絶対点仮説
副題
私たちは究極的真理の局所的な遅延なのか
前回記事
『タキオンとは何か』
光速の外側に置かれた、法則の境界線
タキオンを、単なる超光速粒子ではなく、光速、因果律、時間、場、宇宙原理の境界を問い直すための思考実験として扱った記事です。
絶対点仮説が、時間と重力の遅延構造を存在論的に考える記事だとすれば、この記事はその前段として、法則の外側を考えるための入口になります。
前提
ニュートンの絶対時間と絶対空間

絶対時間と絶対空間は
1687年に刊行されたアイザック ニュートンの著書
プリンキピア
自然哲学の数学的諸原理
の中で示された概念である
プリンキピアは
地上の石ころや砲弾の運動から
天空の月や惑星の運動に至るまでを
同じ法則によって説明しようとした書物である
それまで別々に見えていた地上の運動と天上の運動を
ひとつの数学的な法則のもとに置いた
この意味で
プリンキピアは近代物理学の巨大な出発点だった
その背景には
宇宙にはすべての物体が運動するための絶対的な舞台があり
時間もまた誰にとっても同じように流れている
という考え方があった
これが
絶対空間と絶対時間である
絶対空間とは
物体がどのように動こうとも
その背後に不動の舞台として存在する空間である
絶対時間とは
観測者がどこにいようと
どのように動いていようと
全宇宙で同じように流れる時間である
この考え方は
二百年以上にわたって世界理解の基礎となった
しかし二十世紀に入ると
アインシュタインの相対性理論によって
時間と空間は絶対的なものではなく
観測者の運動状態や重力によって変化するものとして捉え直される
ただし
ここで注意しなければならないのは
ニュートン力学が完全に無効になったわけではないということだ
日常的な速度や弱い重力の範囲では
ニュートン力学は今でも非常によく機能する
橋を作るときも
車の運動を考えるときも
ボールが落ちる運動を考えるときも
多くの場合ニュートン力学で十分に扱える
相対性理論が明らかにしたのは
ニュートンの考えが単純に間違っていたということではない
ニュートンの時間と空間の考え方には
適用範囲があったということである

では
相対論によって退けられた絶対時間と絶対空間を
物理理論としてではなく
哲学的な思考実験としてもう一度仮置きしたらどうなるのか
ここから
絶対点仮説が始まる
私たちは絶対時間からわずかに遅延した局所時間を生きているのではないか
これは物理的に測定される遅延ではない
絶対という仮構に照らしたときに見えてくる
存在論的な遅れである
序章
相対性の海に絶対点を置く
現代物理は
絶対空間と絶対時間を必要としない
どこかに宇宙の中心時計があり
そこだけが本当の時間を刻んでいる
そう考えなくても
物理法則は成り立つ
むしろ相対論は
そのような絶対的な舞台を外すことで
時間と空間の見方を大きく変えた
けれど
哲学は少し違う場所から問うことができる
物理的に正しいかどうかではなく
もし仮に
絶対空間と絶対時間を持つ一点が存在するとしたら
この世界はどう見えるのか
その一点を
ここでは絶対点と呼ぶ

絶対点とは
すべての運動の基準であり
すべての時間の基準であり
そこだけが遅れも進みもない時間を持つ仮想的な一点である
これは物理学を訂正するための仮説ではない
相対論が捨てた絶対時間と絶対空間を
存在論の道具として一度だけ置き直す試みである
この絶対点を仮置きしたとき
ひとつの問いが生まれる
私たちは
絶対時間そのものを生きているのか
それとも
絶対点から遅れた時間を生きているのか
第1章
動いている存在は絶対時間からズレる
私たちは止まっていない
地球は自転している
地球は太陽の周りを公転している
太陽系も銀河の中を動いている
銀河もまた
宇宙の中で動いている
つまり私たちは
静止した場所に立っているように感じながら
実際には幾重もの運動の中にいる
もし絶対点があるなら
私たちはその絶対点に対して
常に動いていることになる
そして
動いている存在の時間が
絶対点の時間と完全に同じだと言えるのか
もちろん
これは現代物理の標準的な主張ではない
相対論では
絶対点そのものを置かない
ここで考えているのは
絶対点を仮に置いた場合にだけ立ち上がる
