実は、同じりんごは一個もないんです。
副題: 数えることと、世界を削ることの話
🌙 はじめに
スーパーで
「りんご3個 198円」
みたいなポップを見る。
家に帰って、
そのうちのひとつを手に取って、まじまじと見る。
傷の付き方も、赤と黄色の混ざり方も、
ヘタの曲がりも、全部ちがう。
グラム数をぴったり揃えたとしても
原子の数まで一致させたとしても
そのりんごは
そのりんごでしかない。
まさに、一つの個でしかない。
頭では
「3個」という数字でまとめてしまえるのに、
目の前のこれは、どうしてもひとつの「個」として立ち上がってくる。
今日は、
数字で世界をならしてしまう感覚と
それでも消えずに残る「一度きりの何か」の話をしてみたい。
1. 数字は便利だからこそ危ない。
まず、数字は圧倒的に便利だ。
りんご3個
フォロワー1200人
売上30万円
睡眠時間6時間
世界を「いくつか」でまとめてしまえば、
比較もできるし、管理もできるし、計画も立てやすい。
でも、この便利さには
目に見えにくい代償が混ざっている。
世界を数字で扱うというのは、
世界から「個性」と「履歴」と「文脈」を削ぎ落とす、
かなり乱暴な操作でもある。
りんごが3個ある、というとき
そこにあるのは
• 3という記号
• 「1対1対応で数えられるものが3つある」という構造
だけだ。
どのりんごが、どの順番で、
どんな農家で育って、
誰の手を経てきたのかは、
全部、どうでもいいものとして捨てられてしまう。
数字は
世界を「扱いやすくする」かわりに
世界から「二度と戻らない何か」を削り落としている。
2. 「同じ」は少なくとも3種類ある。
ここで、少し整理をしてみる。
ぼくたちが日常で
「同じ」と呼んでいるものの中には
少なくとも3つのレベルが混ざっている。
① 量として同じ
100g と 100g
3個 と 3個
原子数 N と N
これは、完全に数字の世界の話だ。
どの100gなのかは問わない。
とにかく量が同じであれば「同じ」でいい、というレベル。
② 性質として同じ
同じ品種
同じ糖度
同じサイズ
統計的にも、物理的にも、
ほぼ区別がつかない、という意味での「同じ」。
科学や工業製品は、
このレベルの「同じ」をめざして動いている。
③ 個として同じ
そしてもう一段、しつこい「同じ」がある。
昨日、あなたがかじりかけて
ラップして冷蔵庫に戻した、あのりんご。
それは、世界に一個しかない。
同じ品種で、同じg数で、
原子レベルの配置まで完全コピーできたとしても
コピーされた瞬間、
それは「別の個」に変わってしまう。
この「個としての一度きりの性質」は、
数字ではどうにも表現しようがない。
りんごが何個あろうと
g数が一致していようと
原子の数まで一致していようと
同じりんごは一個しかない
という感覚は、
まさにこの③のレベルの話だ。
3. 数えるとは、「個」をわざと見ない技術だ。
数学は、徹底して
①と②だけを扱う世界だ。
りんごが3個ある、というとき
どのりんごを1番と呼び
どれを2番と呼ぶかは問わない。
入れ替えても、
別のりんごと差し替えても、
「3個ある」という事実さえ保たれていれば
同じ状態として扱う。
この態度を極限まで推し進めたのが
自然数の世界だ。
0があって
「次の数」を与える操作があって
0からその操作を何回も繰り返したものだけが自然数。
そこには
りんごも、人間も、感情も、履歴もいない。
ただ、
いくつあるか
次はいくつか
という構造だけが、ガチガチに保存されている。
だから、
数えるというのは本来
世界から
「このリンゴであること」
「この人であること」
を意図的に捨てて
「3個」「n人」「売上30万円」として扱う
かなり強力な抽象技術だと言える。
便利さと引き換えに、
一回性を見ないことにする約束でもある。
4. それでも取りこぼされる「10958」という穴
ここで、ひとつヘンな数字が出てくる。
10958
1から9までの数字を
順番もそのまま
それぞれ一回だけ使って
足し算、引き算、掛け算、割り算、累乗、かっこ
だけで式をつくってみる、という遊びがある。
