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次の奴隷制は、鎖ではなく快適さでできている

副題
人は苦痛ではなく、そこそこの安心によって縛られるのかもしれない

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序章|奴隷という言葉は、どこへ消えたのか


奴隷という言葉を聞くと、多くの人は鎖を思い浮かべる

主人がいる
売買される
逃げれば罰せられる
身体を所有される

そういう、分かりやすい支配の姿だ

けれど本当に怖い支配は、いつも分かりやすい姿をしているのだろうか

現代において、少なくとも多くの国では、法的な意味での奴隷制は否定されている

人は所有物ではない
職業を選ぶ自由がある
会社を辞める自由もある
住む場所を選ぶ自由もある

では、私たちは本当に自由になったのだろうか

ここで一度、問いを置き直したい

奴隷制とは、人間が誰かに所有される制度だけを指すのか

それとも、人間が抜け出せない構造の中に置かれ、自分で選んでいるように見えながら、実際には限られた道を歩かされる状態もまた、奴隷制的なものと呼べるのか

私は最近、こう考えるようになった

奴隷という言葉は、社会の表面から消えた
けれど、奴隷制的な構造は、形を変えて残っているのではないか

ここで言う奴隷制とは、歴史上の奴隷制度と同一のものを指しているのではない

むしろ、人間が自律を失い、自分で選んでいるように見えながら、設計された快適さの中で外部への欲望を弱めていく構造を、比喩的に奴隷制的と呼んでいる


第一章|古い奴隷制は、一枚岩ではなかった


まず気をつけなければならないのは、昔の奴隷制を単純化しすぎないことだ

古代の奴隷制と、近代の大西洋奴隷制は同じではない

たとえば、古代エジプトのピラミッド建設を、鞭で打たれた奴隷が無理やり作らされたものとして想像する人は多い

けれど、実際にはそこには食料配給や労働組織、熟練労働、共同体的な動員があったとされる

ビールやパンが振る舞われ、労働者の生活が管理されていた

もちろん、それを現代的な意味で自由な労働と呼ぶのは違う

しかし、そこにあったのは単なる所有と暴力だけではなかった

国家事業
宗教
共同体
食料配給
王権
死後世界への信仰

そうしたものが混ざった労働だった

一方で、近代の奴隷制は、人間を労働力として商品化し、市場や資本と強く結びついた

つまり奴隷制は、時代によって姿を変えてきた

身体を所有する支配
労働力を抽出する支配
生活全体を制度に組み込む支配

その形は、いつも同じではない

だからこそ、次の奴隷制も、私たちが想像するような鎖の姿では現れないのかもしれない


第二章|現代労働は自由なのか


現代の労働者は奴隷ではない

法的には自由である
会社を選べる
転職できる
退職できる
賃金も受け取る

しかし、生活の側から見ればどうだろう

家賃がある
食費がある
税金がある
保険料がある
通信費がある
奨学金がある
老後不安がある
家族の扶養がある

働かなくてもいい

たしかにそうかもしれない

けれど、働かなければ生活が崩れる

会社は辞められる

たしかにそうかもしれない

けれど、辞めれば収入が止まり、家賃や税金や将来不安が一気に押し寄せる

ここには、法的な自由と生活上の強制のズレがある

誰かが私を所有しているわけではない

しかし、生きるための条件が労働市場の中に組み込まれている

企業は人間そのものを所有していない
企業が買っているのは、人間の時間である

さらに言えば、企業は労働者を一から作っているわけではない

家庭が育てる
学校が教育する
医療が身体を保つ
国家が制度を整える
社会インフラが通勤を可能にする

そのうえで企業は、すでに労働可能になった人間の時間を買う

賃金とは、単なる報酬ではない

それは労働者が明日も労働者として戻ってくるための維持費でもある

衣食住
通勤
健康
通信
最低限の娯楽
ストレス回復

これらを維持するために賃金が払われる

だが、賃金が低すぎるとどうなるか

足りない分は本人の健康が払う
家族の無償労働が払う
睡眠が払う
精神が払う
貯金が払う
未来が払う

つまり低賃金とは、労働力の再生産費を、企業が十分に払わず、個人や家族や社会に押し戻している状態でもある

ここに、現代労働の奴隷制的構造がある

所有されてはいない
けれど、抜け出しにくい


第三章|働かない人も、制度の中にいる


ここで労働者だけを見ると、話はまだ半分で終わってしまう

社会には働いていない人もいる

子ども
高齢者
病人
障害者
失業者
学生
専業主婦
専業主夫
生活保護を受ける人
資産で生活する人
働く意思はあっても労働市場に入れない人

こうした人たちは、企業から賃金を受け取っているわけではない

では、誰が生存を支えているのか

家族
貯蓄
年金
扶養
福祉
医療
教育
税制
社会保障

ここにも国家制度が深く関わっている

つまり国家は、労働者だけを管理しているのではない

働く人間は労働市場へ流す
働けない人間は福祉や扶養や医療の中に置く
これから働く人間は教育する
老いた人間は年金や介護の中に置く

国家は、人間を殺すだけの権力ではなく、生かすことで管理する権力になった

生かす
治療する
教育する
分類する
統計化する
労働市場へ流す
働けない者を扶養する
老後まで管理する

これは悪だと言いたいのではない

むしろ、こうした制度がなければ社会は壊れる

人は病む
老いる
失業する
子どもは働けない