哲学的な思考実験である
そのうえで
ひとつの仮説が立ち上がる
私たちは絶対時間を生きているのではない
絶対時間からわずかに遅延した
局所時間を生きているのではないか
存在するとは
絶対点からズレた時間を生きることである
第2章|絶対点とは何か
絶対点は、宇宙のどこかに存在する物体ではない。
星でもない。
ブラックホールでもない。
宇宙の中心でもない。
絶対時間を刻む時計でもなく、あらゆる運動を測る絶対空間上の座標でもない。
絶対点とは、この宇宙に究極的な真理が存在すると仮定したとき、あらゆる不完全な記述が最終的にそこへ収束すると考えられる、まだ見ぬ仮想上の一点である。
それは現在知られている答えではない。
人間がすでに所有している真理でもない。
むしろ、真理が存在するなら、そこにあるはずだと仮定される極限である。
私たちは宇宙をそれぞれ異なる場所から観測する。
異なる身体を持ち、異なる時代を生き、異なる言語と理論を用いて世界を記述する。
そのため、私たちが得る世界像はつねに局所的であり、部分的であり、不完全である。
しかし、究極的な真理が存在するなら、観測の誤りを修正し、記述の矛盾を減らし、認識の範囲を広げていくことで、それらの世界像は一つの方向へ近づいていくはずである。
その収束先を、ここでは絶対点と呼ぶ。
したがって、絶対点は世界の中に置かれた基準点ではない。
世界についてのあらゆる記述が向かう、極限としての基準点である。
絶対点は観測できない。
なぜなら、観測とはつねに有限な場所から行われるからである。
絶対点を完全に観測するためには、宇宙のすべての位置、すべての時間、すべての関係を同時に把握しなければならない。
だが、そのような観測者は、もはや宇宙内部の有限な観測者ではない。
ゆえに絶対点は、到達済みの知識ではなく、有限な知識を方向づけるための仮想的な極限である。
絶対点が存在するかどうかを、私たちはまだ知らない。
すべての記述が本当に一つの真理へ収束するのかも分からない。
それでも絶対点を仮置きすることによって、私たちは自分の認識がどれほど局所的であり、どれほど不完全であるかを考えることができる。
絶対点は、絶対を所有するための概念ではない。
自分がまだ絶対に到達していないことを知るための概念である。
第2.5章|絶対点は成立するのか――一元論と多元論の分岐
絶対点仮説には、あらかじめ一つの前提がある。
この宇宙には、万物を最終的に説明しうる根源構造が存在するのではないか、という前提である。
もし、時間、空間、物質、エネルギー、力、生命、意識といった一見異なる現象が、最終的には一つの原理から導かれるのだとすれば、その原理には何らかの記述形式があるはずである。
それは一つの数式かもしれない。
複数の方程式を統合した体系かもしれない。
あるいは、現在の数学ではまだ表現できない構造かもしれない。
ここで重要なのは、絶対点を特定の数式そのものと同一視しないことである。
数式は、人間が宇宙の構造を記述するための形式である。
同じ構造が、異なる記号、異なる座標系、異なる数学的言語によって表現される可能性もある。
したがって、絶対点とは数式そのものではない。
数式によって指し示される、宇宙の根源構造である。
仮に、その根源構造を (\mathcal{A}) とする。
[
\mathcal{A}
\longrightarrow
\begin{cases}
\text{時空}\
\text{物質}\
\text{相互作用}\
\text{生命}\
\text{意識}
\end{cases}
]
宇宙のあらゆる現象が、最終的にこの一つの構造から導出されるなら、(\mathcal{A}) は絶対点に相当する。
ただし、人間が発見する方程式は、絶対点そのものではない。
それは、有限な観測者が絶対点について作り出した記述である。
絶対点を (\mathcal{A})、人間による記述を (R(\mathcal{A})) とすれば、
[
R(\mathcal{A})\neq \mathcal{A}
]
である。
地図が土地そのものではないように、方程式もまた、宇宙の根源構造そのものではない。
しかし、地図が土地の構造を正確に表現できるように、数式もまた絶対点へ近づく記述になりうる。
