感情は、規則でも正義でもない
副題
当日欠勤と管理者の言葉から考える、現代の職場管理論
序章
怒りが生まれること自体は、おかしくない
例えば、アルバイトの高校生が、当日に家族の用事で休むと連絡してきた
代わりに入れる人は、すぐに見つかった
グループLINEでも、アルバイトリーダーから報告があった
店は、とりあえず回る
穴は埋まった
シフト上の欠員も、形式上は解消された
それでも、管理者としては納得できないものが残る
急に休まれると困る
一度決まったシフトを、そんな簡単に変えられては困る
代わりが見つかったからいい、という話ではない
家族の用事という言葉で済まされると、こちらの都合はどうなるのかと思う
その感情自体は、理解できる
現場を回している人間にとって、当日欠勤は小さな問題ではない
代わりが見つかったとしても、予定された人員が予定通り来なかったという事実は残る
管理者が怒ること自体は、異常ではない
問題は、その怒りをどの位置に置くかである
第1章
感情を規則の上位に置いてはいけない
管理者は、人間である
だから怒る
苛立つ
不安になる
軽く見られたように感じる
自分だけが責任を背負わされているように感じる
だが、管理者である以上、その感情をそのまま職場の規則にしてはいけない
急に休まれて腹が立った
だから今後シフトに入れない
この流れは危うい
なぜなら、そこでは感情が処分を作っているからである
本来、管理者が見るべきなのは感情ではなく、事実とルールである
当日欠勤があった
代替者は見つかった
連絡経路は適切だったのか
事前に予見できた予定だったのか
欠勤理由の確認はどこまで必要なのか
同じことが続いているのか
店舗として定めたルールはあったのか
本来は、この順番で考えるべきだった
ところが、ここを飛ばして感情のまま言葉を出すと、管理ではなく裁きになる
管理者は怒ってはいけないのではない
怒りを判断基準にしてはいけないのである
第2章
感情は、違和感を知らせる警報であって、規則でも正義でもない
感情は、違和感を知らせる警報であって、規則でも正義でもない
この一文に、今回の問題のほとんどが集まっていると思う
怒りは、何かが起きたことを知らせてくれる
不快感は、どこかにズレがあることを知らせてくれる
納得できなさは、期待していた前提が共有されていなかったことを教えてくれる
だから、感情は無視しなくていい
むしろ、感情は大事である
怒りがあるから、問題に気づける
違和感があるから、仕組みの穴が見える
困惑があるから、今まで曖昧だったルールが浮かび上がる
ただし、感情はそのまま正義にはならない
腹が立ったから、相手が悪いわけではない
傷ついたから、自分が正しいわけでもない
納得できないから、ただちに相手を罰していいわけでもない
感情は、問いの入口である
結論ではない
だから管理者に必要なのは、感情を消すことではない
感情を問いに変換する訓練である
なぜ腹が立ったのか
どのルールが曖昧だったのか
どの期待が共有されていなかったのか
どの手順が属人的だったのか
どの言葉が、業務上の指導を越えて、相手の家庭や価値観を裁くものになったのか
ここまで降りていくことで、感情は単なる怒りではなく、管理改善の入口になる
感情をそのまま相手に向ければ、管理は裁きになる
感情を問いに変換できれば、管理は仕組みの点検になる
第3章
言いたいことと伝えたいことは違う
現代は、言いたいことと、言ってはならないことが重なりやすい時代である
これは確かにある
昔なら、普通の注意として済まされていた言葉が、今では不適切発言になる
昔なら、厳しい指導ですらなかったものが、今ではハラスメントや不利益取扱いとして見られることがある
だが、だからといって、何も言えないわけではない
大事なのは、言いたいことと、伝えたいことを分けることである
言いたいことは、感情のまま出てくる
家族の用事くらいで休むな
代わりが見つかればいいと思うな
今後はシフトに入れない
親にも理解してもらわないと困る
こう言いたくなる気持ちは、わからなくはない
しかし、本当に伝えたいことは、おそらく別の場所にある
シフト確定後の当日欠勤は、店舗運営に影響する
家庭の予定が事前にわかっているなら、シフト提出時点で申告してほしい
当日になって勤務できなくなった場合は、できるだけ早く責任者に直接連絡してほしい
