ダメだとわかっていても、なぜ人はやってしまうのか

──広義の自傷行為としての「快楽と逸脱」の哲学

序章|それが自分を壊すと知っていても


夜遅くに開いたアプリ。

通知の相手は、今の自分が踏み込んではいけない人だった。

頭では「やめておけ」とわかっていた。

でも、指は動いてしまった。

その一口が、身体に悪いとわかっていてもラーメンを食べてしまうように。

その一本が、肺を蝕むと知っていても煙草に火をつけるように。

その関係が、自分の生活を壊すとわかっていても、不倫に走ってしまうように。

こうした行為を、我々はしばしば「意志が弱い」とか「だらしない」と片づける。

でも本当にそれだけだろうか?

もしかすると、こうした行為にはもっと深い構造──

つまり、「広義の自傷行為」としての意味が隠されているのではないか。

第1章|それでもやってしまう──自傷の再定義


一般に「自傷行為」と言えば、リストカットや過食嘔吐など、身体を直接傷つける行為が連想される。

だがここでは、もう少し広い定義を試みたい。

自傷とは、「それが自分にとって悪いと知っていながら、あえて選んでしまう行為」である。

この定義に立てば、日常の中には自傷があふれている。

• 飲みすぎること

• 食べすぎること

• スマホを見すぎて寝不足になること

• 無駄だと知りつつギャンブルに手を出すこと

• そして、壊れると知っていて踏み込む恋愛や裏切り──

それはすべて、「自分を痛める選択」であると同時に、
時に「それでも生きたい」と叫ぶような、生の自己主張でもあるのかもしれない。

第2章|快楽か、破壊か、それとも実感か?


なぜ我々は、自分を壊すと知っていながら、そうした行為を選んでしまうのか?

理由は一つではない。

だが、多くの場合、それは単なる「快楽」のためではない。

むしろ、それは次のような心理的衝動に近い:

罰としての行為:「私は愛される価値がない」
実感の回復:「このまま無感覚のまま生きていたくない」

静寂の破壊:「何かを壊さなければ、この閉塞は破れない」

つまり、傷つくこと=生きていることの証明なのだ。

痛みは苦しいが、「無感覚」よりはマシだ。

少なくとも、自分がまだ何かを感じていることはわかるから。

🔹第2.5章|行為以前の渇き──「ついやってしまう」の奥底にあるもの


私たちは、何かを“やってしまった”とき、「その行為」だけを問題視する。

でも、ほんとうに見なければならないのは、そのもっと前。

つまり、「なぜそれをやるしかなかったのか?」という問いの方だ。

その背後には、言葉にならない“渇き”がある。

愛されなかったこと。

認められなかったこと。

誰にも触れてもらえなかった身体。

忘れられていった記憶。

そうしたものが、心の奥で叫び声を上げている。

そして我々は、無意識のうちに手を伸ばす。

酒に、煙草に、あるいは不倫に。

それは「やりたくてやった」というより、
「渇きに負けた」あるいは「渇きに突き動かされた」と表現した方が正確かもしれない。

第3章|不倫という“愛の自傷”構造


ここで不倫を見てみよう。

不倫は、明らかに「制度外」の関係であり、見つかれば社会的にも倫理的にも損失が大きい。

なのに、なぜ人は不倫をするのか?

それは「抑えきれない情動」だけではない。

むしろ、「愛されなかった自分」や「壊れた関係」に対して、もう一度自分を確認したいという深層欲求が潜んでいる。

• 誰かに必要とされたい

• 忘れられたくない

• 「私はまだ、ここにいる」と感じたい

だがその手段が、制度を逸脱する形でしか見つからなかった時──

その愛は、自傷の構造を帯びる。

隠れる愛。許されない愛。

それは「選ばれた自由」ではなく、「晒せない自由」という逆説に陥る。

第4章|「誠実」とは変わらないことか?


「不倫は誠実ではない」と多くの人が言う。

では、誠実とは何か?

約束を守ること?

ずっと変わらないこと?

嘘をつかないこと?

だが人間は、日々変わっていく。

価値観も、愛情も、身体も、環境も変化する。

変わってしまったことを「なかったことにする」ために、
今の感情を押し殺すことが「誠実」だろうか?

むしろ、誠実とはこう言うべきではないか。

「変化してしまったことを、正直に引き受けること」こそが、誠実である。

自傷とは、「変わったことを引き受けられず、自分を傷つける」行為でもある。

だから、痛みの背後にはいつも語られなかった変化がある。

終章|人は、なぜ自らを壊すのか


「またやってしまった」

「わかってるのにやめられない」

「もう戻れない」

──こうした言葉の中には、ただの後悔だけでなく、生への必死な訴えがある。

人間は、論理だけでは動かない。

感情は破壊的で、自己矛盾を孕む。

でもその中でしか、人は「自分として生きる」ことができない。

我々の選ぶ“逸脱”は、愚かさではなく、矛盾した存在の自己証明かもしれない。

🔚あとがきに代えて


あなたにも、ついやってしまう行為はあるだろうか?

それは本当に「ダメなこと」なのか?

それとも、「本当のあなた」が今にも壊れそうな声で叫んでいるのだろうか?

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