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納得という穴──「丸くなること」と人間の成熟



自分の才能に自ら蓋をしたとき、
他者から「丸くなった」と言われるのかもしれない。

その蓋は他者から与えられた天井なのか、自分で設定した天井なのかで、諦めなのか、満足なのかが変わるのかもしれない。

諦めた人間は、他者の才能という光に、嫉妬という影を落とす。

それは、他者に「かつて諦めた理想の自分」を見ているからだ。

人の意志は、理想と現実の差により磨かれる。

満足した人間は、惜しまない賞賛を贈れるのか。

諦めと満足を繰り返す人もいるだろう。

諦めとは、「自分の可能性を閉じる理性」

満足とは、「可能性を使い切った納得」

この二つは、表面的には似ているが、
前者には閉鎖があり、後者には静かな開放がある。

そして確かに、人は何度もこの二つの間を揺れ動く。

挑戦の果てに「もういい」と思った夜、
他者の成功にわずかな嫉妬を覚えた朝

その往復こそが、生の呼吸なのだろう。

その往復の中で、人は少しずつ形を変えていく。

「腑に落ちる」という言葉がある。

腑とは、五臓六腑の腑であり、腹の奥、内臓のことである。

ならば納得とは、頭で理解した言葉が、身体の奥へ沈むことなのだろう。

そこには、目に見えない穴がある。

理屈が落ち、経験が沈み、ようやく自分のものになる場所がある。

私はその場所を、納得という穴と呼びたい。

「丸くなる」とは、社会に馴染むことではなく、
自分の棘を研磨して他者と共存できる速度に変えることだ。

しかし、その摩耗の裏には、
「かつて尖っていた自分を知っている痛み」も潜んでいる。

誰もが、どこかで自分の熱量を少しだけ下げ、
“生きやすさ”という名の鎧を纏う。

それは弱さではない。

長く生きるための形状変化だ。


けれど、その変化を「諦め」と呼ぶか「満足」と呼ぶかは、
おそらく本人にも分からない。

諦めの奥には、まだ動こうとする残光がある。

満足の奥には、もう闘わなくていいという安堵がある。

その二つは似ているが、まったく違う心の姿だ。

そういう視点に立って考えてみると

人は転がり続ける生き物なのかもしれない。

カタチも材質も重さも人により異なる。

それはまるで回遊魚のように、
泳ぎ続けなければ窒息してしまうかのように、

止まることを恐れながら、それでもどこかで休息を求めている。

だからこそ、
「普通になろう」と無理をする必要はない。

転がる速さも、進む方向も、
あなたが選べばそれでいい。


いつか、納得という穴に落ちるまでは。


それが、腑に落ちるということなのだから。

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