では、宇宙が一つの根源から成立していない場合、絶対点は存在しないのだろうか。
この問いには、少なくとも三つの可能性がある。
第一に、複数の根源が、さらに一つの上位原理から生じている場合である。
重力、電磁力、物質、時空が別々の原理に見えていたとしても、それらが一つの深層構造の異なる現れであるなら、絶対点は依然として成立する。
[
\mathcal{A}\longrightarrow A_1,A_2,A_3,\ldots
]
この場合、複数性は表面に現れた分岐であり、根底には一つの構造がある。
第二に、複数の根源は一つへ還元できないが、それらの関係全体を一つの構造として記述できる場合である。
[
\mathcal{S}
{A_1,A_2,A_3,\ldots;R_{12},R_{23},R_{31},\ldots}
]
ここで絶対点は、単一の原因ではなくなる。
複数の根源と、それらの関係を含む全体構造が、絶対点の役割を担う。
この場合、宇宙は「一つのもの」から生じるのではない。
しかし、複数のものがどのように共存し、相互作用し、一つの宇宙を形成しているのかについて、完結した説明を持つ。
絶対点とは、一つの原因である必要はない。
世界全体を余すことなく説明する、一つの完結した構造であればよい。
第三に、宇宙が互いに還元も統合もできない複数の根源によって成立している場合である。
[
A_1\not\rightarrow A_2
]
[
A_2\not\rightarrow A_1
]
さらに、それらを包摂する上位原理も存在しない。
それぞれの根源が独立した法則を持ち、共通の構造へ翻訳することもできない。
この場合、強い意味での単一の絶対点は成立しない。
宇宙は一つの根源から展開した統一体ではなく、複数の根源が併存する多元的な世界となる。
したがって、絶対点仮説が否定されるのは、単に複数の根源が発見されたときではない。
複数の根源が、
一つの上位原理から導けず、
関係全体を一つの構造として記述できず、
共通する数学や論理によっても統合できないときである。
絶対点仮説を否定するのは複数性ではない。
究極的な統合不可能性である。
この意味で、絶対点仮説は「宇宙には必ず一つの答えがある」と断定する仮説ではない。
宇宙は、最終的に一つの説明へ収束するのか。
それとも、互いに翻訳不可能な複数の根源を抱えたまま存在するのか。
その分岐を問うための仮説である。
そして、ここには一つの逆説が残る。
仮に宇宙が複数の根源から成り立つとしても、その複数性を一つの理論によって完全に記述できるなら、その「複数性の構造」こそが絶対点になるのではないか。
絶対点を完全に否定するためには、世界が複数であるだけでは足りない。
世界そのものが、最終的な統一記述を拒む構造でなければならない。
したがって、絶対点とは、発見されることが約束された答えではない。
世界が一つの真理へ閉じるのか、それとも最後まで閉じないのかを確かめるために置かれた、仮想上の収束点である。
第3章
私たちは現在にいるのか
私たちは普通
今を生きていると思っている
朝起きる
仕事へ行く
人と話す
食事をする
夜になる
一日は過ぎる
この生活の中では
時間は自明に流れているように見える
けれど絶対点仮説では
今という感覚が少し揺らぐ
もし絶対時間があり
そこから見て私たちの時間が遅れているなら
私たちは本当の現在を生きているのではない
私たちは
絶対現在から遅れた現在を生きている
この遅れは
時計で簡単に測れる遅れではない
むしろ存在の形式である
私たちは
完全な現在に触れることができない
つねに自分の身体
自分の運動
自分の重力
自分の場所
自分の関係の中で
局所化された現在を生きている
つまり
現在とは一つではない
現在は
存在ごとに割り当てられた遅延のかたちである
第4章
相対論と絶対点仮説の違い
ここで大事なのは
物理と哲学を混ぜすぎないことである
相対論は
絶対空間と絶対時間を捨てた
そして
それぞれの観測者が
それぞれの固有時間を持つと考える
この立場では
誰か一人の時間だけが本物で
他の時間が遅れている
とは言わない
一方で絶対点仮説は
あえて絶対基準を仮置きする
