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感謝とは、借りた力を返すことである



副題
祈り、宣言、報告、愛から考える力の循環

序章|神の力は、いつ神へ戻るのか


以前、こんな話を聞いたことがある。

出典は覚えていない。

古くからある伝承なのか、誰かが作った寓話なのか、それとも私の記憶の中で複数の話が混ざったものなのかも分からない。

けれど、その話だけは妙に心に残っている。

神の力とは、大勢の人間が神へ向ける信仰心なのではないか。

人が神を信じる。

祈る。

願う。

その信じる力が集まり、神の力になる。

そして神は、何かを成し遂げようとする人間へ、その力の一部を貸す。

ただし、神は人間の代わりに願いを叶えるわけではない。

たとえば、

「お金持ちにしてください」

と願うのではない。

神の前で、

「私は一年後に億万長者になります。だから見守っていてください」

と宣言する。

神は、その宣言を聞く。

その人間が歩こうとするとき、少しだけ力を貸す。

だが、願いを宣言した人間が、その後二度と神のもとへ戻らなければ、貸した力は神へ戻ってこない。

足の怪我が治った。

試験に合格した。

無事に仕事を終えた。

人生を立て直した。

そのとき人間が、もう一度神の前へ行き、

「おかげさまで、ここまで来ることができました」

と報告する。

そこで初めて、貸していた力が神へ戻る。

この話が宗教的に正しいかどうかは分からない。

しかし、人間の力を考えるための寓話としては、とても興味深い。

なぜなら、これは神と人間だけの話ではないと思ったからである。

人間もまた、誰かへ力を貸している。

心配する。

励ます。

教える。

支える。

待つ。

信じる。

祈る。

自分の時間、注意、感情、期待を、誰かへ向ける。

そして、その人が戻ってきて、

「無事に終わりました」

「助かりました」

「一人でできるようになりました」

と報告したとき、こちらもようやく力を回収できる。

そう考えると、感謝とは単なる礼儀ではない。

自分へ向けられていた力を、持ち主へ返す行為でもあるのではないか。

今回は、この仮説について考えてみたい。


第一章|祈りとは、未来を代行させることではない


祈りというと、人は神に何かを叶えてもらう行為を想像する。

病気を治してください。

試験に合格させてください。

お金持ちにしてください。

良い人と出会わせてください。

もちろん、苦しいときに何かへすがりたくなる気持ちは分かる。

自分ではどうすることもできない出来事もある。

病気。

事故。

天候。

災害。

他者の意思。

そうしたものに対して、人が祈ることを否定する必要はない。

けれど、祈りにはもう一つの形がある。

神に未来を代行してもらうのではなく、神を証人として、自分の未来を宣言する祈りである。

「お金持ちにしてください」

ではなく、

「私はお金持ちになるために行動します」

と宣言する。

「試験に合格させてください」

ではなく、

「私は試験に合格するために勉強します」

と宣言する。

「幸せにしてください」

ではなく、

「私は自分の生活を立て直します。見守っていてください」

と宣言する。

ここでは、行動の主体は神ではない。

人間である。

神は実行者ではなく、証人になる。

言葉を聞き届け、歩こうとする人間を見守る存在になる。

この形の祈りは、神との契約であると同時に、自分との約束でもある。

一度、言葉にした。

一度、誰かの前で宣言した。

だから、昨日までと同じ自分ではいられなくなる。

言葉は、その言葉を発した本人を拘束する。

私はこうすると言った。

私はここへ向かうと決めた。

ならば、今日は何をするのか。

ここに、祈りが現実の行動へ変わる入口がある。


第二章|神を証人にすると、未来の自由が少し狭くなる


宣言とは、自由を増やす行為のようでいて、実際には自由を少し減らす行為でもある。

何も宣言していなければ、いつでもやめられる。

今日は疲れた。

明日からやればいい。

やはり自分には向いていなかった。

そう言って、なかったことにできる。

だが、神の前で言葉にすると、その自由が少し狭くなる。

自分は、あのときこう言った。

あの言葉を知っている存在がいる。

本当に神が聞いているのかどうかは、ここでは重要ではない。

