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辞め際の無茶――終わりが与える自由



副題

失う未来がなくなったとき、人は何を始めるのか

はじめに|辞める人間は、なぜ急に大胆になるのか


政治家や経営者が退任を表明したあと、突然それまでとは違う行動を取ることがある。

長く避けていた改革に踏み込む。

周囲に遠慮して言えなかったことを口にする。

後任が困るような政策を残す。

あるいは、最後に大きな給付や支出を打ち出す。

その姿を見て、人は言う。

「どうせ辞めるから、好き勝手をしている」

たしかに、その見方には一理ある。

辞めることが決まった人間は、次の選挙を気にしなくてよい。

昇進も再任もない。

組織内の評価が下がっても、その不利益を長く受けることはない。

だから、それまで自分を縛っていた恐れが弱くなる。

しかし、辞め際の行動をすべて無責任として片づけてよいのだろうか。

人は、終わりが見えたときに初めてできることもある。

この記事では、その現象を「辞め際バイアス」と呼び、終わりが人間に与える自由と危うさについて考えてみたい。

第1章|「辞めるからやった」のか


あるSNSのやり取りで、石破茂の退陣をめぐり、給付や海外支援についてさまざまな声が上がっていた。

「辞めるなら、約束した給付は破棄しろ」

「辞める前に給付してから去れ」

「海外へ出した金を取り戻せ」

そうした意見を、スレッドの投稿者は「さもしい」と切り捨てた。

しかし、その中に少し違う角度の言葉があった。

「辞めるから、ばら撒いたのではないか」

「辞める直前なら、もう何も怖くない」

もちろん、政策が本当に辞任を見越して決められたのかは分からない。

本人の動機は、外部から簡単に断定できるものではない。

重要なのは、その政策の真相ではない。

人々が、退任の近づいた政治家の大胆な行動を見たとき、

もう失うものがないからできたのだ

と解釈することである。

なぜ私たちは、辞め際の人間には、それまでとは違う自由が生まれると感じるのだろうか。


第2章|人を縛っているのは、現在ではなく未来である


人間は、現在の罰だけを恐れているわけではない。

むしろ多くの場合、私たちを縛っているのは、これから受ける不利益である。

この発言をすれば、次の選挙で票を失う。

この改革をすれば、派閥から外される。

この意見を言えば、昇進できなくなる。

この取引を断れば、次の仕事が来なくなる。

この人物に逆らえば、組織に居場所がなくなる。

人は、未来に残る関係や評価を守るために、現在の行動を抑えている。

ところが、辞任や退職が決まると、その未来の一部が消える。

次の選挙がない。

次の人事がない。

次の評価がない。

組織に残る必要もない。

すると、それまで行動を止めていた恐れが弱くなる。

つまり、辞め際の自由とは、権限が増えることではない。

未来から受ける制裁が減ることによって生まれる自由

なのである。


第3章|黒田サプライズは、なぜ任期末に起きたのか


この構造を考えるうえで象徴的なのが、黒田東彦元日本銀行総裁の任期終盤に起きた金融政策の修正である。

黒田日銀は、長年にわたって大規模な金融緩和を続けてきた。

低金利を維持し、国債を大量に買い入れ、デフレからの脱却を目指した。

ところが任期末が近づいた時期に、長期金利の変動幅を広げるなど、金融政策の運用に大きな修正を加えた。

市場はこれを事実上の政策転換と受け止め、大きく動揺した。

もちろん、日銀側は緩和を終わらせるためではなく、市場機能を改善し、政策を持続可能にするための措置だと説明した。

したがって、単純に「最後に異次元緩和を壊した」と言うのは正確ではない。

それでも、長く維持してきた枠組みに任期終盤で大きな変更を加えた事実は残る。

なぜ、もっと早くできなかったのか。

なぜ、任期末だからこそ可能になったのか。

そこには政策上の事情だけでなく、退任を控えた人間が持つ独特の自由もあったのではないか。

今後の評価を長く背負わない。

組織内の関係を守り続けなくてもよい。

後任へ引き渡す前に、自分の責任で修正を加えられる。

そうした条件が、最後の決断を後押しすることはあり得る。


第4章|辞め際バイアスを生む三つの力


辞め際に大胆な行動が現れるのは、個人の気まぐれだけではない。

そこには、少なくとも三つの構造がある。

1|未来の制裁からの解放


辞める人間は、再任、昇進、選挙、取引関係を失う恐れから解放される。

それまで行動を抑えていた未来の不利益が、小さくなる。

そのため、在任中には避けていた決断が可能になる。

2|レガシーを残したい欲求


人は、自分の終わりが近づくほど、自分が何を残したのかを意識する。

ただ去るのではなく、何か一つでも痕跡を残したい。

「あの人は最後にこれをやった」

そう記憶されたいという欲求が、大胆な政策や発言を生む。

3|後始末を引き受けない身軽さ


辞め際の判断には、もう一つ危うい面がある。

決断の結果を長く引き受けるのは、後任者かもしれない。

支出を増やす。

制度を変更する。

人事を動かす。

対立を表面化させる。

その後始末を自分が背負わないのであれば、判断のハードルは下がる。

