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アインシュタイン伝──連続を信じた物理学者の生涯


第1章 エーテルの時代に生まれて


1879年、ドイツ帝国ウルム

アルベルト・アインシュタインは、まだ「エーテル」が当たり前のように信じられていた時代に生まれた。

子ども時代の彼は、後世の伝説ほど単純な「万能の天才」として見られていたわけではない。

ただひとつはっきりしていたのは、権威と形式が嫌いだということだった。

中等教育の途中でドイツの学校に馴染めなくなり、家族の事情もあってスイスへ渡る。

1895年、16歳のアインシュタインはチューリヒ・ポリテクニクムの入学試験を受ける。

数学と物理では高い成績を示したが、語学や歴史などの一般科目で基準に届かず、不合格となった。

そこで中等教育を修了するために進んだのが、アーラウのカントンスクールだった。

ここは、軍隊的な規律よりも、自主性と理解を重んじる学校だった。

アインシュタインは後に、学校の自由な精神と、外部の権威ではなく自らの判断に従う教師たちの姿勢が、長く心に残ったと回想している。

1896年、現在のスイス連邦工科大学チューリヒ校(ETH Zurich)にあたるチューリヒ・ポリテクニクムに進学。

数学と物理を学ぶが、授業には真面目に出ない。

試験前になると友人からノートを借りて一気に勉強し、成績は良かったり悪かったりのムラだらけ。

授業への不参加や権威に対する反抗的な態度によって、教授陣との関係は悪化していた。

卒業時、同級生たちが大学の助手職を得るなかで、アインシュタインだけは大学に残る道を得られなかった。

しかしその裏で、彼はマクスウェル電磁気学や新しい理論書を独学で読み込み続けていた。

当時、大学の正規授業では十分に扱われていなかったマクスウェル電磁気学こそ、彼の頭の中の主戦場になっていく。


第2章 特許局員の「奇跡の年」──1905


卒業しても大学には職を得られず、アインシュタインはスイス特許局(ベルン)の審査官として働くことになる(1902年)。

ここで彼は、昼間は特許の書類を読み、夜と休日に自分の物理のアイデアを書きためる生活を続けた。

そして1905年──後に「annus mirabilis(奇跡の年)」と呼ばれる年がやってくる。

この年、彼は『物理学雑誌 Annalen der Physik』に4本の論文を立て続けに発表する。

図1 1905年・奇跡の年の4論文

1905年、アインシュタインは光量子仮説、ブラウン運動、特殊相対性理論、質量とエネルギーの関係という四つの論文を発表した。

それぞれが、量子論、原子論、時空論、エネルギー論へつながる巨大な入口となった。

1. 「光量子仮説と光電効果」

→ 光をエネルギーの粒(量子)として扱い、光電効果の法則を説明。

2. 「ブラウン運動の理論」

→ 液体中で粉末がランダムに動く現象から、原子の実在を強く裏づける。

3. 「運動している物体の電気力学について」

→ 特殊相対性理論の誕生。光速度一定と相対性原理から時間と空間を再定義。

4. 「質量とエネルギーの関係」

→ 後に E = mc² と表される、質量とエネルギーの等価関係を示した短い補足論文

とくに三つ目の論文「運動している物体の電気力学について」は、
「エーテルを前提としない電磁気学」を骨格からつくり直す挑戦だった。

ここには、後のアインシュタインを引き裂く二つの方向が、すでに同居していた。

特殊相対論は、絶対時間と絶対空間を崩し、時間と空間を互いに結びついた量として再構成した。

その後、ミンコフスキーによって、この関係は四次元の時空構造として幾何学化されていく。

一方、光量子仮説は、連続した波と考えられていた光に、不連続なエネルギー単位を持ち込んだ。

連続を求めるアインシュタインと、不連続性を開くアインシュタインは、1905年の時点ですでに同じ人間のなかに存在していたのである。

ここでアインシュタインは

• 物理法則はすべての慣性系で同じ形をもつ(相対性原理)

