること

この二つは、なかなか切り離して考えるのは難しいと思う。

でも、比較を上手く扱えるようになれば自分の理解が深まる。


比較とは、意識の螺旋である。


人は、比較する生き物だ。

他者を見て自分を測り、昨日を思い出して今日を試し、未来を想像しては落ち着かなくなる。

しかし、比較は劣等感の根ではなく、意識が世界を編みはじめるプロセスだ。

比較とは、外から内へ、そして内から再び外へと流れる意識の螺旋と言えるだろう。

その運動の中で、私たちは「自分とは何か」「他者とは誰か」「幸福とはどこにあるか」を学ぶ。

ここに、意識の成長を表す「比較の七段階モデル」がある。


第1段階|幼児的自己中心性――世界は私でできている


生まれたばかりの意識は、自分が世界のすべてだと信じている。

泣けば世界が動き、欲すれば与えられる。

世界は「私の延長」にすぎない。

この段階の「比較」はゼロであり、世界が時間を持たない完全な現在

意識の原点は、比較を知らない静止の光の中にある。


第2段階|他者との比較――優越と不安のあいだで


やがて、人は他者と出会う。

望めば叶えられる世界は、他者と出会うことで壊れる。

ご両親の存在が不安定だったり、歳の近い兄弟がいる人は比較的幼いうちに、ここに到達する。

自分ではない存在が現れた瞬間、世界はひび割れて分裂し、時間が流れ始める。

誰かと比べ、勝ち負けを測り、自分の位置を知る。

それは、自分の学力や得意・不得意を知るのに役に立つ。

少し年上の「お兄さん」や「お姉さん」に憧れている程度なら人はそこまで不幸にはならない。

似たような人生を歩んでいて、知り合った人物であれば多少の差はあれど、努力の先に同じような道に辿り着けると希望が持てるからである。

でも「比較」で悩む人の多くはここに留まっている。

原因は、資本主義の仕組みが人間の競争を利用しているからで、近年ではインターネットのなかでも特にSNSの存在が「比較」を加速させている。

本来、知り合う機会もなかったはずの他者との出会い。

それは、日本人の中で一握りの人間が見るような世界を見せつけられることで、あまりの差の大きさに人は絶望して不幸を感じることになる。

それは、比較の世界を広げ過ぎたことに他ならない。

資本主義の勝者の生活をエンタメとして享受する程度に抑えて、ご自身の身の回りの人物に目を向けてみよう。

多少の差はあれど、きっと似たような人生を送っているだろうから。

この時期、時間は「未来」に向かって流れる。

比較は、欲望のエネルギーであり、同時に不安の源でもある。

だがこの不安こそが、自己を輪郭づける最初の火花だ。


第3段階|自己との比較――過去を背負う意識


他者との競争に疲れた人は、内側に向かう。

昨日の自分より一歩でも進めたか。

怠惰を超えられたか。

それは、どんなに小さいことでも良い。

本を1ページだけ読んだとか、腹筋を5回だけ頑張ったでも良い。

ちゃんと歯磨きできたでも、お風呂に入ったでも良い。

そうした日々の小さな積み重ねが、いつか自信に繋がってくる。

こうして人は少しずつだけど確実に、比較の対象が「他人」ではなく「過去の自分」に変わってくる。

何を学んで、何を考えて、どんな行動をしてという日々の繰り返しの中で、自分は何に喜びを感じて、何を大切にしているのかが見えてくる。

それが、次の章で扱う「価値観」である。

時間は「過去」と「未来」のあいだで往復し、意識は連続性を得る。

自分という物語がここで初めて立ち上がる。


第4段階|価値観との比較――未来を照らす内的他者


成熟は、自己の中に「もう一人の自分」を生む。

それが「価値観」という名の内的他者だ。

価値観は、過去の自分の記憶から作られる。

ここでは、経験の多様性が求められる。

今の行動が「自分の信念に沿っているか」が問われる。

誰が正しいかではなく、何が誠実かが基準になる。

この段階では、未来が羅針盤となり、理想という名の光が進む方向を照らす。

ただし、この頃から人は少しずつ孤独に近づいていく。

自分の価値観に沿う生き方とは、相手に合わせたままでは生きられないということでもあるのだ。


第5段階|他者との共鳴――境界を融かす倫理


他者との比較を経た人は、再び他者に出会う。

だが、以前のように大多数ということではなくて、ごく少数の人間に限る。

それは、競争相手ではなく、共鳴の存在として現れる。

他者の幸福を自分の喜びとして感じるとき、比較は争いではなく理解に変わる。

欲望は奪い合いから分かち合いへと変質し、倫理が生まれる。

ここでは「今」という時間が戻り、過去も未来も一体化する。

この頃から、他者の多様性を認め始めるのだと思う。

自分の考えがいつも正しい訳ではない。

相手には相手の正義で動いていると思えるようになってくる。

それは境界線を緩めることに繋がるけれど、

気をつけて欲しいのは相手も同じ境地にいるとは限らないということ。

自他の境界線をしっかり保っていないと、

つまり他者に対して甘いままだと、搾取の対象になることもある。


第6段階|足を知る者は富む――欲望の膜を透かして見る。


比較の旅の果てに、人は気づく。

不足とは幻想であり、競争も自己超克も仮の遊びだった。

足りないものなど最初からなかった。

生まれた瞬間に、すでにすべてを持っていたのだ。

