読書と散歩は時間旅行である
副題
いつもの道で
まだ読めていなかった世界に出会う
はじめに
読書と散歩は似ている
そう思ったのは
いつも通っている
自宅から駅まで続く道の途中だった
特別な道ではない
旅先の美しい道でもない
誰かに勧めたくなるような名所でもない
ただ
自宅から駅まで続いている
いつもの道だ
どこに信号があり
どこに曲がり角があり
どのあたりで人通りが増えるのかも
だいたい知っている
それなのに
その日は少し違って見えた
前にも見ていたはずの景色が
なぜか初めて読む文章のように
目の前で立ち上がってきた
そこで思った
知らない道を歩くことは
新しく買ってきた本を読むことに似ている
通い慣れた道を歩くことは
同じ本を何度も読み返すことに似ている
知っているはずなのに
まだ知らない
読み終えたはずなのに
まだ読めていない
道も本も
一度では終わらない
そのとき
読書と散歩に共通しているものが
少しだけ見えた気がした
それは
移動ではなく
時間だった
第1章
知らない道は
新しく買ってきた本に似ている
知らない道を歩くとき
人は少しだけ緊張している
この先に何があるのか
この角を曲がると
どんな景色が見えるのか
この道は
どこへつながっているのか
足は現在を踏んでいるのに
意識は少し先の未来へ向かっている
知らない道を歩くとは
まだ見えていない世界へ
身体を差し出すことなのだと思う
それは
新しく買ってきた本を読む感覚に似ている
表紙は見ている
題名も知っている
本屋で手に取ったときの重さも
なんとなく覚えている
けれど
まだ中身は知らない
最初のページを開く
一文を読む
次の行へ進む
そのたびに
世界が少しずつ出来上がっていく
もちろん
ところどころ知っていることもある
見覚えのある言葉
どこかで聞いたことのある考え
自分の中にすでにあった感覚
けれど
それでも本全体はまだ知らない
知らない道にも
見覚えのあるものはある
住宅街
信号
自動販売機
駐車場
名前も知らない草花
どこにでもありそうな景色
それでも
その並び方は初めてであり
その日の光の当たり方も初めてであり
そのときの自分が受け取る感覚も初めてである
だから
知らない道を歩くことは
世界を発見することに似ている
そして
新しい本を読むことは
自分の中にまだなかった道を歩くことに似ている
本はすでに書かれている
道もすでに存在している
けれど
自分がそこへ入るまでは
それはまだ自分の世界ではない
歩くことで
道は自分のものになる
読むことで
本は自分の中に生まれる
第2章
通い慣れた道は
何度も読んだ本に似ている
では
通い慣れた道はどうだろうか
自宅から駅までの道のように
何度も歩いた道がある
もう知っている
そう思っている
どこで車が多くなるかも知っている
どの時間帯に人が増えるかも知っている
どこで信号に引っかかりやすいかも知っている
けれど
それでも
その道のすべてを知っているわけではない
春には春の道がある
夏には夏の道がある
雨の日には雨の日の道があり
夜には夜の道がある
同じ道なのに
空の色が違えば
まるで別の文章に見える
同じ曲がり角なのに
自分の心が沈んでいる日と
少し軽い日では
見え方が違う
前は気にしなかった家の植木
前は通り過ぎていた壁のひび
前は何も思わなかった駅前の音
そういうものが
ある日ふいに
意味を持って立ち上がってくる
それは
同じ本を読み返すことに似ている
一度読んだ本を
もう一度開く
話の流れは覚えている
登場人物も知っている
結末も知っている
それなのに
前は読み飛ばしていた一文で
急に足が止まることがある
昔は胸に刺さった言葉が
今は静かに通り過ぎることもある
反対に
昔は何も感じなかった言葉が
今になってこちらを見つめてくることもある
本が変わったのではない
道が変わったのでもない
変わったのは
読む自分であり
歩く自分である
通い慣れた道とは
過去の自分が何度も通った本である
何度も読んだ本とは
過去の自分が何度も歩いた道である
同じ場所に戻っているようで
本当は同じ場所には戻れない
そこには必ず
時間を通ってきた今の自分がいる
第3章
読書と散歩は
自由に見えて
完全には自由ではない
読書と散歩は
自由な行為のように見える
好きな本を読む
好きな道を歩く
好きなところで立ち止まり
好きなところへ向かう
たしかに
そこには自由がある
けれど
完全な自由ではない
本にはページの順番がある
道には地形がある
坂があり
信号があり
川があり
行き止まりがある
人は自由に歩いているようで
すでにある構造の中を歩いている
人は自由に読んでいるようで
すでに書かれた文章の中を進んでいる
ここが面白い
読書も散歩も
自由と制約のあいだにある
どこまでも自由ではない
けれど
完全に決められているわけでもない
同じ本を読んでも
読む人によって残る言葉は違う
同じ道を歩いても
歩く人によって見えるものは違う
本がすべてを決めるわけではない
道がすべてを決めるわけでもない
読む側
歩く側