そのルールで
0から11111までの整数を
コンピュータで片っ端から作らせてみると
ほとんど全部の数は、何らかの式で表現できる。
なのに、なぜか
10958だけが
どうやっても出てこない。
ルールをどれだけ組み合わせようが
ありとあらゆる式を探索しようが
10958だけは、ぽっかり抜け落ちたままになる。
ここで起きているのは、
数字という、徹底的に抽象化された世界の中でさえ
便宜的に決めた記号ゲームと
「数そのもの」が持っている構造のあいだに
たった一つだけ、ズレが露呈してしまった、という現象だ。
りんごでいうなら、
どれだけ量も性質も揃えても
どうしても「同じにならないもの」が
最後に一個だけ残る感じに近い。
5. 世界と言語のあいだに、必ず残る一点
この10958の話は、
りんごや数字だけの問題ではない。
少し視点をずらすと、
こんな構図が見えてくる。
• 世界の側には
一度きりの出来事や、個体や、経験がある
• 人間の側には
言葉や概念や数字という
便宜的なラベルの体系がある
ぼくたちは、
このラベル体系で世界を覆い尽くそうとする。
孤独
愛着障害
トラウマ
幸福度
自己肯定感
生産性
名前をつけて、
数値化して、
分類して、
管理して、
少し安心する。
でも、おそらくどんなに精密なラベル体系をつくっても
りんごでいえば「このりんご」
数字でいえば「10958」
に相当するものが、
どこかに必ず取りこぼされる。
世界を言葉で説明しようとすると
どうしても残ってしまう、
名付けられない一点。
数字で人生を分析しても、
どうしても回収しきれない、
あの一回限りの夜や、
あの一言や、
あの沈黙。
数字は便宜だ。
言葉も便宜だ。
理論も便宜だ。
でも、
その便宜の網目から、必ずすり抜けてしまう何かがある。
6. 数字を捨てるのではなく、「残った一個」を忘れないこと
ここまで来ると、
だから数字はダメなんだ
だから統計や分析は信用できない
という方向に行くこともできる。
でも、たぶんそれは
もったいない結論だと思う。
数字は役に立つ。
統計も、会計も、アルゴリズムも、
ぼくたちの生活を現実に支えてくれている。
問題は、
数字で世界を扱うときに
「同じりんごは一個しかない」
「どんなルールにも、10958みたいな穴が一個は残る」
という感覚を、
どこまで手放さずにいられるか、だ。
人を「フォロワー数」でしか見なくなったとき
クラス全体を「偏差値」でしか捉えなくなったとき
街を「人口」や「消費ポテンシャル」でしか見なくなったとき
③のレベルの「個としての一度きり」が
静かに切り捨てられていく。
りんご3個198円を買うことは
悪いことではない。
ただ、袋を開けるときに
一瞬だけでも、
今日、手に取ったこのりんごは
世界に一個しかないんだな
と意識にのせてみる。
それだけで、
世界との接し方が
ほんの少しだけ変わる。
7. おわりに ―― あなたの中の「10958」
最後に、話を最初の一文に戻したい。
りんごが何個あろうと
g数が一致していようと
原子の数まで一致していようと
同じりんごは一個しかない
この感覚は、そのまま
自分自身にも向けることができる。
年齢も
年収も
フォロワー数も
スキの数も
健康診断の数値も
どれだけ似ている人がいたとしても
「あなたという個」は
世界に一個しかない。
どんなに統計的に似ていても
どんなに条件が重なっても
コピーされた瞬間、それはもう別物だ。
数字で自分を管理することはできる。
分析することもできる。
改善することもできる。
それでもなお、
数字ではぜったいに届かない「残り」がある。
その「残り」を
ぼくは、ひとまずこう呼んでおきたい。
あなた自身の中に、
どうやっても式で表現できない 10958 がひとつだけある、と。
その一点を
忘れないまま生きること。
それが、
数字と仲良くしながらも、
数字に支配されすぎないでいるための
ささやかなバランスなのかもしれない。
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