代替者が見つかったとしても、本人の連絡責任や勤務予定の変更事実が消えるわけではない
同じことが続く場合は、勤務可能日やシフトの組み方を相談する必要がある
ここまでなら、かなり伝えられる
つまり、問題は本音を言えるかどうかではない
本音を、そのまま出すのか
業務上必要な言葉に変換して出すのか
この違いである
管理者に必要なのは、黙ることではない
伝え方を設計することである
第4章
家族の用事で休むこと自体を否定すると、話がずれる
今回の発言の中で、特に引っかかるのは、家族で出かけるから学校を休むのか、という反問である
これは一見、筋が通っているように見える
学校は休まない
だから仕事も休むべきではない
しかし、この前提はかなり揺らいでいる
現代では、家族の用事で学校を休むこともある
旅行で休む家庭もある
家庭の事情で休むこともある
子どもが熱を出せば、管理職でも休む
親の通院や介護、役所の手続き、冠婚葬祭で休む大人もいる
つまり、家族の用事で休むこと自体を否定すると、現実と合わなくなる
問題にすべきなのは、家庭か仕事かではない
予見できた予定だったのか
シフト提出時点で申告できたのか
当日になった理由は何か
連絡は適切だったのか
代替者を立てた場合の扱いは決まっていたのか
本来は、ここに絞るべきだった
家庭の都合で休むこと自体を否定すると、管理者は相手の生活を裁く側に回ってしまう
しかし、管理者にあるのは勤務上の調整権限であって、家庭の価値観を裁く権限ではない
休むな、ではなく、事前にわかる予定は先に言ってほしい
家族の用事は認めない、ではなく、シフト提出時点で調整してほしい
代わりが見つかればいいではない、ではなく、責任者への連絡と確認は必要である
この形にすれば、指導として成立する
第5章
仕事上必要な指導か、仕事を盾にした鬱憤ばらしか
この問題が難しいのは、管理者本人の中でも、仕事上必要な指導と、鬱憤ばらしが混ざりやすいからである
当日欠勤は本当に困る
これは事実である
一方で、管理者の中には別の感情も混ざる
なめられた気がした
高校生だから強めに言いやすかった
親まで出てきて腹が立った
自分の頃はもっと我慢していた
現場を軽く見られたように感じた
これらも、人間としては起こりうる
だからこそ、判断基準は内心ではなく、言葉が業務目的に接続されているかになる
相手の人格を裁いていないか
家庭の価値観に踏み込みすぎていないか
学校と仕事を雑に同一視していないか
不利益をちらつかせていないか
再発防止ではなく、怒りの発散になっていないか
ここを見る必要がある
相手の生活や価値観を裁き始めたら、鬱憤ばらしに見えやすい
勤務実態、連絡手順、再発防止、シフト調整に絞れば、業務上の指導になる
この境界が、現代の管理者には求められている
それは簡単ではない
かなり訓練が必要である
第6章
管理者に求められるアップデートは、ただの言い方の問題ではない
今の時代は言い方に気をつけましょう
この程度の話ではない
管理者に求められているのは、かなり高度な変換能力である
急に休まれて困った
これを、シフト確定後の当日欠勤は店舗運営に影響すると変換する
家族の用事って何だよ
これを、勤務管理上必要な範囲で確認するに変換する
代わりが見つかればいいと思っているのか
これを、代替者が見つかっても連絡責任や勤務予定変更の事実は残るに変換する
今後シフトに入れないぞ
これを、同様のことが続く場合は勤務可能日やシフトの組み方を相談するに変換する
ここには訓練が必要である
現場の負荷は昔より軽くなっていない
むしろ人手不足で重くなっている場合もある
急な欠勤にも対応しなければならない
保護者対応もある
本部対応もある
SNSで拡散される可能性もある
それなのに、言葉だけは昔のままでは許されない
ここに、管理者側のしんどさもある
だから、これは店長の性格だけの問題ではない
管理者教育の問題でもある
現代の管理者は、現場を回す人であると同時に、言葉のリスク管理者でもある
第7章
ルールが曖昧な職場では、管理者の感情が規則になる
今回の件で、もう一つ確認すべきことがある
その職場では、当日欠勤時の対応ルールが十分に整備されていたのか
誰に連絡するのか
どの方法で連絡するのか
何時までに連絡するのか
グループLINEでの報告は正式な連絡として扱うのか
代替者を見つけた場合、それで欠勤処理は完了するのか