• 真空中の光速度は、どの慣性系で測っても一定

という二つの原理を採用し、そのかわりに

• 絶対時間
• 絶対空間
• 光の媒質として絶対静止する古典的エーテル

を捨てる決断をする。

ただし、アインシュタインが捨てたのは、絶対的な運動状態を持つ機械的なエーテルだった。

後に彼は、一般相対論では物理的性質をもつ空間を、古い意味とは異なる「エーテル」と呼びうると述べている。

彼は空間から物理的実在性そのものを消したのではなく、それを媒質から場と幾何学へと組み替えたのである。

特殊相対論が不要としたのは、絶対静止する光の媒質としてのエーテルだった。アインシュタインは空間を空虚にしたのではなく、時間と空間の関係そのものを組み替えた。

当時、エーテルの存在はマイケルソン=モーレー実験(1887)によって強く揺さぶられていた。

しかしローレンツやポアンカレなどに代表される多くの理論家は、なおエーテルを何らかの形で残そうとしていた。

アインシュタインはそこからさらに一歩進み、エーテルを救済するのではなく、「光速度一定」を根本原理として引き受ける道を選んだのである。


第3章 相対論の完成と世界的名声


1905年の論文群はすぐには大きな反響を呼ばなかったが、
徐々に若い理論家たちの間で注目され始める。

1915年、アインシュタインは一般相対性理論の重力場方程式に到達し、翌1916年にその理論を公表した。

そこでは、重力は「力」ではなく、

物質やエネルギーがあるところで、時空そのものが曲がる

という幾何学的なイメージで表現される。

ニュートン力学では重力は物体を引く力として表される。一般相対論では、物質とエネルギーが時空を曲げ、惑星や光がその幾何学に沿って進むと考える。

彼の方程式は、ニュートン力学では説明しきれなかった

• 水星の近日点移動

• 太陽近傍を通過する光の偏向
——後の重力レンズ効果の基礎となる現象

などを見事に説明した。

1919年の皆既日食観測で、エディントンらが、太陽近傍を通る星の光が一般相対論の予測に近い量だけ偏向しているという結果を発表すると、アインシュタインは一躍、世界的な有名人となる。


