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私は私を見るたびに少し遅れる

副題
自己の一貫性 後悔 責任の哲学

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「私」って、誰が「私」を見ているの?

この記事の原点にあたる考察。

「自己は観測によって成立するのではなく、自己が存在するから観測が可能になる」という命題から、観測以前の私、自己像、メタ認知の問題を考えている。

本記事が「観測された私はどう変わるのか」を扱うなら、こちらは「そもそも観測する私はどこから来るのか」を扱う前提記事である。

はじめに


私は私を見ている

そう思うことがある

今日の自分はうまくやれただろうか

あの言い方は正しかっただろうか

明日の自分は大丈夫だろうか

私たちは日々の中で 自分を見つめ 自分を評価し 自分を少しだけ修正しながら生きている

けれど ここには不思議なことがある

私が私を見た瞬間 その私はもう 見られる前の私ではない

見たことで 気づいてしまったからだ

気づく前の私と 気づいた後の私

それは同じ私なのだろうか

完全に同じではない

けれど 完全に別人でもない

この曖昧な連続性の上に 私たちの人生は成り立っている

1
観測された私は もう少し変わっている


自己は観測によって成立するのではない

自己が存在するから 観測が可能になる

ここでいう自己とは、自己像ではなく、身体を持ってすでに生きている存在としての自己である。

自己像は観測によって作られるが、観測するための身体としての私は、すでに世界の中に置かれている。

この考え方は 一見すると単純に見える

けれど 時間を入れると少し複雑になる

今の私が私を観測する

すると その観測によって 未来の私は少し変わる

自分は疲れていると気づいた私は 休もうとするかもしれない

自分は怒っていると気づいた私は 言葉を飲み込むかもしれない

自分は間違えたと気づいた私は 次は違う選択をしようとするかもしれない

つまり観測とは 現在の私が未来の私に影響を与える行為である

見たから変わる

気づいたから変わる

言葉にしたから変わる

では 観測前の私と観測後の私は同じなのか

厳密には違う

例えば、「今」と口に出したとする。

しかし「今」と口に出した時点で、

「今」と考えた自分は過去の自分になっている。

けれど その違いはあまりにも小さい

だから私たちは気づかない

昨日の私と今日の私を 同じ私だと思っている

朝の私と夜の私を 同じ私だと思っている

失敗した私と反省した私を 同じ私だと思っている

この同じだと思う力がなければ 人は生きていけない


補章  
この遅れは、比喩だけではない


ここでいう遅れは、単なる比喩ではない。

私たちは物理的にも、世界に少し遅れている。

光が目に届くまでにも時間がかかる。

網膜が情報を受け取り、神経が信号を送り、脳がそれを処理し、注意がそこに向き、意識として立ち上がるまでにも時間がかかる。

つまり私たちは、現実そのものをその瞬間に見ているのではない。

ほんの少し前の世界を受け取り、それを脳が補正し、次に起こることを予測しながら、今として感じている。

この意味で、意識とは現在の写しではない。

遅れて届いた世界を、未来予測によって現在らしく組み立てる働きである。

無意識は、生命のデフォルトに近い。

呼吸すること。

姿勢を保つこと。

危険に反応すること。

慣れた動作を続けること。

それらの多くは、意識が一つひとつ命令しているわけではない。

生命はまず、無意識の処理として世界に応答している。

そこに注意が向く。

何かが気になる。

何かが引っかかる。

何かを選び取る。

そのとき、無意識の海から一部が浮かび上がり、意識として顕現する。

だから意識とは、世界のすべてを照らす光ではない。

無意識の中から、未来に関わるものを選び取り、次の行動へ向けて照らす光である。

意識とは、未来予測でもある。

ただ過去を受け取るだけではない。

次に何が起こるのか。

何を避けるべきか。

何を選ぶべきか。

どこに注意を向けるべきか。

その予測のために、意識は立ち上がる。

私は私を見るたびに少し遅れる。

それは、自己観測の遅れであると同時に、身体と神経と意識そのものが持つ物理的な遅れでもある。

そして、その遅れを未来へ向けて補正しようとする働きが、私たちの意識なのかもしれない。


2
私たちは無自覚に自己の一貫性を信じている


人は 自分が明日も自分であると信じている

だから貯金をする

だから健康に気を使う

だから勉強する

