完璧な親などいない──そして、それでいい

「親なのに、どうして…」

私たちは、知らぬ間に親に完璧さを求めてしまう。

間違えないこと。

怒らないこと。

いつも正しく、優しく、私を守ってくれること。

けれど──

かつてのあの人は、今の私より若かった。

そして、自分が子どもを持った瞬間に気づく。

「あのとき、あの人は、こんな不安と戦っていたのか」と。

まだ誰にも頼れないまま、誰かを守ろうとしていたことを。

本稿では、「理想の親」像がもたらす呪縛と、
そこから抜け出すための倫理的跳躍について考えていく。


1|子どもはなぜ親に完全性を求めるのか?


幼い子どもにとって、親は「世界そのもの」だ。

食事も安全も、時間の感覚さえも、
すべては親を介して経験される。

だからこそ、子どもは親に「全知全能」を無意識に重ねる。

不安を打ち消す“安心の源泉”として、
常に自分を支えてくれるはずの存在として、親を記憶する。

この無垢な投影が、「理想の親」という神話を育てていく。

だが、その神話は、
いつか必ず崩れる。


2|幻想の崩壊──裏切られたのは“理想”だった


「親が間違えた」

「親が弱っていた」

「親が逃げた」

その瞬間、私たちは裏切られたように感じる。

しかし実のところ、裏切られたのは「現実」ではなく、
私たち自身が抱いていた幻想なのだ。

親は最初から、人間だった。

未熟で、矛盾していて、失敗することもある、ただの人間だった。

それに気づくとき、
怒りが湧く。

軽蔑したくもなる。

だがそれは、自分が無意識に背負っていた「理想の呪い」が壊れる痛みでもある。


3|親の未熟さに出会うこと=自分の未熟さを許すこと


大人になるとは、
親の未熟さに出会い直すことかもしれない。

私たちは、他人には寛容でも、
こと親に対しては、驚くほど厳しくなる。

「親のくせに」

「親だったら」

その言葉の背後には、常に理想像との比較がある。

だが、もし親が未熟であったなら──

その未熟さを赦すことができたなら──

私たちは、自分の未熟さも、少しは受け入れられるのではないか。

なぜなら、
親を否定しすぎることは、
自分の起源を否定することと似ているからだ。


4|親を超える/繰り返すという倫理的シミュレーション


「自分は親を超えられるのか?」

「同じ過ちを繰り返さないだろうか?」

これは多くの人が、親になる前後に直面する問いだ。

だがこの問い自体、親という存在を“シミュレーション対象”に変えたことを意味している。

もはや、神ではない。

親は「反面教師」であり、「モデルケース」であり、
時に「乗り越えるべき壁」や、「共感する存在」へと変わってゆく。

親の姿に、自分の未来の輪郭が重なる。

そのとき初めて、「親を知ること」が自分の未来への倫理的準備になる。


5|結語|不完全な人間同士として向き合うということ


完璧な親はいない。

そして、それでいいのだ。

親の不完全さを知り、
それでも自分が生きてこれたことを受け止める。

それは、過去の整理ではなく、
未来に向けた自分自身の赦しの準備でもある。

親を神格化し続けることは、
自分が「親になること」「誰かを支えること」の可能性をも縛る。

不完全な人間が、不完全なまま、
でも懸命に誰かを育てていたという事実。

それを見つめ直したとき、
私たちはようやく「親」という存在を、
制度でも幻想でもなく、一人の人間として迎え入れることができる。

そしてそのとき、
「親だったのに」ではなく、
「親でありながら、よくやっていたんだな」と、
静かに思える日が来るのかもしれない。


関連記事

『子供に教えたはずのことを、大人になった私たちはなぜ守れなくなるのか』

『アダルトチルドレンという言葉に、どこか引っかかるあなたへ 演じたあの子を手放す日』

『人は“根拠”ではなく、“納得”によって立っている』

いいなと思ったら応援しよう!

谷博貴の哲学【フォロバ100】 応援よろしくお願いします!いただいたチップは研究費用に回します。