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短編小説『彼女の語り』

—愛と時間の交差点にて—

沈黙の中で差し出した手の意味を
時のあとで見つめ返す物語

命題:沈黙の隙間には、想いがある

待つということは
もう一度、
あのときの私に会いに行くことだ

来ないものを待つのではなく

あの沈黙を
もう一度、選ぶこと

***

あのとき、私は手を差し出した

それが何を意味するのかなんて

その瞬間には、わからなかった

でも、差し出さずにはいられなかった

***

出会いは偶然だった

いつも通っていた書店で

同じ文庫に伸ばした手が、ふと触れ合った

「すみません」と笑った私に

彼も、笑い返した

それだけで

なぜか心の中に

柔らかい風が吹いた気がした

そのときはまだ

それが「始まり」だったことに

気づいていなかった

***

何度か会った

たまたま、同じ時間に

たまたま、同じ書店で

けれど「たまたま」は重なるほど

意味は重くなっていく

***

3回目に会った時に私の方から声をかけた

「あの…このあと時間ありますか?」

それはただの興味だったのかもしれない

確かに年齢は結構離れている

けれど、彼の中に何かを感じた気がした

彼は少し困ったような顔をしながら

私を喫茶店に連れて行った

***

(こっちの方向に喫茶店なんてあったかな?)

少し怖かったけれど、好奇心が勝った

少し入り組んだ路地を抜けるとそこには

どう見ても喫茶店には見えない建物が現れた

「古びた木の看板に、名前は書かれていなかった」

「のれんだけが風に揺れていた」

「あの…本当にここでいいんですか?」

彼は黙ったまま頷いた

***

彼の話は静かだった

読む本のこと、好きな旅のこと

そして、人生の“抜け”みたいな話を

少しずつ、こぼすようにして話した

私は
それを受け取ることしかできなかった

でも、それでよかったと思う

***

ある日、彼が言った

「実は結婚してるんだ。今は離れて暮らしているけれど」

私は驚いたけれど、怒りはなかった

でもそれより先に、沈黙があった

たぶんそれは

私の中の“何か”が壊れなかった証だったのかもしれない

コーヒーに口をつけて

「そうなんですね」とだけ言った

それだけ言うのが精一杯だった

それだけで、彼が少しだけ苦しそうに微笑んだのを、覚えている

私は子供っぽく見られたくなかった

それが精一杯の強がりだった

***

一緒に歩いた夜

沈黙の帰り道

「……手、繋いでもいい?」

そう言われたとき

私は立ち止まった

拒む理由も

受け入れる言葉も

すぐには出てこなかった

(それだけでいいの?)

それが心からの本音だった

でも

ゆっくりと、手を差し出した

あれはたぶん

彼のためではなく

私のためだった

この関係に、嘘を混ぜないために

彼が私に触れた温度が

そのまま“境界”になっていた

私はその境界を、守りたかった

***

最後の日

彼が言った

「君を待たせたくない」

「君の時間が止まってしまう」

「だから、別の道を歩こう」

私は
それが“優しさの言葉”であることを知っていた

でも
同時に、それが
“自分自身から逃げる言葉”でもあることも、感じていた

「……わかった」

そう答えたとき

私の中で、何かが静かにほどけた

それが
悲しみだったのか
赦しだったのか
今でも、うまく言えない

ただ
「時間が動き始めた」ことだけは、確かだった

***

それから、何年か経った春

私は駅前のベンチに座るようになった

毎年、同じ頃

桜が咲きはじめる頃に

待っていたのは、誰かではなく

あのときの私だったのだと思う

沈黙の中で
差し出した手の意味を、思い出していた

風が吹くたびに
あの夜の歩幅を、思い出していた

“あの人”のためではなく
“あの頃の私”のために
私はただ、そこにいた

そしてまた
春が来た

***

あとがき

誰かに差し出した手が

何を求めていたのかを

後から考えることがある

そのときには言葉にならなかった想いが

沈黙の中で

ようやく自分自身に届くことがある

私はあの日

誰かを愛したのではなく

誰かと“同じ時間を選んだ”のだと思う

そしてその選択が

今でも

どこかで風のように吹き続けている

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