だから仕事を覚える

だから約束を守ろうとする

未来の私が今の私とつながっていないなら 今日の努力は誰のためのものなのか分からなくなる

明日の私が完全な他人なら 今日の節制には意味がなくなる

老後の私が私ではないなら 貯金は他人への贈与に近くなる

それでも私たちは 未来の私を自分だと思っている

まだ存在していない未来の私を 現在の私の延長として扱っている

これは事実というより 信頼に近い

自己の一貫性とは 証明されたものではない

信じられているものだ

しかも かなり深いところで信じられている

人はそれを普段意識しない

けれど その信頼がなければ 生活は崩れる

将来のために備えることも

過去の責任を引き受けることも

今の選択を慎重に扱うこともできなくなる

自己とは 固定された石のようなものではない

流れ続ける川に近い

水は入れ替わっている

形も少しずつ変わっている

けれど それでも私たちはその流れを川と呼ぶ

私も同じなのかもしれない

変わり続けている

それでも 私として続いている


3
自己の一貫性が壊れると 倫理も壊れる


もし人が 未来の自分を自分だと思えなくなったらどうなるのか

おそらく人は かなり危うくなる

明日の自分がどうなっても関係ないなら 今日の欲望を抑える理由は弱くなる

未来の自分が罰を受けるだけなら 今の自分は罪を犯すことをためらわなくなるかもしれない

過去の自分が自分ではないなら 責任を感じる理由も薄くなる

これは単なる道徳の問題ではない

自己の時間的連続性の問題である

人が罪を恐れるのは 罰が怖いからだけではない

罰を受ける未来の私が 今の私とつながっていると感じているからである

人が危険を避けるのも 痛みを受ける未来の私が 自分の延長だと感じているからである

捕食者を警戒することも同じである

今の私が油断すれば 次の瞬間の私が傷つく

だから警戒する

つまり 生存も倫理も 自己の一貫性を前提にしている

私は少しずつ変わる

それでも私であり続ける

この感覚がなければ 人は未来に責任を持てない

自分に対しても

他人に対しても

社会に対しても


4
後悔とは 現在の私が過去の私に向けて放つ文句である


後悔とは何か

それは 現在の私が過去の私に向けて放つ文句のようなものだ

なぜあんなことを言ったのか

なぜあのとき気づけなかったのか

なぜもっと大切にできなかったのか

後悔しているとき 現在の私は過去の私を責めている

けれど それだけではない

後悔は 未来の私への修正指令でもある

次は同じことをするな

次は気づけ

次は失う前に止まれ

後悔の苦しさは ここにある

現在の私は 過去の私を責めながら 未来の私を守ろうとしている

過去への文句と 未来への命令

その両方を同時に抱えるから 後悔は重い

もし過去の私が完全な他人なら 後悔は成立しない

あれは私ではなかったと言えば終わる

もし未来の私が完全な他人なら 反省も成立しない

次に変わる必要がないからだ

だから後悔とは 自己の一貫性があるからこそ生まれる痛みである

私は変わった

けれど あのときの私も私だった

この認識があるから 人は苦しむ

そして この苦しみがあるから 人は少しだけ変われる


5
制度は私を肉体に紐づける


過去の私

現在の私

未来の私

どれも同じ私ではない

考えていることも違う

身体の状態も違う

記憶の意味づけも違う

大切にしているものも少しずつ変わっている

それでも社会は それらを同じ私として扱う

なぜか

制度が私を肉体に紐づけているからである

名前がある

戸籍がある

住所がある

口座がある

契約がある

履歴がある

借金がある

罪がある

罰がある

資格がある

職歴がある

医療記録がある

これらはすべて 変わり続ける私を同一人物として扱うための装置である

私は昨日の私とは少し違う

十年前の私とはかなり違う

明日の私も今日の私とは少し違う

けれど制度は その違いを細かく見ない

制度は心の変化ではなく 肉体の連続性を見ている

この身体で契約したのなら この身体に責任が残る

この身体で罪を犯したのなら この身体が裁かれる

この身体で借りたのなら この身体に返済義務が残る

この身体で積み上げたものなら この身体に履歴として残る

つまり制度はこう言ってくる

お前は変わったかもしれない

けれど あのときの私もお前である

ここに人間の苦しさがある

内面の私は変化している

反省もする

成長もする

もうあの頃の自分ではないと思うこともある

しかし制度は 変わった私ではなく つながっている私を見る

制度にとって重要なのは 私が何を感じているかではない

