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足りなかったのは、人ではなく橋だった

副題

能力不足と呼ばれるものを、要求と応答のあいだから考える

はじめに|不足は、どこにあるのか


何かができなかったとき、人はすぐに「不足」という言葉を使う。

能力が足りなかった。
努力が足りなかった。
経験が足りなかった。
適応力が足りなかった。
覚悟が足りなかった。

たしかに、そのような場合もある。

練習すればできるようになることはある。
知識を得れば解決できることもある。
時間をかければ届く場所もある。

しかし、すべての不達成を、人間の内部にある不足として説明してよいのだろうか。

たとえば、人間は木星まで泳いでいけない。

それは泳力が足りないからではない。
努力が足りないからでもない。
根性が足りないからでもない。

人間の身体と、木星までの環境条件が、そもそも直接には接続していないのである。

宇宙空間には呼吸できる空気がなく、距離はあまりにも遠く、身体は放射線や温度変化に耐えられない。

ここにあるのは、人間の欠陥ではない。

人間が返せる応答と、環境が要求する条件とのあいだに、大きな隔たりがあるという事実である。

その隔たりを、私たちはしばしば「能力不足」と呼んでしまう。

けれど本当に足りなかったのは、人間なのだろうか。

もしかすると、足りなかったのは、人間と環境のあいだに架ける橋だったのではないか。


第1章|能力不足という内部化


「できなかった」という事実と、「能力がなかった」という評価は同じではない。

結果だけを見れば、両者は簡単に結びつく。

試験に落ちた。
仕事を続けられなかった。
人間関係が壊れた。
集団になじめなかった。
期限までに終えられなかった。

だから能力がなかった。
だから努力が足りなかった。
だから適応できなかった。

しかし、結果から原因へさかのぼるとき、私たちは多くの条件を省略している。

試験の形式は、その人の理解を適切に測れるものだったのか。
仕事量は、与えられた時間と人員で処理可能だったのか。
関係は、一方だけの譲歩によって維持されていなかったか。
集団の規範は、その人の違いを許容できるものだったか。
期限そのものが、現実的な設定だったのか。

人間が返せる応答には限界がある。

体力には限界がある。
集中力にも限界がある。
記憶にも限界がある。
感情を処理する力にも限界がある。
他者に合わせ続ける力にも限界がある。

それにもかかわらず、環境側の要求を無限に正当なものとして扱えば、達成できない原因はすべて人間側へ戻される。

一日百時間働けないのは、努力不足になる。
眠らずに集中し続けられないのは、自己管理不足になる。
全員の期待に同時に応えられないのは、コミュニケーション能力不足になる。
理不尽な環境に耐えられないのは、適応力不足になる。

この構造では、環境の要求水準が検討されない。

要求は最初から正しい。
達成できない人間だけが不足している。

だが、要求が人間の可能範囲を超えているなら、不足という言葉の置き場所が違う。

問題は人間の内部ではなく、人間の応答と環境の要求のあいだにある。


第2章|要求と応答のあいだにある谷


環境は、人間に何らかの応答を求める。

寒さは、体温を維持することを求める。
距離は、そこまで移動することを求める。
仕事は、一定の時間内に処理することを求める。
言語は、意味を理解し返答することを求める。
社会は、規則や役割に沿って行動することを求める。

これに対して、人間は自らの身体、知識、経験、感情、時間、資源を使って応答する。

要求と応答が噛み合えば、行為は成立する。

歩ける距離なら歩く。
理解できる言葉なら答える。
処理可能な仕事量なら終えられる。
受け止められる感情なら関係を続けられる。

しかし、要求が応答可能な範囲を超えると、両者のあいだに谷が生まれる。

その谷が小さければ、訓練や努力で越えられることもある。

少し体力をつける。
知識を増やす。
経験を積む。
言葉を覚える。
手順を改善する。

だが、谷が人間の上限を超えているなら、努力量を増やしても直接には越えられない。

ここで重要なのは、

適応不足であることと、人間側に責任があることは同じではない

という点である。

木星まで泳げない人間は、木星への水泳適応が不足している。

だが、その不足は人間の怠慢を意味しない。
人間という生物の構造と、木星までの環境条件が一致していないだけである。

魚が陸で長く生きられないことも、陸への適応不足ではある。

しかし、魚が努力しなかったからではない。

「不足」という言葉は、本来、善悪を表すものではない。

それは要求と応答のあいだに残った差を表している。

不足がある。
だが、誰かが悪いとは限らない。

人間と環境の折り合いがつかなかった。

それだけの場合もある。


第3章|文明とは、谷に橋を架ける営みである


人間は、多くの環境に直接適応できない。

寒冷地では、裸のままでは体温を保てない。
長距離を徒歩だけで移動するには時間がかかる。
重いものを身体だけで持ち上げるには限界がある。
膨大な情報を記憶だけで保持することも難しい。

