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何もないのではなく、まだ言葉になっていないだけだった

はじめに


何も感じない

何をしたいのか分からない

何が苦しいのかも分からない

そんな時間がある

けれど
それは本当に何もない状態なのだろうか

もしかすると
何もないのではなく
まだ言葉になっていないだけなのかもしれない

心の奥には
形になる前の感情がある

名前を持つ前の違和感がある

自分でも気づかないまま
押し込めてきた思いがある

それは空白ではない

むしろ
何かが生まれる直前の静けさである

自分でも分からないものがある

人はよく
自分のことは自分が一番分かっている
と言う

けれど実際には
自分の中にあるものほど
よく分からないことがある

なぜ腹が立ったのか

なぜ寂しくなったのか

なぜあの言葉だけ忘れられないのか

なぜもう終わったはずのことが
何度も胸の奥に戻ってくるのか



分からない感情は
消えた感情ではない


まだ形を持てていない感情である

言葉になる前の感情は
とても扱いにくい

怒りなのか
悲しみなのか
寂しさなのか
愛なのか
執着なのか
未練なのか

分からないまま残る

だから人は
それを何もないことにする

気にしていないことにする

もう大丈夫なことにする

けれど
心はそんなに簡単には片づかない


言葉にすると決まってしまう


感情が言葉にならないのは
単に語彙が足りないからではない

言葉にしてしまうと
何かが決まってしまうからだ

寂しかったと言えば
自分が寂しかったことを認めることになる

傷ついたと言えば
自分が傷ついたことを引き受けることになる

好きだったと言えば
その気持ちが本物だったことになる

もう無理だと言えば
続けてきた時間に終わりを告げることになる

だから人は
分からないままにしておく

まだ名前をつけない

まだ意味を決めない

まだ自分の中で保留しておく

それは弱さではない

心が壊れないための時間でもある

まだ受け止められないものを
すぐに言葉にしないことで
人は自分を守っている

けれど残ったものは消えない


言葉にしなかったものは
消えるわけではない


奥に沈む

沈んで
重くなる

重くなって
ふとした瞬間に浮かび上がる

夜に眠れなくなる

同じ場面を思い出す

何でもない一言に反応してしまう

昔の匂いや音で
急に胸が詰まる

それは
心の奥で何かが形を求めているからだと思う

もう無視できないところまで来た感情が
自分に気づいてほしくて
何度も姿を変えて現れている

涙になることもある

怒りになることもある

文章になることもある

沈黙になることもある

人はそうやって
自分の中に残ったものと
遅れて出会い直す


最初の一語が生まれる


ある瞬間に
ふっと分かることがある

あれは悲しかったのだ

本当は寂しかったのだ

悔しかったのだ

期待していたのだ

愛していたのだ

待っていたのだ

この一語が生まれた瞬間
心の中で何かが動き始める

それまでただの重さだったものが
意味を持つ

ただの違和感だったものが
自分の経験になる

ただ苦しかっただけの時間に
輪郭が生まれる

言葉とは
感情を説明する道具である前に
感情に形を与えるものなのだと思う

人は言葉によって
自分の中にあったものを
初めて自分のものとして受け取る


意味が生まれると時間が動く


不思議なことに
感情に名前がつくと
過去の見え方が変わる

あのとき自分は
平気だったのではない

我慢していたのだ

怒っていたのではない

助けてほしかったのだ

諦めたのではない

傷つかないように離れただけだったのだ

そう分かった瞬間
過去はただの出来事ではなくなる

自分の物語の一部になる

そして未来も少し変わる

これからは同じことをしないようにしよう

今度はちゃんと言おう

もう少し自分を守ろう

もう少し人を信じてみよう

意味が生まれるとは
過去と未来がつながることでもある

だから
心の時間は時計だけでは測れない

意味が動き始めたとき
人の時間もまた動き始める


創作とは沈んだものの帰還である


文章を書くことも
絵を描くことも
音楽を聴いて泣くことも
誰かに話すことも

それは
心の奥に沈んでいたものが
別の形で戻ってくることなのだと思う

直接は言えなかったことが
比喩になる

認められなかった感情が
物語になる

持て余していた痛みが
誰かに届く言葉になる

創作とは
きれいなものを作ることだけではない

自分の中で行き場を失っていたものに
出口を作ることでもある

だから
本当に深い文章には
どこか傷の気配がある

けれどそれは
不幸の自慢ではない

傷が意味へ変わる途中の光である 


おわりに


何もないと思っていた場所には
何もなかったのではない

まだ言葉にならないものがあった

まだ受け止められない感情があった

まだ自分でも知らない自分がいた

人は
すぐに分かれるわけではない

すぐに癒えるわけでもない

すぐに意味を見つけられるわけでもない

けれど
ある日ふと
たった一語が見つかることがある

寂しかった

悔しかった

愛していた

待っていた

生きたかった

その一語が見つかったとき
何もないと思っていた場所に
静かに道ができる

意味とは
外から与えられる答えではない

自分の奥に沈んでいたものが
ようやく言葉として帰ってくることなのだと思

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