第4章 静的宇宙と宇宙項Λ


一般相対論を宇宙全体に適用したとき、アインシュタインは最初、宇宙は静的で変化しないと考えた。

しかし、一般相対論を一様な物質宇宙に適用すると、宇宙項を加えないかぎり、宇宙を静止した状態に保つことはできない。

物質同士の重力によって収縮するか、初期条件に応じて膨張する、動的な宇宙となる。

彼の理論は、本人の宇宙観に反して、「変化する宇宙」を許していたのである。

そこで1917年、アインシュタインは方程式に宇宙項Λ(ラムダ)を加えた。

宇宙規模で重力による収縮を打ち消すように調整し、有限でありながら静止した宇宙モデルを作り上げたのである。

しかし、この静的宇宙は、きわめて微妙な均衡の上に成り立っていた。

少しでも膨張すれば、さらに膨張する。

少しでも収縮すれば、さらに収縮する。

1930年、エディントンは、アインシュタインの静的宇宙が安定した状態ではないことを示した。

理論の別の可能性も、すでに開かれていた。

1920年代、フリードマンは一般相対論から、膨張や収縮をする動的な宇宙解を導いた。

ルメートルは、その動的宇宙論を銀河の観測と結びつけ、宇宙そのものが膨張していると提案した。

そして1929年、エドウィン・ハッブルは、銀河までの距離と、その視線速度との間に比例関係があることを観測資料から示した。

静的宇宙は、理論と観測の両側から揺らぎ始めていた。

しかしアインシュタインは、観測結果を遠くから受け入れただけではなかった。

1931年1月、アメリカ滞在中の彼は、カリフォルニアのウィルソン山天文台を訪れた。

そこでハッブルや天文台長ウォルター・アダムズらと会い、ハッブルの銀河観測に使われた100インチ・フッカー望遠鏡を見た。

この訪問は、一般相対論が宇宙全体に何を意味するのかを、現地の物理学者や天文学者と議論するためのものでもあった。

もちろん、望遠鏡を一度のぞけば、宇宙の膨張がその場で見えるわけではない。

銀河までの距離と赤方偏移の関係は、多数の観測記録を蓄積し、比較することによって初めて現れる。

それでも、自らの宇宙観と衝突する観測が生み出された場所へ出向いたことには、大きな意味がある。

アインシュタインの転換を、単に「ハッブルという権威を信じた」と描くのは適切ではない。

彼は、自分の方程式が許していた動的宇宙と、観測研究の現場とを直接結びつけ、宇宙像を考え直そうとしたのである。

理論的には、フリードマンやルメートルが動的宇宙を示していた。

さらに、アインシュタインの静的宇宙そのものも、安定したモデルではないことが明らかになった。

そして観測の側では、銀河の距離と後退を示す速度との関係が現れ始めていた。

こうして静的宇宙を維持する根拠を失ったアインシュタインは、1931年、宇宙項を外し、膨張したのち収縮へ向かう動的な宇宙モデルを発表した。

後にアインシュタインは、静的宇宙を成立させるために宇宙項を導入したことを、「人生最大の失敗」と呼んだと伝えられている。

ただし、この言葉は本人の文書には残されていない。

主としてジョージ・ガモフらの回想を通じて伝えられたものであり、本当にその言葉どおりに語ったのかについては、現在も議論がある。

一方で、アインシュタインが後年、宇宙項の導入を重大な誤りと考えていた可能性は高いとも指摘されている。

だが、皮肉な展開が待っていた。

20世紀末、遠方の超新星の観測によって、宇宙の膨張は減速しているのではなく、加速していることが明らかになった。

宇宙項Λは、一定の真空エネルギーと等価に扱える項として、宇宙の加速膨張を説明する最も単純な候補の一つとなった。

静的宇宙を作るために導入され、一度は捨てられた宇宙項は、まったく別の役割を与えられて、現代宇宙論の中心へ戻ってきたのである。

宇宙項Λは、静的宇宙を成立させるために導入された。フリードマンとルメートルの動的宇宙論、ハッブルらの銀河観測、そして1931年のウィルソン山訪問を経て、アインシュタインは静的宇宙を放棄する。しかし20世紀末、Λは宇宙の加速膨張を考えるための項として、異なる意味を与えられて復活した。

第5章 量子論を拓き、量子力学に抗う


量子論の出発点にも、アインシュタインは深く関わっていた。

1905年:光電効果の説明のために「光量子仮説」を導入

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『光量子仮説とは何か 光電効果が光を粒に変えた日』

→ この業績が1921年のノーベル物理学賞の主要な受賞理由となった。

賞の決定と授与は翌1922年に行われた。

同じく量子論の基礎を築いたプランクも、
当初はアインシュタインの才能を高く評価していた。

しかし1920年代に入ると、ハイゼンベルクやシュレーディンガーによって量子力学の数学的形式が築かれ、ボルンが波動関数に統計的解釈を与え、ボーアらがその物理的意味づけを進めていく。

量子力学は、個々の出来事を一意に予測する理論ではなく、起こりうる結果の確率を予測する理論として体系化されていった。

アインシュタインは連続した場と滑らかな時空を求めながら、光量子仮説によって離散的なエネルギーを物理学へ導入した。連続を求める方向と、不連続性を開く方向は、同じ人物の中に同居していた。

アインシュタインはその解釈に強く異議を唱えるようになる。

いわゆるコペンハーゲン解釈が示す確率的な世界観に対して、
アインシュタインは強い違和感を抱いた。

「神はサイコロを振らない」

という有名な言葉は、

・量子力学の確率的記述は、自然の最終的な記述ではなく、
・個々の出来事まで記述できる、より完全な理論が存在するはずだ

という彼の信念を象徴している。

1935年、アインシュタインはポドルスキー、ローゼンとともに

「量子力学的記述は完全といえるか?」

と題する論文を発表する。これがEPRパラドックスである。

この論文で彼らは、離れた二つの系の一方に対する測定が、もう一方の物理的実在を即座に変化させないと仮定した。

そのうえで量子力学の予言を受け入れると、波動関数には記述されていない物理量が存在するはずだと論じた。

したがって、量子力学の波動関数による記述は「完全ではない」と結論づけたのである。

アインシュタインが守ろうとしたのは、単なる決定論ではなかった。

遠く離れた物体にはそれぞれ独立した実在があり、物理的な作用は時空の中を局所的に伝わるという世界像だった。

この問いは、アインシュタインの死後、ジョン・ベルによって実験可能な問題へと変えられていく。

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『EPRパラドックスとは何か アインシュタインが仕掛けた量子への反逆』