だから人間は、自らを無限に強くする代わりに、環境とのあいだに橋を架けてきた。

服は、身体と寒さのあいだに架けられた橋である。

靴は、足と地面のあいだに架けられた橋である。

眼鏡は、視覚と対象のあいだに架けられた橋である。

車は、身体と距離のあいだに架けられた橋である。

文字は、記憶と時間のあいだに架けられた橋である。

翻訳は、異なる言語のあいだに架けられた橋である。

貨幣は、異なる物や労働の価値を交換するための橋である。

法律や制度は、個人同士の力だけでは調整できない関係に架けられた橋である。

人間は木星まで泳げない。

だから泳力を無限に鍛えるのではなく、宇宙船を作ろうとする。

ここに文明の基本構造がある。

文明とは、人間の限界を消すものではない。

人間の限界を残したまま、環境との接続方法を変えるものである。

人間は飛べない。
だから飛行機を作る。

人間は遠くの声を聞けない。
だから電話を作る。

人間はすべてを覚えられない。
だから文字や記録媒体を作る。

人間は一人ですべてを行えない。
だから分業と共同体を作る。

適応とは、身体そのものを変えることだけではない。

人間と環境のあいだに、媒介を置くことでもある。

そして文明とは、その媒介を作り続けてきた歴史だと言える。


第4章|橋は、どちら側から架けるのか


谷に橋を架ける方法は、一つではない。

人間側が変わることもある。

技術を身につける。
知識を増やす。
体力をつける。
新しい規則を学ぶ。

環境側を変えることもある。

仕事量を減らす。
期限を延ばす。
段差をなくす。
説明方法を変える。
役割を再分配する。

道具を入れることもある。

眼鏡を使う。
機械を使う。
翻訳装置を使う。
AIを使う。

第三者が介在することもある。

教師が教える。
通訳が入る。
医療者が支える。
行政が制度を整える。
家族や友人が補助する。

多くの問題は、どちらか一方を変えれば解決するものではない。

人間が少し変わり、環境も少し変わり、そのあいだを道具や制度がつなぐ。

折り合いとは、一方が全面的に譲ることではない。

両者が接続できる地点を探すことである。

だが現実には、橋を架ける責任は人間側へ偏りやすい。

職場になじめないなら、本人が変わる。
学校に合わないなら、生徒が適応する。
家庭で問題が起きれば、気づいた人が我慢する。
制度が使いにくくても、利用者が勉強する。