自分が、神に向かって言ったという事実を覚えている。

つまり、自分自身が証人でもある。

これは『自由意志を担保に入れるということ』と同じ構造である。

人は宣言することで、未来の自由意志の一部を担保に入れる。

気分が変わったからやめる。

面倒だから先送りする。

少し苦しいから逃げる。

そうした未来の選択肢を、現在の言葉によって少し狭める。

もちろん、宣言したことを何が何でも守らなければならないわけではない。

状況は変わる。

目標が間違っていたと気づくこともある。

身体を壊してまで続ける必要はない。

人は、自分との約束を変更してもよい。

ただし、変更するなら、なぜ変えるのかを考えなければならない。

宣言は、人を絶対的に縛る鎖ではない。

気分だけで自分を裏切らないための係留である。

神を証人にするとは、未来の自分へ、

私はこの方向へ進むつもりだった

という記録を残すことなのだと思う。


第三章|信じてもらうことは、力を借りることである


人は、自分一人の力だけで行動しているわけではない。

あなたならできる。

大丈夫だと思う。

応援している。

待っている。

無理はするな。

困ったら言ってくれ。

そう言ってくれる人がいることで、もう少しだけ進めることがある。

人から信じられることは、単なる評価ではない。

相手の中にある期待、注意、心配、時間の一部を、自分へ向けてもらうことでもある。

つまり、信じてもらうとは、力を借りることである。

神が頑張る人間へ力を貸す。

精神世界では、そう表現できる。

現実の心理や行動として見れば、

自分を見守っている存在を意識することで、行動の継続性が高まる

とも説明できる。

この二つは、必ずしも対立しない。

神から力を借りたと感じる人もいる。

家族から力をもらったと感じる人もいる。

友人の言葉で立ち直った人もいる。

亡くなった人との約束によって生き続ける人もいる。

そこに超自然的な力が存在するのかどうかとは別に、人は「誰かが信じている」という感覚によって、実際に行動を変える。

自分一人なら諦めていたかもしれない。

けれど、自分を信じてくれた人の存在を思い出す。

その人の期待を裏切りたくない。

その人が間違っていなかったと思える自分でいたい。

そう考えて、もう一歩だけ進む。

これは他人の期待に支配されることとは違う。

他人の期待だけで生きれば、自分を失う。

だが、自分が進みたい方向と、相手が貸してくれた信じる力が一致したとき、それは大きな支えになる。

人間は、ときに他者から借りた力によって、自分一人では届かなかった場所へ行く。


第四章|報告とは、結果を伝えるだけのものではない


誰かを助けたあと、その人から何の連絡もない。

教えたあと、一人でできるようになったのか分からない。

病気だと聞いたが、その後どうなったのか分からない。

困っていた人に言葉を渡したが、届いたのか分からない。

このような状態は、思った以上に人を拘束する。

あの人は無事なのだろうか。

役に立ったのだろうか。

迷惑ではなかったのだろうか。

もっと何かできたのではないか。

向けていた心配や注意を、どこで終わらせればよいのか分からない。

一方で、

「無事に終わりました」

「教えてもらった方法でできました」

「体調は戻りました」

「あの言葉に助けられました」

と連絡が来る。

すると、こちらの中で何かが終わる。

結果が良かったから嬉しい、というだけではない。

もう心配し続けなくてよい。

自分が差し出したものが、相手へ届いたと分かる。

相手へ向けていた注意を、自分へ戻すことができる。

つまり報告とは、情報を伝えるだけではない。

相手が自分へ向けていた力を、終了させる手続きでもある。

報告がないことを責めたいわけではない。

人には事情がある。

連絡できないこともある。

助けを受けた側が、報告する余裕すら失っている場合もある。

それでも、人間の力の流れとして見れば、報告には大きな意味がある。

報告は、相手へこう伝える。

あなたが向けてくれた力は届いた。
ここまで来ることができた。
もう、その心配を持ち続けなくてもよい。

それによって、貸されていた力は持ち主へ戻る。


第五章|感謝とは、代金ではなく返還である


感謝を、対価として考えるとおかしくなる。

助けてもらった。

だから同じだけ返さなければならない。

贈り物をもらった。

だから同額の物を返さなければならない。