その人の記憶
その日の体調
抱えている問い
置いてきた過去
向かっている未来
それらが重なって
一冊の本がその人だけの本になり
一本の道がその人だけの道になる
だから
読書と散歩は似ている
どちらも
決められたものの中で
自分だけの時間を見つける行為だからだ
第4章
世界は一度では読み切れない
人は一度見たものを
知ったつもりになる
一度歩いた道
一度読んだ本
一度会った人
一度考えた問い
それらを
もうわかったものとして
心の棚にしまってしまう
けれど
本当にそうだろうか
一度歩いた道を
本当にすべて見ただろうか
一度読んだ本を
本当にすべて受け取っただろうか
一度会った人を
本当に理解しただろうか
たぶん
そんなことはない
人間は
世界を丸ごと受け取ることができない
そのときの自分に見えるものだけを見る
そのときの自分に読めるものだけを読む
そのときの自分に耐えられる意味だけを受け取る
だから
世界は一度では読み切れない
道も
本も
人も
問いも
一度では終わらない
自宅から駅までの道でさえ
何度歩いても
まだ知らない顔を見せる
昨日と同じ道なのに
今日は違う
昔読んだ本なのに
今読むと違う
その違いは
道や本の中だけにあるのではない
自分の中にもある
つまり
再発見とは
対象の変化だけではなく
自分の変化でもある
知っているはずのものが
知らないものに戻る瞬間
そこに
読書と散歩の豊かさがある
第5章
散歩とは世界の再読であり
読書とは言葉の散歩である
散歩は
ただ身体を動かすことではない
世界を読むことでもある
道の曲がり方を読む
人の流れを読む
空の暗さを読む
店の灯りを読む
風の匂いを読む
知らないうちに
私たちは世界を読んでいる
読書も
ただ文字を追うことではない
言葉の中を歩くことでもある
一文目に足を置く
次の行へ進む
わからないところで立ち止まる
気になる言葉の前で振り返る
忘れていた記憶の路地に入ってしまう
そう考えると
散歩とは
世界の再読である
読書とは
言葉の散歩である
散歩では
外の世界を歩いているようで
自分の内側も歩いている
読書では
本の中を進んでいるようで
自分の記憶の中も進んでいる
だから
どちらも
外へ向かう行為でありながら
内へ戻る行為でもある
道を歩いているのに
昔の自分に会う
本を読んでいるのに
まだ知らなかった自分に会う
ここで
読書と散歩は
ただ似ているだけではなくなる
どちらも
時間の層を移動する行為になる
第6章
読書と散歩は時間旅行である
読書と散歩に共通しているもの
それは
時間旅行なのかもしれない
知らない道を歩くとき
人は未来へ進んでいる
この先に何があるのか
まだ見ていない景色が
身体の少し先にある
新しい本を読むときも
人は未来へ進んでいる
次のページに何があるのか
まだ読んでいない言葉が
意識の少し先にある
一方で
通い慣れた道を歩くとき
人は過去へ戻っている
前にもここを歩いた
あの頃もこの信号で止まった
あの日もこの道を急いでいた
そんな記憶が
現在の景色に重なってくる
同じ本を読み返すときも
人は過去へ戻っている
昔の自分は
この一文をどう読んだのか
なぜあのとき
ここで胸が動いたのか
どうして今は
別の一文の前で立ち止まるのか
再読とは
過去の自分との再会である
けれど
その時間旅行は
過去へ逃げることでも
未来へ飛び去ることでもない
あくまで
現在の自分が
過去と未来に触れる行為である
今の自分だけが
過去の自分を思い出しながら
未来の景色へ向かうことができる
今の自分だけが
昔読んだ本を
昔とは違う心で読むことができる
だから
読書と散歩は時間旅行である
紙の上を歩きながら
人は未来へ進む
世界の中を歩きながら
人は過去を読み直す
そして
その往復の中で
現在の自分が少しずつ書き換わっていく
おわりに
読書と散歩は似ている
そう思ったのは
いつも通っている
自宅から駅まで続く道の途中だった
何度も歩いたはずの道だった
もう知っているはずの道だった
けれど
その日は少し違って見えた
知っているはずの世界の中に
まだ読めていなかったものがあった
その感覚は
何度も読んだ本の中に
今になって初めて届く一文を見つける感覚に似ていた
知らない道では
世界が生まれる
通い慣れた道では
世界が深まる
新しい本では
未来が開かれる
読み慣れた本では
過去の自分と再会する
人はページをめくりながら
未来へ進む
人は同じ道を歩きながら
過去へ戻る
けれど
最後に変わるのは
本でも道でもない
変わるのは
現在の自分である
だから人は
また本を読む
だから人は
また歩き出す
世界を知るために
そして
一度知ったはずの世界を
もう一度知らないものとして
受け取り直すために
次回記事
この記事では、「世界は一度では読み切れない」ということを書いた
次回は「世界は出来事によって何度も作り直される」ということを書いていこうと思う。
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