家庭都合、体調不良、学校行事、冠婚葬祭で扱いに差があるのか
同様の欠勤が続いた場合、どのように面談し、どのようにシフトを見直すのか
ここが曖昧なままだと、管理者の感情が実質的なルールになってしまう
その日の機嫌で厳しくなる
相手によって扱いが変わる
理由の聞き方が人によって変わる
どこまで許されるのか、働く側にもわからない
問題が起きるたびに、その場の怒りで対応する
これは、管理ではない
管理とは、同じ問題が起きたときに、同じ基準で扱える状態を作ることである
だから、当日欠勤を軽く見てよいという話ではない
むしろ逆である
当日欠勤を問題として扱うなら、問題として扱えるだけのルールが必要になる
ルールがなければ、怒りが管理を代行してしまう
第8章
社会はシステム的な対応を求めるが、機械になれという意味ではない
現代社会は、管理者にシステム的な対応を求めてくる
記録を残す
手順に沿う
不利益処分に見える言葉を避ける
私生活に踏み込みすぎない
未成年や保護者対応にも配慮する
同じ問題を同じ基準で扱う
こう書くと、まるで機械になれと言われているように見えるかもしれない
だが、そうではないと思う
人間らしさを捨てろ、という話ではない
むしろ、人間の感情や道徳や倫理は、システムの穴を探すきっかけになる
腹が立った
ならば、どの仕組みが曖昧だったのか
納得できなかった
ならば、どの期待が共有されていなかったのか
違和感があった
ならば、どのルールが現実に追いついていなかったのか
感情は、制度の敵ではない
感情をそのまま正義にしたとき、制度の敵になる
感情を問いに変換できれば、それは制度改善の入口になる
社会が求めているのは、機械のような冷たさではない
感情をそのままぶつけず、問いとして扱う成熟である
終章
管理とは、怒りが暴走しなくても職場が回る状態を作ること
当日欠勤を認めているわけではない
一度決まったシフトを、軽く扱ってよいわけでもない
代わりが見つかったから、それですべて解決するわけでもない
働く側にも、責任はある
しかし、管理者が怒りをそのまま言葉にした瞬間、問題の中心は変わってしまう
欠勤者の態度の問題から、管理者の発言リスクの問題へ移ってしまう
だから、管理者に必要なのは、優しくなることではない
怒らない人間になることでもない
感情を規則より上に置かないことである
感情は、違和感を知らせる警報であって、規則でも正義でもない
警報が鳴ったなら、裁く前に点検する
どのルールが曖昧だったのか
どの連絡手順が整っていなかったのか
どの期待が共有されていなかったのか
どの言葉が、業務上の指導を越えてしまったのか
そこを見る
管理とは、怒りを正当化することではない
怒りが暴走しなくても、職場が回る状態を作ることである
現代の管理者に必要なのは、感情を消すことではない
感情を問いに変換する訓練である
補章
貴族の腹芸が、一般人にまで求められる時代
もしかすると現代は、かつてなら貴族や政治家や上級管理職にだけ求められていた腹芸が、普通の現場管理者にまで求められる時代なのかもしれない
本音をそのまま言わない
怒りをすぐに顔へ出さない
相手の未熟さを見ても、正面から裁かない
自分の立場がどう見えるかを計算する
言葉が記録として残ったとき、第三者にどう読まれるかまで考える
これは本来、かなり高度な振る舞いである
しかし今は、それが飲食店の店長にも、コンビニの責任者にも、アルバイトリーダーにも、普通に求められる
もちろん、これは簡単ではない
急な欠勤が出る
現場が回らなくなる
代わりを探す必要がある
他の従業員にも負荷がかかる
そのうえで、本人にも親にも本部にも問題にならない言葉を選ばなければならない
ここには、心の余白が必要になる
だが、その余白は自然に見つかるものではない
余白は、自分で作るしかない
怒りが出た瞬間に返事をしない
その場で処分めいた言葉を出さない
まず事実だけを確認する
ルールに照らす
ルールがなければ、今回をきっかけに整える
相手の人格ではなく、手順の話に戻す
こうした一つ一つの手続きが、管理者の心の余白を作る
余白とは、優しさだけではない
自分を守るための距離でもある
そして、もう一つ大事なことがある
管理者は、他人の子供を人生ごと躾ける必要はない
アルバイトの高校生が未熟であることはある
仕事への責任感が足りないこともある
親がアルバイトを軽く見ていることもあるかもしれない
