短編小説『男の語り』
—愛と風の交差点にて—
命題:沈黙の隙間には、想いがある
自由にした、という言葉の奥に
自分を守っただけの弱さが
混じっていたと気づくまでに
風が吹くまでに
何年もかかった
***
冬が終わりかけた頃、ふと思い出した
あの日、駅前の三叉路で別れた言葉
「自由にした」
それは彼女のためだったと思っていた
でも今は
それが本当に
彼女のためだったのか
わからなくなっていた
***
春が近づくと
あの小さな書店の前を
無意識に通るようになった
同じ文庫が置いてあるかもしれない
そんなことを思っていた
変わったのは季節だけじゃない
俺の髪にも白いものが混じり始めた
彼女なら、なんて言うだろう
「似合いますよ」
きっと、あの笑顔で言うのだろうか
***
ある日、書店の窓越しに
見覚えのある背中を見かけた
ページをめくる指先
本に吸い込まれるような佇まい
変わっていなかった
けれど、俺は声をかけなかった
ただ、遠くからその背を見ていた
それでよかったのだと思う
選ばなかったことが
選べなかったことが
やはり最大の誠実さだったのだ
***
俺にはもう
彼女を迎える余白がなかった
でも、彼女の人生には
きっと新しい誰かの温もりがある
そうであってほしいと
心から思った
それでも
誰かを想い続ける気持ちが
この胸の奥に
確かに、静かに残っている
名前も
約束も
何もいらなかった
でも、それはたしかに
愛として、在り続けている
***
その日
どうしてか足が、あの喫茶店に向いた
名前のない店
のれんが、風に揺れていた
あのとき彼女を連れてきた場所
今は、一人で来ている
カウンター席に座り
カバンから文庫を出した
中身を読むふりをして
俺はずっと、考えていた
差し出されたあの手の重さを
それを拒まず、でも越えなかった自分のことを
***
「豆、挽かせてもらっていいですか」
そう口にした自分の声に
少し驚いた
マスターは無言で頷き
コーヒーミルを差し出した
カリカリ……
豆の音が、何かを削っているように響いた
削っていたのは、たぶん俺の中の沈黙だった
***
コーヒーを受け取って
ゆっくりと口をつけた
「……あの頃の味がします」
マスターは、何も言わなかった
ただ、静かに頷いたように見えた
そして
ふとつぶやいた
「風が、変わりましたね」
俺は、小さく笑った
「ええ ……少し、戻れそうです」
そう言いながら
文庫を閉じた
もう、読む必要のないページだった
***
家に帰ったら手紙を書こう
誰に出すつもりのない手紙を…
不思議とそう思えた
***
外に出ると
風が、やさしく頬を撫でた
春の風だった
何かが終わったのではなく
静かに、通り過ぎたのだと
そう思えた
そしてまた
歩き出した
***
【あとがき】
「自由にした」と言った言葉の裏には
ほんとうは
「自分を守っただけ」の気持ちがあったのかもしれない
沈黙の中で
それに気づくには
たぶん、風の力が必要だった
語らなかったことは
失敗ではない
ただ、言葉にならなかっただけの
愛だったのだと思う
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