環境側の要求はそのまま残り、人間だけが変化を求められる。

ここで「適応」という言葉は、一方的な服従に近づく。

しかし、人間と環境のあいだにある谷を、人間だけの責任にしてよい理由はない。

環境が人間に要求するなら、環境側にも接続可能性を作る責任がある。

企業が高い成果を求めるなら、必要な人員や時間や設備を整える必要がある。

学校が学習を求めるなら、理解へ至る複数の道を用意する必要がある。

社会が参加を求めるなら、多様な身体や生活条件でも参加できる構造を作る必要がある。

要求には、橋を整備する責任が伴う。

要求だけを出し、橋の建設費用をすべて個人に負わせるなら、それは適応ではなく、負担の押しつけである。


第5章|誰かが橋になっている


橋は、道具や制度として見えるとは限らない。

ときに、誰か一人が自分を削ることで、要求と応答の差を埋めている。

人員不足を、残業する人が埋める。

家事や育児の偏りを、黙って引き受ける人が埋める。

会話の不成立を、いつも言葉を選び直す人が埋める。

壊れかけた関係を、謝り続ける人が埋める。

制度の不備を、現場の善意が埋める。

表面上、物事は成立している。

仕事は回っている。
家庭は維持されている。
関係は続いている。
制度も機能しているように見える。

しかし実際には、誰かが谷に横たわり、その上を周囲が渡っている。

その人が耐えているあいだ、構造の欠陥は見えない。

残業する人がいるから、人員不足は問題にならない。

我慢する人がいるから、関係の不均衡は表面化しない。

気を利かせる人がいるから、制度の不備は放置される。

この状態を「折り合いがついている」と呼ぶことはできない。

折り合いがついているのではなく、一方の損耗によって不一致が隠されているだけである。

橋があるかどうかだけでは足りない。

その橋が何で作られているのかを見なければならない。

金属やコンクリートで作られた橋もある。

制度や役割分担で作られた橋もある。

そして、人間の我慢や罪悪感や自己犠牲で作られた橋もある。

だが、人間を材料にした橋は、いつか崩れる。

崩れたとき、その人は「続ける能力がなかった」と評価されるかもしれない。

しかし本当は、その人に能力がなかったのではない。

一人の身体や心を橋として使い続ける構造に、持続可能性がなかったのである。


第6章|橋を架けられなかったのか、架けなかったのか


すべての谷に橋を架けられるわけではない。

技術的に不可能な場合がある。

費用が高すぎる場合もある。

橋を維持する資源がない場合もある。

現在の技術では届かない場所もある。

木星まで泳ぐための橋は存在しない。

宇宙船なら近づけるかもしれないが、それにも膨大な技術、時間、資源が必要になる。

ここでは、いくつかの状態を分ける必要がある。

一つは、橋を架けること自体が不可能な場合である。

二つ目は、架けることは可能だが、費用があまりにも大きい場合である。

三つ目は、架けることは可能だが、誰も費用を負担したくない場合である。

四つ目は、橋を架ける必要性が乏しい場合である。

五つ目は、向こう岸の要求そのものが不当な場合である。

この違いを無視すると、すべてが「仕方がなかった」か「努力不足だった」のどちらかに丸められてしまう。

だが、架けられなかった橋と、架けなかった橋は同じではない。

可能な支援があったのに、費用を惜しんで行わなかった。

環境を少し変えれば参加できたのに、前例がないという理由で拒んだ。

必要な人員を増やせたのに、利益を優先して現場の我慢に任せた。

この場合、折り合いがつかなかったという結果は同じでも、その過程には責任がある。

一方で、橋を架けないことが妥当な場合もある。

すべての要求に応える必要はない。

すべての環境に適応する必要もない。

橋を架けても、その先に行く価値がないこともある。

理不尽な関係を維持するために、自分を作り変える必要はない。

壊れた組織に残るために、心身を削る必要もない。

不当な要求に応えるための橋は、接続を可能にする一方で、不当な環境を延命させる。

だから問うべきなのは、単に橋を架けられるかどうかではない。

その橋を架けるべきなのか。

誰が費用を負担するのか。

橋を渡ることで、誰が利益を得るのか。

渡り続けることで、誰が消耗するのか。

橋が可能であることと、橋が正当であることは別の問題である。


第7章|撤退もまた、折り合いのつけ方である


人間と環境の折り合いがつかないとき、私たちは接続する方法ばかりを探しがちである。

もっと努力する。
もっと慣れる。
もっと工夫する。
もっと我慢する。
新しい橋を架ける。

しかし、折り合いをつける方法は接続だけではない。

離れることもある。

別の仕事を選ぶ。
別の場所へ移る。
関係を終える。
役割を返す。
要求を断る。

撤退は、しばしば適応の失敗として見られる。

続けられなかった。
なじめなかった。
耐えられなかった。

だが、すべての谷を越える必要はない。

向こう岸へ行かないという選択もある。

橋を架ける費用が、自分の人生全体を失うほど大きいなら、その橋を諦めることは敗北ではない。

環境との不一致を認め、別の接続先を探すことも適応である。

適応とは、どこにでも自分を合わせる力ではない。

自分がどの環境なら応答できるのかを知る力でもある。

どの要求なら受け入れられるのか。

どこから先は自分を壊すのか。

どの谷には橋を架ける価値があるのか。

どの谷からは離れるべきなのか。

それを見極めることも、人間と環境の折り合いの一部である。

人は、すべての環境に適応する必要はない。

環境を選び直すこともできる。

そして環境の側もまた、人間に選ばれなければ存続できない。

職場から人が去る。
地域から住民が去る。
関係から相手が去る。

それは個人の適応不足であると同時に、環境が人間を保持できなかった結果でもある。

接続は、常に双方の問題である。


おわりに|折り合いとは、誰かを壊さずにつながること


何かができなかったとき、そこには確かに不足がある。

だが、その不足が人間の内部にあるとは限らない。

人間の応答と、環境の要求が一致しなかった。

そのあいだに谷があった。

そして、谷に橋を架けられなかった。

足りなかったのは、能力かもしれない。

時間かもしれない。

道具かもしれない。

技術かもしれない。

制度かもしれない。

環境側の柔軟性かもしれない。

資源かもしれない。

相互理解かもしれない。

あるいは、現在の人類にはまだ作れない橋だったのかもしれない。

できなかったという結果だけでは、不足の所在は分からない。

だから、不達成をただちに人間の欠陥へ変換してはならない。

人間と環境の折り合いがつくとは、人間が環境に屈服することではない。

環境が人間の要求をすべて受け入れることでもない。

双方のあいだに、現実的で、持続可能で、誰か一人を材料にしない接続方法が成立することである。

橋を架けること。

橋の費用を分け合うこと。

橋が必要なほど谷が深いなら、要求そのものを見直すこと。

そして、橋を架ける価値のない谷からは離れること。

能力不足と呼ばれてきたものの中には、実際には橋の不足だったものが数多く含まれている。

努力不足と呼ばれてきたものの中には、努力では埋められない谷があった。

適応不足と呼ばれてきたものの中には、環境側が接続を拒んでいたものもある。

人が足りなかったのではない。

人と世界のあいだに、まだ道がなかった。

そう捉え直すことは、すべての責任を消すことではない。

むしろ、責任の所在を正確に見直すことである。

誰が悪いのかを急いで決める前に、まず谷を見る。

そして問う。

橋は本当に架けられなかったのか。

誰かが橋になっていなかったか。

要求そのものは妥当だったか。

その先へ渡る必要は、本当にあったのか。

折り合いとは、差をなくすことではない。

差を残したまま、互いを壊さずにつながれる場所を探すことである。


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