第6章 亡命と晩年──統一場理論への執念

1932年末、アインシュタインはアメリカ滞在のためドイツを離れた。

その不在中の1933年、ナチス政権が成立する。

ユダヤ系であり、反戦・民主主義的な発言でも知られていた彼はドイツへの帰国を断念し、同年秋、アメリカのプリンストン高等研究所へ移った。

以後、彼はアメリカを拠点として活動し、二度とドイツには戻らなかった。

第二次世界大戦の前夜、アインシュタインが署名した書簡がルーズベルト大統領に送られた。

それはナチス・ドイツによる核兵器開発の可能性を警告するものであり、アメリカ政府がウラン研究を本格的に検討する一因となった。

しかし、アインシュタイン自身はその後、核兵器に反対する立場から平和運動にも関わるようになる。

晩年のアインシュタインがもっとも執着したのは、
重力と電磁気をひとつの枠組みで記述する統一場理論だった。

一般相対論:連続した時空の幾何学
電磁気学:場としての力

を“連続的な場”として統合しようとする試みは、
彼の「滑らかな宇宙」「決定論的秩序」への信念と深く結びついていた。

しかし、その研究プログラムは量子力学を本質的に取り込めなかった。

素粒子物理学が量子場とゲージ対称性を中心に発展するにつれて、アインシュタインの古典的な統一場理論は、主流の理論研究から次第に離れていった。

1955年、アインシュタインは76歳でこの世を去る。

彼は死の直前まで、完成することのなかった統一場理論の研究を続けていた。

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『統一場理論とは何か 全ての力を一つに結ぶ宇宙の方程式』


第7章 神と宇宙について

アインシュタインはしばしば「神」を口にしたが、それは人格を持ち、人間の願いや運命に介入する神ではなかった。

彼は宗教的教義を信じるタイプではなかったが、宇宙の秩序に対する深い畏敬を抱いていた。

彼は

「私はスピノザの神を信じる。
存在するものの秩序ある調和のうちに姿を現す神を信じるのであって、
人間の運命や行為に関わる神ではない」


と語っている。

その「神」は、
• 宇宙の法則性
• 理性によって部分的に理解しうる秩序

への敬意の比喩に近い。

彼は単純な無神論者として自分を説明することにも距離を置き、こうした感覚を「宇宙的宗教感情」と表現した。

• 迷信や教条主義的宗教には批判的
• しかし、宇宙が理性的に理解可能であることへの“畏敬”を持ち続ける

この態度は、そのまま彼の物理学のスタイルにも通じている。


第8章 局所実在論は守れるか──不気味な遠隔作用から量子情報へ


1935年のEPR論文は、しばしば「アインシュタインによる量子力学への反論」と説明される。

しかし、彼が守ろうとしたものを、もう少し正確に見なければならない。

アインシュタインが問題にしたのは、量子力学が確率しか予測できないことだけではなかった。

彼が守ろうとしたのは、

・遠く離れた二つの物体は、それぞれ独立した物理的実在を持つ
・ある場所で行われた操作が、離れた場所の実在を瞬時に変化させることはない
・物理的な作用は、時空の中を局所的な因果関係として伝わる

という世界像だった。

後に、こうした立場は広い意味で「局所実在論」と呼ばれるようになる。

1935年のEPR論文から、シュレーディンガーの「もつれ」、ベルの不等式、クラウザーとアスペの実験を経て、量子もつれは2022年のノーベル物理学賞と量子情報科学へつながった。