だけど、気をつけてもらいたいのは、人は不足を感じるから行動するということである。

不足を感じなくなった瞬間に、心は自由へと解放されるが、同時に行動する意欲も少なくなる。

この境地は、現代社会においては不利に働くことが多い。

それでも、この境地に到達した人は、不幸に感じることは少ないのだけれど、満足は停滞を生み自身の成長を妨げるということだけは覚えておいてもらいたい。

幸福は、いつも私たちのすぐそば、薄皮一枚の向こう側にある。

その薄皮とは、欲望という膜である。

欲望は消すものではなくて、行動のキッカケにすれば良いのだ。

それが透けて見えるとき、人はすでに幸福の中にいる。

ここで時間は透明になる。

過去・現在・未来が区別を失い、「ただある」という存在の感覚が現れる。


第7段階|比較の再開――透明な比較としての遊び


比較を超えた人は、もう一度比較をはじめる。

だがそれは、優劣のためでも評価のためでもない。

ただ世界を観察し、関係性の美を味わうための比較だ。

比較は観照(かんしょう)になる。

つまり、“眺めるだけで満たされる”という状態だ。

外と内の区別が溶け、比較することがそのまま世界を感じることになる。

成熟とは、比較をやめることではなく、比較を透明に使えることなのだ。

螺旋は閉じ、再び開く。

第1段階の「世界と自己が一体だった状態」に戻るが、
今度はそれを自覚的に生きる。

ここに到達するには、一度他者との比較を経験しなければならない。


芯の消滅としての成熟


比較対象が外から内へ、そして再び外へと流れるとき、一本の軸が立ち上がる。

それを人は「人間の芯」と呼ぶのかもしれない。

しかし、真に成熟したとき、その芯すら不要になる。

芯とは、変化を支えるための仮の支柱だからだ。

そう考えると「人間の芯」とは、誰に対して言い訳をしているのかということなのかもしれない。

他者に言い訳をする機会が多ければ他者軸を、

自己に言い訳をする機会が多ければ自己軸を、

それらが消えた地点が第6段階以降なのだとしたら、比較の終わりとは自己という構造が透明化し、世界そのものが自分の一部として見える瞬間である。

比較の先には、「不足などなかった」という静かな安心が待っている。

では、その安心の中で、私たちはどう世界と関わるのか。

それはきっと──

比較をやめることではなく、比較と遊ぶことなのだ。

相手を褒めるための比較や、

何日間継続出来たかを喜ぶなど、

比較を競争の道具ではなくて、
自分の人生をより良く過ごすための道具に出来た人から、比較と遊ぶことが出来ているのだと思う。

ちなみに、今回紹介した7段階モデルは上に登るほど偉いということではない。

むしろ、サラリーマンとして働いていて稼ぐということに有利なのは2〜3段階だと思う。

また、一度登ったら固定ということでもない。

登ったり降ったりを繰り返しながら、少しずつ平均が上がっていくイメージである。

それに、7段階まで登る頃には以前のような衝動的なまでの情熱というのは感じられなくなっているかもしれない。

熱を失っている状態というのは、効率を求めたゲームに似ている。

それは、人生の楽しみを一つ失ったのと何ら変わらない。

「一切皆苦」という言葉があるように、生きている事は苦しみである。

それぞれ生きている段階によって、苦しみの種類は変わってくるが、苦しくないということはない。

だけど、「比較」に苦しむくらいなら、「比較」を手放してしまっても良いのだと思う。

この記事は、最初から比較に苦しむ人のために書かれているのだから。


補記|比較の螺旋マップ


• 第1段階
 ・比較の対象:無(世界=自己)
 ・時間意識:永遠の現在
 ・関係性の形:同一
 ・主な課題:誕生前の無意識

• 第2段階
 ・比較の対象:他者
 ・時間意識:未来
 ・関係性の形:競争
 ・主な課題:欲望の発生

• 第3段階
 ・比較の対象:過去の自分
 ・時間意識:過去↔未来
 ・関係性の形:成長
 ・主な課題:記憶の形成

• 第4段階
 ・比較の対象:内的他者(価値観)
 ・時間意識:未来
 ・関係性の形:誠実
 ・主な課題:自己の倫理化

• 第5段階
 ・比較の対象:他者(共鳴者)
 ・時間意識:現在
 ・関係性の形:共感
 ・主な課題:関係の成熟

• 第6段階
 ・比較の対象:欲望の膜
 ・時間意識:無時間
 ・関係性の形:存在
 ・主な課題:透明な幸福

• 第7段階
 ・比較の対象:世界そのもの
 ・時間意識:循環
 ・関係性の形:観照
 ・主な課題:比較の再開=遊び


結び|比較は「自我の鎖」ではなく「世界との呼吸」


人と比べて苦しむのは、あなたがまだ成長を続けている証だ。

比較を恐れず、その螺旋の一段を登るたびに、
世界は少しずつあなたの中へと還っていく。

比較は、自分を責める道ではない。

それは世界とあなたが呼吸し合う、意識のリズムなのだ。

自分を理解することは世界との和解へと繋がる。

その瞬間、世界はあなたの味方になる。

この記事と深いところで繋がっている記事を書いたので、合わせて読んでみてほしい。

それとこの記事を書くにあたって、自分の過去の記事を参考にしたから紹介しておく。

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