しかし、それを管理者が背負い込む必要はない
職場が教えるべきなのは、人生全体の道徳ではなく、その職場で働くためのルールである
時間通りに来る
来られないときは連絡する
事前にわかっている予定は先に伝える
代替者が見つかっても責任者に確認する
同じことが続くなら勤務可能日を見直す
ここまででよい
それ以上の領域に踏み込むと、管理者は教育者になってしまう
しかも、家庭と本人と学校と社会が背負うべきものまで、職場が引き受けることになる
それは危うい
他人の子供を正しい大人に育てるために、管理者が自分の労力とリスクを差し出す必要はない
必要なのは、躾けることではない
職場のルールを伝えること
ルールがなければ整えること
そのルールに沿って、淡々と運用すること
管理者が引き受けるべきなのは、相手の人格形成ではない
職場が壊れないための仕組みである
だからこそ、感情を問いに変換する必要がある
怒りをぶつければ、相手を躾けた気にはなる
しかし、職場の仕組みは何も改善しない
怒りを問いに変えれば、ルールが見える
ルールが見えれば、次に同じ問題が起きたとき、管理者個人の腹芸に頼らなくて済む
現代の管理者に必要なのは、聖人になることではない
他人の未熟さに巻き込まれすぎない距離を持つこと
そのうえで、自分の言葉と職場の仕組みを守ること
冷たくなるのではない
背負う範囲を間違えないことである
終章のあとに置く追補
成熟した社会と、未熟な人間のあいだで
社会は成熟した。
少なくとも、そう見える。
労務管理は整備され、コンプライアンスは重視され、言葉は記録として残り、管理者の発言も第三者から検証されるようになった。
昔なら、現場の注意として流されていた言葉が、今では不適切な指導として扱われることがある。
それは、社会が成熟したからである。
しかし、社会が成熟したあとに生まれた人間が、成熟した状態で生まれてくるわけではない。
人間は今も昔も、未熟な状態で生まれてくる。
高校生は未熟である。
新人は未熟である。
親も未熟なことがある。
管理者も未熟である。
怒る。
焦る。
傷つく。
見下されたように感じる。
自分の正しさを証明したくなる。
相手に常識をわからせたくなる。
そういうものを、人間は簡単には捨てられない。
ここに、現代の苦しみがあるのかもしれない。
社会の制度は成熟していく。
しかし、人間の感情は成熟した状態で生まれてこない。
だから、成熟した社会に未熟な人間が接続するとき、摩擦が起きる。
その摩擦を、昔は常識や上下関係や慣習が吸収していたのだと思う。
だが現代では、それらの吸収材は弱くなった。
代わりに必要になるのは、仕組みである。
人間が人間であることをやめる必要はない。
感情を持たない機械になる必要もない。
怒りや違和感を消す必要もない。
必要なのは、人間が社会と接続するときに、そのあいだを仲介する仕組みである。
ルール。
手順。
記録。
確認。
言葉の変換。
そして、自分の感情を問いに変える技術。
私の場合は、それが哲学だった。
哲学とは、現実から逃げるためのものではない。
人間の未熟さを、社会にそのままぶつけないための緩衝材である。
腹が立ったとき、すぐに相手を裁かない。
傷ついたとき、すぐに自分を正義にしない。
納得できないとき、すぐに相手を非常識と決めつけない。
その前に問う。
何がズレていたのか。
どの前提が共有されていなかったのか。
どのルールが曖昧だったのか。
自分は何を守ろうとしていたのか。
相手は何を見落としていたのか。
この問いが、人間と社会のあいだに入る。
哲学は、答えを出すためだけのものではない。
感情が社会へ直接衝突しないように、いったん受け止め、分解し、別の形へ変換するための場所でもある。
成熟した社会に、未熟な人間が生きている。
その事実は、たぶん変わらない。
だから必要なのは、人間を責めることではない。
社会を昔に戻すことでもない。
人間が人間のまま、成熟した社会に接続できるだけの媒介を持つことだ。
私にとって、その媒介が哲学だった。
そして、おそらく管理とは、その哲学を職場の仕組みに翻訳することなのだと思う。
最終命題
管理とは、感情を消すことではない。
感情を問いに変え、問いを仕組みに翻訳することである。
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