局所性と実在性


局所実在論という言葉には、二つの考え方が含まれている。

局所性とは、ある場所で起きた出来事が、遠く離れた場所へ瞬時に物理的影響を及ぼさないという考え方である。

実在性とは、観測行為とは独立に、測定結果を説明する何らかの物理的状態が存在するという考え方である。

ただし、「ベルの定理によって実在が否定された」と単純化してはならない。

ベルの定理とその後の実験が直接退けたのは、あらゆる意味での実在そのものではない。

遠く離れた測定結果の相関を、局所的な物理状態や共通原因だけによって説明できる、特定の理論群である。

それでも一般向けに言えば、ベルの定理は、

世界は、互いに独立した局所的な部分からできているのか

という問いを、哲学的な議論から実験可能な物理学へ移したのである。

シュレーディンガーが名づけた「もつれ」


EPR論文が発表された同じ1935年、エルヴィン・シュレーディンガーも、この奇妙な結びつきについて考察していた。

そこで彼が用いたのが、ドイツ語の

Verschränkung

という言葉だった。

これは、腕を組む、交差させる、絡み合わせる、といった意味を持つ。

英語では entanglement、日本語では「量子もつれ」と訳される。

二つの粒子が量子的にもつれると、それぞれを完全に独立した状態として記述できなくなる。

全体の量子状態は定まっていても、各粒子にそれぞれ独立した純粋状態を割り当てることができない。

全体は、部分ごとの完全な状態を後から組み合わせたものとしては記述できないのである。

重要なのは、二つの粒子が秘密の情報を共有しているということではない。

先に独立した二つの個体があり、その後に関係が付け加わるのではない。

もつれた系では、関係を切り離したあとに、それぞれの完全な状態を取り出すことができないのである。

シュレーディンガーは、もつれを量子力学に付随する奇妙な例外とは考えなかった。

むしろ、古典物理学と量子力学を分ける、本質的な特徴の一つだと見ていた。

量子もつれでは、二つの粒子が空間的に離れていても、全体の状態を、それぞれ独立した完全な状態へ分解できない。測定結果には強い相関が現れるが、それを使って制御可能な情報を光速より速く送ることはできない。