その行為が どの肉体によって行われたかである

これは冷たい

けれど 必要でもある

もし制度が 私はもう変わったという言葉だけで過去を切り離してしまえば 責任は成立しなくなる

借りた人間が 今の私は違うと言えば返さなくてよくなる

傷つけた人間が 今の私は別人だと言えば責任を逃れられる

約束した人間が あれは昔の私だと言えば 約束は消えてしまう

それでは社会は成り立たない

だから制度は 私の変化をすべて許さない

変わったことは認める

しかし つながっていることも要求する

制度は私を肉体に紐づける

その紐づけを ただの拘束で終わらせるか

それとも 自分の時間を引き受けるための足場にするか

そこに 私たちの成熟が問われている


6
責任とは 時間の中の複数の私を引き受けることである


私とは 一つの点ではない

過去の私

現在の私

未来の私

そのすべてが 完全には一致しないままつながっている

責任とは このズレた私たちを それでも私として引き受けることだと思う

過去の私は未熟だった

未来の私はまだ存在していない

現在の私はその間にいる

過去の私を裁きすぎれば 自分を壊してしまう

未来の私を軽んじれば 今を荒らしてしまう

現在の私だけを絶対化すれば 時間の中で生きることができなくなる

だから必要なのは 変化を否定しない一貫性である

一貫性とは、同じままでいることではない。

むしろ、変わってしまった自分を、変わったから別人だと切り捨てず、それでも自分として引き受けることなのだと思う。

昨日の私と今日の私は完全には同じではない。

けれど、昨日の私がしたことを、今日の私はまったくの他人事にはできない。

変化を理由に責任を捨てないこと。

責任を理由に変化を否定しないこと。

そのあいだに、自己の一貫性はある。

私は変わる

それでも私である

私は間違える

それでも私として引き受ける

私はまだ完成していない

それでも未来の私へ何かを渡していく

ここでようやく 制度が外側から固定したものを 内側から引き受ける仕事が始まる

制度が過去の私と現在の私を同じ人物として扱うなら 私もまた そのつながりを無視できない

ただ制度に縛られるだけなら それは管理である

ただ過去を拒絶するだけなら それは逃避である

そのあいだで 私は私を引き受ける

未熟だった私も

間違えた私も

変わろうとしている私も

そのすべてを ひとつの時間として結び直していく

だから責任とは 罰の話だけではない

時間の中で分裂していく私を 私として引き受け直す行為である


おわりに


私は私を見る

けれど 私を見た瞬間 私は少し変わっている

見られた私は すでに過去の私である

見ている私は その少し後ろにいる

そして未来の私は その観測の影響を受けて まだ見えない場所に立ち上がっていく

自己とは 固定されたものではない

けれど ばらばらでもない

変わり続ける私を それでも私として結び続ける力

それが自己の一貫性なのかもしれない

私たちは その一貫性を証明してから生きているわけではない

信じているから生きている

明日の私も私である

過去の私も私だった

今の私は そのあいだに立っている

後悔しながら

修正しながら

未来の私に 少しでもましな形で自分を手渡そうとしている

だから私は 私を見るたびに少し遅れる

けれど その遅れの中でしか 私は私を引き受けられない

私は以前、意識とは光のようなものではないかと考えた

もしそうだとすれば、自己観測とは、暗闇にいる私へ私が光を当てる行為である

だがその瞬間、照らされた私はすでに照らされる前の私ではない

そして、その遅延が存在の重みではないだろうか

もし私が完全に私と一致していたなら、後悔も責任も生まれない。

観測する私と、観測される私のあいだにわずかな遅れがあるからこそ、私は過去を引き受け、未来へ修正を送ることができる。

存在とは、完全な一致ではない。

自分に追いつけないまま、それでも自分として続いていくことである。


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本記事では、自己観測によって私が少しずつ変わり、そのズレの中で責任や後悔が立ち上がることを書いた。

では、そもそも「観測する私」とは何なのか。

意識は連続ではなく点滅なのではないか。

自己とは、観測によって生まれる残像なのではないか。

感情とは、意味の発光なのではないか。

そうした問いを、光の比喩を通して存在論まで掘り下げたのがこの記事である。

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