そのうえで
私たちの時間を
絶対時間からのズレとして見る
つまりこれは
物理学を置き換える理論ではない
世界を見るための視座である
相対論が
絶対を外すことで世界を記述したのだとすれば
絶対点仮説は
絶対を仮置きすることで
相対的存在の意味を考える
この二つは
同じ土俵で争う必要はない
一方は物理理論であり
もう一方は思考実験である
相対論は
絶対点を置かなくても世界は記述できると言う
絶対点仮説は
それでもあえて問う
もし絶対点を置いたなら
私たちはどのような存在として見えるのか
この問いに答えるために
絶対点は必要になる
第5章
遅延時間を生きる存在
絶対点から見れば
私たちは遅れている
この表現は
敗北を意味しない
むしろ
存在とは遅れによって成り立つのかもしれない
完全に絶対点と一致する存在は
ズレを持たない
ズレを持たないものは
運動しない
運動しないものは
変化しない
変化しないものは
経験しない
経験とは
差異の中で生まれる
昨日と今日が違うから
時間がある
自分と他者が違うから
関係がある
ここではない場所があるから
距離がある
届かないものがあるから
欲望が生まれる
失われるものがあるから
記憶が生まれる
すべてが絶対点と完全に一致しているなら
そこには遅れもない
だが
遅れがないということは
差異がないということでもある
差異がなければ
移動はない
移動がなければ
出来事はない
出来事がなければ
経験はない
だとすれば
私たちが何かを経験できるのは
絶対からズレているからである
遅れているから
時間が生まれる
ズレているから
距離が生まれる
距離があるから
関係が生まれる
関係があるから
世界が生まれる
ここで遅延は
単なる欠陥ではなくなる
遅延は
存在が存在として立ち上がるための条件である
完全な絶対の中には
おそらく関係がない
関係とは
一致しないもの同士のあいだに生まれる
自分と相手が完全に同一なら
そこに対話はない
自分と世界が完全に一致しているなら
そこに認識はない
自分と時間が完全に一致しているなら
そこに経験はない
私たちはズレている
だから見る
私たちは遅れている
だから思い出す
私たちは届かない
だから手を伸ばす
絶対からの遅れは
存在の貧しさではない
むしろ
世界に触れるための余白である
第6章
絶対点は神の視点ではない
絶対点という言葉は
神の視点に近く聞こえるかもしれない
けれど
ここでの絶対点は
世界を裁く視点ではない
誰が正しいか
誰が間違っているかを決める場所ではない
絶対点は
ただ動かない仮想上の一点である
そこから見て
すべての存在は動いている
すべての存在はズレている
すべての存在は
自分の時間を持っている
このとき
絶対点は支配者ではなく
沈黙する基準になる
絶対点は何も命じない
ただ
相対的なものたちが
相対的であることを浮かび上がらせる
絶対があるから
相対が見える
相対があるから
絶対は問いとして立ち上がる
終章
私たちは絶対時間から遅れて生きている
私たちは
絶対時間そのものを生きているのではないのかもしれない
地球の上で
太陽系の中で
銀河の中で
無数の運動に巻き込まれながら
それぞれの場所で
それぞれの時間を生きている
その時間は
絶対点から見れば
遅れているのかもしれない
けれど
その遅れこそが
私たちの現実である
完全な時間ではなく
遅延した時間
完全な空間ではなく
局所化された空間
完全な現在ではなく
身体と運動と関係によって切り取られた現在
私たちは
絶対の中にいるのではない
絶対から少しズレた場所で
自分の時間を生きている
だからこそ
世界は一つの時計ではなく
無数の時間の重なりとして現れる
絶対点仮説とは
宇宙の中心を探す話ではない
むしろ
自分が絶対ではないことを受け入れるための仮説である
存在するとは
絶対点から遅れていることである
そして
その遅れの中でしか
私たちは世界に触れることができない
だから絶対点仮説は
絶対に到達するための仮説ではない
絶対に到達できないことによって
私たちが世界を経験していることを知るための仮説である
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