不気味な遠隔作用


アインシュタインは、こうした世界像を受け入れなかった。

1947年、彼はマックス・ボルンへの手紙の中で、

spukhafte Fernwirkung

という言葉を使った。

日本語では一般に、

「不気味な遠隔作用」

と訳される。

遠く離れた二つの粒子を測定し、その結果を後で照合すると、局所的な古典理論では説明できないほど強い相関が現れる。

量子力学の形式上では、一方を測定した瞬間、もう一方の測定結果についての予測も定まるように見える。

もしこれを文字どおりの物理的作用と考えるなら、何かが光速を超えて空間を移動したことになる。

それは特殊相対性理論が築いた局所的な因果構造と衝突するように思える。

アインシュタインにとって、これは量子力学が自然界の最終的な記述ではないことを示す兆候だった。

量子力学の背後には、観測結果を説明する、まだ知られていない物理的状態が存在する。

そう考えれば、遠く離れた粒子の相関も、あらかじめ共有されていた共通原因によって説明できるかもしれない。

これが、局所的な隠れた変数という発想である。

ジョン・ベル──哲学を数式に変えた男


アインシュタインの死後も、長いあいだ、この問題は量子力学の解釈をめぐる哲学的論争だと考えられていた。

量子力学の予言を、そのまま自然の姿として受け入れるのか。

それとも、その背後に、まだ知られていない局所的な物理状態が存在すると考えるのか。

どちらを選んでも観測結果が同じなら、実験によって決着をつけることはできない。

そう思われていた。

しかし1964年、北アイルランド出身の物理学者ジョン・スチュアート・ベルが、この状況を変えた。

ベルは、量子相関を局所的な物理状態と共通原因だけで説明する理論には、測定結果の相関に越えることのできない上限が生じることを示した。

これがベルの不等式である。

一方、量子力学は、条件によってはその上限を超える相関を予言する。

つまり実験を行えば、

局所的な隠れた変数によって説明できる世界

と、

量子力学が予言する世界

を区別できる。

ベルは、アインシュタインとボーアの哲学的な対立を、測定可能な数値の違いへ変換したのである。

1972年──フリードマンとクラウザー


1972年、スチュアート・フリードマンとジョン・クラウザーは、もつれた光子を使ってベルの不等式を検証した。

結果は、局所的な隠れた変数理論が許す範囲ではなく、量子力学の予言を支持するものだった。

量子相関を、局所的な状態と共通原因だけによって説明する道は、実験結果と合わなかったのである。

ただし、この段階の実験には、まだ余地が残されていた。

すべての光子が検出されていたわけではなく、測定条件にも制約があった。

そのため、装置の不完全さによってベルの不等式が破れて見えた可能性を、完全には排除できなかった。

1982年──アスペの実験


1980年代初頭、フランスの物理学者アラン・アスペらは、さらに精密な実験を行った。

とくに重要だったのは、光子が飛行している途中で、測定器の設定を素早く切り替える実験である。

二つの測定装置が、あらかじめ互いの設定を知り、それに合わせて結果を調整しているという局所的な説明を、より困難にするものだった。

結果は再びベルの不等式を破り、量子力学の予言を支持した。

その後も実験は繰り返され、検出効率の問題や局所性に関する抜け穴を閉じる方向へ発展していく。

局所的な物理状態と共通原因だけで量子相関を説明する道は、実験によって次第に狭められていった。

アントン・ツァイリンガー──奇妙さを技術へ変える


ベルの不等式を検証する実験は、当初、量子力学の基礎を確かめるためのものだった。

しかしアントン・ツァイリンガーらの研究によって、量子もつれは単なる哲学的な奇妙さではなく、利用可能な物理的資源として扱われるようになる。

量子テレポーテーション。
多粒子もつれ。
エンタングルメント・スワッピング。
量子情報通信。

量子力学の不完全さを示すためにアインシュタインが取り上げた現象が、後には新しい技術を生み出す基盤となったのである。

アインシュタインが拒もうとした「もつれ」は、消されるべき理論上の不具合ではなかった。

それは、量子情報科学の中心的な資源へと変わった。

2022年のノーベル物理学賞


2022年、ノーベル物理学賞は、

・ジョン・クラウザー
・アラン・アスペ
・アントン・ツァイリンガー

の三人に授与された。

受賞理由は、もつれた光子を用いた実験、ベルの不等式の破れの確立、そして量子情報科学の開拓だった。

1935年にアインシュタインが提出した問いは、1964年にベルによって数式となり、1972年と1982年の実験によって検証され、21世紀には量子技術の基盤となった。

1935年に提出された一つの問いが、87年後のノーベル物理学賞へつながったのである。

アインシュタインは敗北したのか


実験結果だけを見れば、アインシュタインが望んだ、局所性と分離可能性を同時に保つ説明は支持されなかった。

しかし、ここから「アインシュタインは完全に間違っていた」と結論づけるのは早い。

ベルの不等式の破れは、あらゆる意味での実在や因果関係を否定したわけではない。

また、量子もつれを利用して、制御可能な情報を光速より速く送ることもできない。

相対論が禁じる超光速信号は、現在も許されていない。

崩れたのは、

世界は、それぞれ独立した局所的な部分へ完全に分解できる

という古典的な実在像だった。

量子力学が示したのは、世界の部分が空間的には離れていても、その物理的状態を完全には切り離して記述できない場合があるということである。

これは単なる遠距離の作用ではない。

むしろ、

全体が、独立した部分へ完全には分解できない

という構造の発見だった。

アインシュタインは、量子力学が提示した答えには同意しなかった。

しかし、彼が問いを投げなければ、シュレーディンガーの「もつれ」も、ベルの不等式も、クラウザーやアスペの実験も、その後の量子情報科学も、同じ形では生まれなかったかもしれない。

アインシュタインは、自らが望んだ答えには敗れた。

しかし、問いによって物理学の未来を開いたのである。

アインシュタインの生涯は、連続した場と時空を求めながら、自ら導入した光量子の不連続性、量子力学の確率性、そして死後に実証されていった量子もつれの非分離性へ向き合い続けた、思索の往復運動だった。

終章 矛盾を抱えたままの天才


アインシュタインの人生を振り返ると、いくつもの逆説が見えてくる。

• 光を「量子」として扱いながら、
完成した量子論の「確率的世界観」には最後まで抵抗し続けたこと。

• 自らの方程式が動的な宇宙を許していたにもかかわらず、
いったんは静的宇宙を作ろうとしてΛを導入し、
後にそれを「失敗」と呼んだこと。

  ・絶対時間と絶対空間を壊しながら、
世界が客観的で普遍的な法則に従うという信念は、最後まで手放さなかったこと。

物理学の歴史として見れば、晩年のアインシュタインが守ろうとした直観の一部は、主流理論やその後の実験によって支持されなかった。

しかし同時に、
• 彼が投げた問い
• 彼が感じた違和感
• 彼が守ろうとした秩序感覚

の多くは、その後の世代の研究者たちが真剣に引き受け続けている。

相対論と量子論、膨張宇宙と宇宙項、決定論と確率論

そのどれもが、ひとりの人間のなかで最後まで和解しきらないまま揺れ動き続けた。

アインシュタイン伝とは、
「正しい理論を次々と打ち立てた天才」の話であると同時に、

連続を信じながら、
自分の手で光そのものの不連続性を開いてしまい、
その矛盾を抱えたまま生きたひとりの思索者の物語

でもある。

相対論は時間と空間を結び直し、やがて連続した時空の幾何学へと発展した。

光量子仮説は光に不連続性を導入した。

統一場理論は再び連続へ戻ろうとする試みだった。

アインシュタインが最後まで受け入れられなかったのは、確率だけではなかった。

世界が、独立した部分へ完全には分けられないということだった。

彼は連続を信じた。

そして同時に、離れたものは離れたものとして存在できると信じた。

しかし量子論が開いたのは、不連続な世界であるだけでなく、
離れていても分離できない世界だった。

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