支えてもらった。

だから一生、その人に従わなければならない。

これでは感謝が借金になる。

恩を受けた側は、永遠に債務者になる。

だが、本来の感謝は代金ではない。

「ありがとう」と伝えることで、行為の価値を清算するわけではない。

助けてもらった価値と、感謝の言葉の価値が等価になるわけでもない。

感謝とは、

あなたが差し出したものを、私は受け取った

と伝えることである。

あなたの時間は、無駄にはならなかった。

あなたの心配は、届いていた。

あなたの言葉は、ここに残っている。

あなたの存在によって、私は少し進むことができた。

そう伝える。

それによって、相手は自分の行為が宙に消えなかったことを知る。

感謝とは、何かを返済することではない。

相手がこちらへ向けていた力を、結果とともに返すことなのだと思う。

だから、お礼参りという行為にも意味が生まれる。

神に支払うために戻るのではない。

神の前で宣言した自分が、その約束をどう扱ったのかを報告する。

ここまで来ました。

うまくいきました。

途中で方針を変えました。

失敗しました。

それでも、ここまでは歩きました。

そう伝える。

神に何を返すのか。

金でも、物でもない。

結果である。

経過である。

行動した自分である。

神から借りたと感じていた力を、経験へ変え、その経験を報告として持ち帰る。

それが、感謝なのかもしれない。


第六章|人は、相手の反応によって報われている


誰かのために行動すると、人は相手の反応によって報われる。

子供が笑う。

ペットが遊ぶ。

好きな人が安心する。

困っていた人が、少し元気になる。

自分の言葉によって、相手の表情が変わる。

そこには報酬がある。

愛は無償である。

優しさは見返りを求めない。

そう言われることがある。

けれど、人間の身体はそこまで抽象的ではない。

相手の笑顔を見れば嬉しい。

ありがとうと言われれば満たされる。

頼られれば、自分の役割を感じる。

自分が誰かの役に立てたと分かれば、もう少し生きてもいいような気持ちになる。

これは愛を汚すものではない。

むしろ、相手の幸福を自分の幸福として受け取れるからこそ、人は他者のために動ける。

報酬とは、貸した力が戻ってきた感覚である。

自分が差し出した時間。

注意。

心配。

愛情。

その一部が、相手の笑顔や安心として自分へ戻ってくる。

だから人は、また何かをしてあげたくなる。

人間関係は、力を一方的に消費するものではない。

うまく循環している関係では、差し出した力が別の形になって戻ってくる。

ただし、ここから愛は危うくなる。


第七章|返還を要求したとき、愛は見えない債権になる


相手の笑顔で報われることは悪くない。

感謝されて嬉しくなることも自然である。

頼られることで、自分の存在を確認することもある。

問題は、その報酬を当然の権利だと思い始めることである。

これだけしてあげた。

だから笑ってほしい。

だから感謝してほしい。

だから自分を頼ってほしい。

だから離れないでほしい。

だから自分を必要とし続けてほしい。

ここでは、相手へ力を貸しただけではない。

返し方まで指定している。

自分は愛情を差し出した。

だから相手は笑顔で返さなければならない。

自分は支えた。

だから相手は依存で返さなければならない。

自分は我慢した。

だから相手は関係の継続で返さなければならない。

自分は心配した。

だから相手は自分の思いどおりに生きなければならない。

こうして、贈与だったものが後から債権へ変わる。

「こんなにしてあげたのに」

という言葉は、本来は贈ったはずの行為に、後から請求書を発行する言葉である。

愛に報酬があることは悪ではない。

だが、愛は報酬契約ではない。

相手の笑顔を受け取っていい。

けれど、相手には自分を報わせるために笑う義務はない。

相手に頼られて満たされていい。

けれど、相手には自分の存在意義を守るために弱いままでいる義務はない。

成熟した愛とは、報酬を拒否することではない。

自分が何によって報われているかを知りながら、その報酬を相手へ請求しないことである。


第八章|報告されない力は、宙に浮く


人が差し出した力は、必ず返ってくるわけではない。

助けた相手から連絡がない。

教えた相手が、その後どうなったのか分からない。

大切にした人が、何も言わずに離れていく。