誰もがいつか誰かに支えられる

だから福祉は必要である

しかし同時に、福祉や保障は、人間を制度の中に保持する力でもある

働く者は賃金によって生きる
働かない者は制度によって生きる

その両方を通して、国家は人口全体を維持する

ここで支配は、命令ではなく配置になる


第四章|次の奴隷制は、快適さでできている


次の奴隷制は、鎖では来ない

おそらく、もっと優しい顔で来る

衣食住の最低保証
医療
福祉
無料コンテンツ
動画
ゲーム
SNS
アルゴリズム
レコメンド
疑似的なつながり
不満の吐き場所
怒りのガス抜き
欲望の即時処理

これらは一つひとつ見れば、悪ではない

むしろ、多くは人間を助ける

飢えない方がいい
病気は治した方がいい
孤独は和らいだ方がいい
退屈は紛れた方がいい
情報は手に入った方がいい

問題は、それらが束ねられたときである

人間を立たせるためではなく、眠らせるために使われるときである

次の奴隷制は、苦痛によって人を縛らない

そこそこ食える
そこそこ楽しい
そこそこ安全
そこそこ発言できる
そこそこ不満も吐ける
そこそこ欲も処理できる

この、そこそこが支配になる

完全な幸福ではない
だが、革命するほどの苦痛もない

この状態では、人は怒りにくい

飢えれば暴動が起きる
殴られれば敵が見える
奪われれば取り返そうとする

しかし、そこそこ満たされている人間は、なかなか立ち上がらない

絶望させない
けれど、立ち上がらせもしない

これが、もっとも洗練された人民掌握なのかもしれない


第五章|能動的選択という檻


ここで問題になるのは、快適さが強制として現れないことだ。

むしろそれは、自分で選んでいる感覚として現れる。

ここで、能動的選択という言葉も疑わしくなってくる。

人は、自分で選んでいると思っている。

今の仕事を続けること。
今の生活を保つこと。
今の場所に留まること。
大きく変えないこと。

それはたしかに、誰かに強制されたものではない。

けれど、その選択は本当に納得から来ているのか。

それとも、そこそこの安心、そこそこの収入、そこそこの疲労、そこそこの娯楽、そこそこの諦めによって、問い直す力そのものが弱められているだけなのか。

能動的選択とは、考えた末に引き受けることでもある。

しかし同時に、考えることをやめるための言い訳にもなる。

「自分で選んだのだから」

そう言った瞬間に、人は自由になることもあれば、自分で自分の檻に鍵をかけることもある。


第六章|何にもない、けれど抜け出せない


次の奴隷制の怖さは、外が見えないことにある

古い奴隷制には主人がいた
鎖があった
逃げる先があった
拘束と解放の区別があった

けれど、次の奴隷制には主人が見えない

国がある
企業がある
制度がある
アプリがある
娯楽がある
保障がある
アルゴリズムがある

しかし、どこが檻なのか分からない

何も奪われていないように見える

食べられる
眠れる
働ける
遊べる
発言できる
怒れる
欲も処理できる
誰かとつながっている気もする

それなのに、なぜか抜け出せない

いや、もっと言えば、抜け出す必要を感じない

ここに次の奴隷制の完成形がある

人間から外部への欲望を消すこと

この社会の外には何があるのか
この欲望は本当に自分のものなのか
この怒りは本当に自分のものなのか
この快適さは誰が設計したのか
この自由は、外へ出る自由なのか
それとも檻の中で選べる自由なのか

こうした問いを持たなくても生きられる環境を作ること

それが、鎖のない奴隷制なのかもしれない


第七章|それでも完全な家畜化は成立しない


ただし、私は完全な家畜化は成立しないと思っている

なぜなら、人間の不足は消えないからだ

衣食住は満たせる
医療も整えられる
娯楽も与えられる
孤独も一時的には紛らわせられる
アルゴリズムは欲望を先回りできる

それでも人間には残る

意味の不足
愛の不足
承認の不足
孤独の不足
死への不足
自分で選んだという実感の不足
世界に触れているという実感の不足

これは、物資の不足ではない

存在の不足である

人間は、ただ食べて眠って楽しむだけでは止まれない

なぜ生きているのか
誰かに必要とされているのか
自分は何を選んだのか
この人生は本当に自分のものなのか

こうした問いが、どこかで漏れ出す

だから完成された牧場でも、柵を見る人間は現れる

餌がある
水がある
安全がある
娯楽がある

それでも、外には何があるのかと考える人間が出てくる

その不足こそが、人間の厄介さであり、救いでもある


終章|次の奴隷制に抗うもの


次の奴隷制に抗うものは、暴力ではないと思う

おそらく、それは問いである

この快適さは誰が設計したのか
この自由はどこまで自由なのか
この保障は人間を立たせるためにあるのか
それとも眠らせるためにあるのか
この不満の吐き場所は出口なのか
それとも換気口なのか

問うこと

それだけが、鎖のない奴隷制に対する最初の抵抗になる

奴隷という言葉は、もう表面には現れないかもしれない

けれど、人間が自分で問わなくても生きられる環境が完成したとき

その社会は、自由の顔をした牧場になる

だから私は思う

次の奴隷制は、鎖ではなく快適さでできている

そこでは人は、苦痛によってではなく、そこそこの安心によって立ち上がれなくなる

だから必要なのは、不幸ではない
問う力である

満たされていてもなお
この快適さは誰が設計したのかと疑う力である


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