愚者を経験した人にしか、賢者にはなれない
ソクラテスの「無知の知」と痛みの記憶について
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俺は長いあいだ、自分を愚かだと思ってきました。
たしかに、人からは褒められることもあるし、褒められれば調子にものるけれど…
何かを学ぶたび、知らない事が増えるし
何度も同じような失敗を繰り返して、ようやく少しだけ理解に辿り着くからです。
頭ではわかっているのに、心が追いつかない。
なんで、出来ないのだろう
そんな自分を責めたこともあります。
けれど、ある日ふと思いました。
この「愚かさ」こそが、学びの入口なのではないかと。
ソクラテスは「無知の知」を説いた。
自分が何も知らないと知ることこそが知の始まりだという。
けれど実際に「知らない」と気づく瞬間は、理性ではなく痛みからやってくるきます。
失敗して、恥をかいて、誰かを傷つけて、ようやくわかることもあるのです。
その痛みの中で、人は初めて「知らなかった自分」を見るのです。
つまり、愚かさを通らなければ、無知の知には辿り着けないということです。
愚かであることは、知恵への前提条件なんです。
歴史から学ぶ人を賢者と呼ぶ。
経験から学ぶ人を愚者と呼ぶ。
そう言われているけれど、俺には逆のように思っています。
歴史を読むためにも、まず痛みを知らなければならない。
他人の過去に宿る苦しみを理解するには、自分の中に同じ構造の痛みがある必要があるのだとおもいます。
経験のない共感は、表面を撫でるだけ。
痛みの文法を知らない者は、歴史を解読できない。
なんなら、痛みを知らなければ歴史を学ぶ必要性すら感じないでしょう。
それは、ただの暗記になってしまうから。
だから、愚者を通してしか、賢者にはなれないのだと思います。
賢者とは、愚者を切り捨ててなるものではありません。
愚かさを抱えたまま、熟していく存在です。
自分の失敗を、やがて他者を理解する言語へと変換する必要があるのです。
痛みを思い出す力こそが、知恵の成熟である。
と言えるでしょう。
愚者とは、まだその愚かさの只中にいる人
賢者とは、かつての愚かさを美しく記憶できる人
学びとは、その二つの時間を往復する呼吸のようなものなのです。
いまでも俺は、失敗ばかりしています。
それでも、そこに意味を見つけようとするたび、ソクラテスの声が聞こえる。
「私は自分が無知であることを知っている」
その言葉を思い出すたび、少しだけ前に進める気がします。
愚かさを恐れずに歩けるうちは、まだ学びの途中にいるのだと思いました。
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