こちらが向けていた感情や注意だけが、その場所に残る。

このとき、人は「報われなかった」と感じることがある。

だが、報われないことと、浮かばれないことは少し違う。

報われないとは、期待した成果や見返りが得られないことである。

努力したが失敗した。

愛したが選ばれなかった。

助けたが感謝されなかった。

それでも、結果が明確なら終われることがある。

駄目だった。

届かなかった。

相手は望んでいなかった。

ここで終わりにする。

そう理解できれば、力を回収できる。

浮かばれないとは、その結果さえ返ってこない状態である。

届いたのか分からない。

どう受け取られたのか分からない。

自分の行為に意味があったのか分からない。

まだ心配を続けるべきなのか、もう忘れてよいのか分からない。

力の置き場所も、戻し方も分からない。

だから人は、説明を求める。

返事を求める。

別れの言葉を求める。

区切りを求める。

それらは、単なる情報ではない。

宙に浮いている力を、自分へ戻すための手続きだからである。


第九章|達成は穏やかな返還、喪失は強制回収である


本来、力は少しずつ戻ってくる。

子供が自立する。

教えた人が、一人でできるようになる。

病気が治る。

仕事が完了する。

宣言した目標へ到達する。

そこで報告がある。

感謝がある。

別れや節目がある。

向けていた心配、期待、責任、注意を、少しずつ終わらせることができる。

これは穏やかな返還である。

だが、循環が完了する前に、対象そのものを失うことがある。

関係が突然終わる。

役割を失う。

仕事を辞める。

家庭がなくなる。

相手が去る。

大切な存在が亡くなる。

まだ愛していた。

まだ心配していた。

まだ守ろうとしていた。

まだ怒っていた。

まだ期待していた。

まだ一緒に生きるつもりだった。

その対象だけが消える。

すると、そこへ向かっていた力が一気に戻ってくる。

愛。

怒り。

責任。

我慢。

期待。

世話したい力。

守りたい力。

未来を作ろうとしていた力。

それらが、行き場を失って自分へ戻る。

だから喪失のあと、人は空っぽになるだけではない。

重くなる。

外へ流れていた力が、内側へ押し戻されるからだ。

達成とは、力の穏やかな返還である。

喪失とは、循環が閉じないまま起きる、力の強制回収である。

そして、回収された力を次にどこへ置くのか。

そこから、『人生とは、回収された力の再配置である』という問いが始まる。


第十章|少しの挑戦とは、未来の自分へ力を貸すことである


神に向かって大きな宣言をする必要はない。

人間は、もっと小さな形でも未来の自分へ力を貸している。

動画を一本作る。

千円だけ投資してみる。

記事を一本公開する。

新しい仕事を覚える。

食事を一つ置き換える。

階段を使う。

本を一冊読む。

知らない場所へ行く。

誰かに話しかける。

こうした少しの挑戦は、

自分は、これができる人間になるかもしれない

と、未来の自分を少しだけ信じる行為である。

現在の時間。

金。

体力。

注意。

それらを、まだ存在しない未来の自分へ貸す。

成功すれば、技能や信用として戻ってくる。

失敗しても、知識や経験として戻ってくることがある。

だから挑戦が長く続かなかったとしても、使った力がすべて消えるわけではない。

動画制作は、編集技能として残る。

せどりは、相場観や信用として残る。

投資は、分類力や数字を見る習慣として残る。

ダイエットは、身体を立て直す知識として残る。

二本だけ書いた記事は、五年後に本格的に書き始めるときの痕跡として残る。

少しの挑戦とは、生活を壊さない範囲で、未来の自分へ力を貸す行為である。

そして挑戦の結果を振り返ることは、その力を経験として回収する行為である。


第十一章|借りた力は、そのまま返す必要はない


人から借りた力を、同じ相手へ同じ形で返せるとは限らない。

親に育ててもらった。

だが、同じ年月を親へ返すことはできない。

先生に教えてもらった。

だが、受け取った知識を、その先生へ返しても意味はない。

誰かに励ましてもらった。

だが、その人が同じように落ち込むとは限らない。

受け取ったものを、同じ形で返せないことは多い。

では、どうすればよいのか。

借りた力を、自分の中で別のものへ変える。

知識にする。

技能にする。

信用にする。

生活にする。

優しさにする。