ここでは自由が、無責任と隣り合う。


第5章|辞め際には、力も失われていく


ただし、辞めることが決まった人間が、単純に自由になるわけではない。

むしろ反対方向の力も働く。

周囲は、すでに次の権力者を見るようになる。

部下は退任者の指示より、後任者の意向を気にする。

政党や派閥は次の中心人物へ移動する。

他国や市場も、その政策が継続されるかを疑う。

権限は形式上残っていても、実際に人を動かす力は弱くなっていく。

これがレームダック化である。

辞め際とは、自由が最大になる時期ではない。

正確には、

失うものは減るが、動かせるものも減っていく時期

なのである。

恐れは薄れる。

しかし、影響力も薄れる。

だから辞め際の人間には、わずかな時間しか残されていない。

まだ権限が残っている。

しかし、未来のしがらみは消え始めている。

この短い交差点で、普段なら起こらなかった決断が生まれる。


第6章|辞め際の無茶には三種類ある


辞め際の行動を、すべて同じものとして扱うべきではない。

大きく分ければ、三つの型がある。

1|清算型


在任中にできなかった改革、謝罪、告発、関係の整理を行う。

恐れから自由になったことで、ようやく必要なことを実行する。

これは無茶に見えても、長く先送りされていた責任を果たす行動かもしれない。

2|刻印型


最後に大きな政策や決断を残し、自分の存在を歴史へ刻もうとする。

そこには公共的な使命感もあれば、自己顕示もある。

正しい改革と、レガシー欲求は簡単には分けられない。

3|逃げ切り型


短期的な人気取り、報復、人事、支出を行い、負担を後任へ渡す。

自分は結果を引き受けないため、大胆に見えても責任は薄い。

これが最も危険な辞め際である。

問題は、辞め際に無茶をしたかどうかではない。

その決断が、誰のためのものだったのか
その結果を、誰が引き受けるのか

である。


第7章|終わりは、本音を解放するのか


この話は、政治家だけのものではない。

会社を辞めることが決まった人が、最後になって上司へ本音を言う。

離婚が決まった夫婦が、それまで隠していた感情を口にする。

卒業を控えた学生が、ずっと話せなかった相手へ告白する。

閉店を決めた店主が、利益を度外視した商品を作る。

余命を知った人が、仕事より家族を選ぶ。

なぜ人は、終わりが決まるまでできないのか。

それは、私たちが普段、自分の意思だけで生きているのではないからだ。

将来の関係。

評価。

立場。

期待。

損失。

それらが現在の行動を縛っている。

終わりは、その鎖を一部切る。

だから人は、最後になってようやく本音に近づく。

しかし、最後に現れた行動が、必ずしもその人の本性とは限らない。

恐れから解放された本音かもしれない。

同時に、責任からも解放された衝動かもしれない。

辞め際には、人間の最も誠実な姿と、最も無責任な姿が、同時に現れる。


第8章|終わりを待たなければ自由になれないのか


ここで、もう一つ問いが生まれる。

人は、辞めることが決まらなければ、本当にやりたいことができないのだろうか。

会社を辞める直前でなければ、意見を言えない。

死を意識しなければ、家族を大切にできない。

関係が終わると分かるまで、本音を伝えられない。

それでは、自由は常に手遅れになってから訪れることになる。

辞め際の無茶が教えているのは、辞めるべきだということではない。

私たちが普段、未来の不利益を過大に恐れ、現在の意思を抑えすぎている可能性である。

すべてを失う覚悟を持つ必要はない。

しかし、ときには問う必要がある。

これは本当に恐れるべき不利益なのか。

この関係を守るために、自分の言葉を失ってよいのか。

辞めると決めた後にできるなら、辞める前にも少しはできるのではないか。

終わりが与える自由を、終わる前に一部だけ取り戻す。

それができれば、私たちは最後になって無茶をしなくても済むのかもしれない。


終章|終わりが与える自由


辞め際の無茶は、単なる逸脱ではない。

それは、人間がどれほど未来の評価や関係によって縛られているかを示している。

辞めることが決まる。

失う未来が減る。

恐れが弱まる。

そして、それまでできなかった行動が現れる。

だが同時に、辞め際には力も失われていく。

周囲は次の人物を見る。

権限は残っていても、影響力は薄れる。

辞め際とは、自由と無力が交差する短い時間である。

その中で、人は最後の決断をする。

それは清算かもしれない。

刻印かもしれない。

逃げ切りかもしれない。

だから私たちは、辞め際の大胆さを、無条件に称賛するべきでも、ただ「さもしい」と切り捨てるべきでもない。

見るべきなのは、その行動が何を守り、誰へ負担を渡したのかである。

人は、失う未来がなくなったとき、自由になる。

しかし、その頃には、動かせる現在も少なくなっている。

だからこそ本当に必要なのは、終わりを待つことではない。

終わる前の人生に、少しだけ辞め際の自由を持ち込むことである。


最終命題


終わりは、人から恐れを奪う。
だが同時に、人から力も奪っていく。
辞め際の無茶とは、その二つが交差する短い時間に起こる。


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