そして、今度は別の誰かへ貸す。

自分が教えられたから、誰かに教える。

自分が支えられたから、誰かを支える。

自分が信じてもらったから、誰かを信じる。

自分が言葉によって救われたから、言葉を書く。

恩返しという言葉がある。

だが、人生の多くは直接的な恩返しだけでは循環しない。

恩は、同じ相手へ返すだけでなく、次の人へ渡される。

受け取った力を、未来へ渡し直す。

それもまた、感謝の形なのだと思う。

感謝とは、過去へ頭を下げるだけではない。

受け取った力を、自分のところで止めず、別の誰かが使える形へ変えることでもある。


第十二章|神へ返る力、人に残る力


神から借りた力が神へ戻る。

この寓話をそのまま受け取るなら、人間には何も残らないようにも見える。

だが、そうではない。

神へ返るのは、役目を終えた信じる力である。

人間の側には、行動した経験が残る。

約束を守った記憶が残る。

途中で失敗した知識が残る。

自分は一度ここまで歩けた、という自己信頼が残る。

借りた力を、そのまま返すわけではない。

力を使い、経験へ変えたあと、その循環を報告によって閉じる。

神には感謝が戻る。

人には経験が残る。

他者から励まされた場合も同じである。

「あなたならできる」と言われて行動した。

結果を報告する。

相手は、自分が向けていた期待や心配を回収する。

自分には、自分で歩いた経験が残る。

つまり、力の循環とは元の状態へ戻ることではない。

循環するたびに、何かが変換される。

信頼が経験になる。

期待が技能になる。

心配が安心になる。

愛情が記憶になる。

失敗が知識になる。

感謝が、次の誰かへ力を貸す準備になる。

人間は、借りた力を返しながら、自分の中にも新しい力を作っていく。


終章|人生とは、力を貸し、返し、また貸すことである


人は一人で生きているようで、一人の力だけでは生きていない。

誰かに信じてもらった。

教えてもらった。

待ってもらった。

守ってもらった。

許してもらった。

見守ってもらった。

名前も知らない誰かが作った知識や制度や道具に助けられた。

自分の力だと思っているものの中にも、他者から借りた力が混ざっている。

そして人は、その力を使って行動する。

何かを作る。

誰かを助ける。

生活を立て直す。

未来を選び直す。

そのあとで、

「ここまで来ました」

と報告する。

「ありがとうございました」

と伝える。

それによって、相手へ向けられていた力は持ち主へ戻る。

同時に、自分の中には経験が残る。

そして今度は、自分が別の誰かへ力を貸す側になる。

大丈夫だと言う。

やってみればいいと言う。

困ったら助けると言う。

見守っていると伝える。

こうして、力は人から人へ移っていく。

感謝とは、受け取ったものに値段をつけて返済することではない。

あなたが差し出したものは届いたと伝えること。

もう心配し続けなくてよいと知らせること。

借りた力を経験へ変え、その結果を持ち帰ること。

そして、受け取った力を自分のところで腐らせず、次の誰かが使える形へ変えることである。

達成は、力の穏やかな返還である。

喪失は、力の強制的な回収である。

愛は、力を他者の幸福へ向けることである。

報酬は、その力が別の形で戻ってきた感覚である。

支配は、その返し方を相手へ強制することである。

感謝は、循環を閉じることである。

そして人生とは、借り、貸し、返され、回収された力を、また別の未来へ配置し直すことである。

神の前で宣言した人間が、もう一度神の前へ戻る。

「おかげさまで、ここまで来ました」

そう報告する。

そのとき神の力は神へ戻る。

けれど人間の中には、自分が歩いた道が残っている。

たぶん人は、そうやって少しずつ、自分の力だけではなかったものを、自分の生きた力へ変えていくのだと思う。


最終命題


感謝とは、受け取った親切に対する代金ではない。
自分へ向けられていた心配、期待、信頼、祈りを、結果とともに持ち主へ返すことである。
そして本当の恩返しとは、借りた力を経験へ変え、次の誰かへ貸せる力として残すことである。


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『報われないことと、浮かばれないことは違う』

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