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罪は人数で薄まるが、消えるわけではない

副題  
主体なき決定と、薄く広がる責任について

はじめに


一人が一人を傷つければ、責任は見えやすい。

誰が言ったのか。

誰が殴ったのか。

誰が壊したのか。

誰が奪ったのか。

そこには、行為者がいる。

名指しできる主体がいる。

だから責任も見えやすい。

しかし、十人が少しずつ一人を傷つけた場合はどうだろう。

百人が少しずつ一人を押し出した場合はどうだろう。

誰か一人が決定的な暴力をふるったわけではない。

誰か一人が命令したわけでもない。

誰か一人が明確に排除を宣言したわけでもない。

それでも、結果として一人が壊れた。

一人が居場所を失った。

一人が沈黙した。

一人が未来を失った。

このとき、罪はどこにあるのだろう。

誰の責任なのだろう。

誰が謝るべきなのだろう。

誰が止めるべきだったのだろう。

人数が増えると、責任は薄まる。

責任が薄まると、罪は見えにくくなる。

だが、見えにくくなることと、消えることは違う。

罪は人数で薄まる。

しかし、消えるわけではない。

本稿では、その話を書いていく。

第一章 一人なら罪になることが、集団では空気になる


人間社会には、不思議な現象がある。

一人でやれば明らかに悪いことでも、集団でやると空気になることがある。

一人が無視すれば、冷たい人だと言われる。

けれど、全員が少しずつ無視すれば、それは「そういう雰囲気」になる。

一人が悪口を言えば、加害者になる。

けれど、全員が少しずつ含み笑いをすれば、それは「なんとなく距離を置かれている人」になる。

一人が責任を放棄すれば、無責任だと言われる。

けれど、全員が少しずつ責任を避ければ、それは「誰の担当でもなかったこと」になる。

ここに、集団の怖さがある。

集団は、罪を消すのではない。

罪を空気に変える。

空気になった罪は、誰の手にも乗らない。

触ろうとすると逃げる。

名指ししようとするとぼやける。

問い詰めようとすると、

自分だけではない

みんなそうだった

そこまでのつもりはなかった

そういう流れだった

と言われる。

そして最終的に、誰も悪者ではないことになる。

だが、結果だけは残っている。

傷ついた人がいる。

押し出された人がいる。

黙った人がいる。

戻れなくなった人がいる。

つまり、罪が消えたのではない。

ただ、所有者を失ったのである。


第二章 主体性なき決定は、誰の手で行われているのか


多くの決定は、誰か一人の意思によって行われるわけではない。

会議で決まる。

空気で決まる。

多数派の雰囲気で決まる。

誰かの沈黙によって決まる。

誰かの遠慮によって決まる。

誰かの保身によって決まる。

誰かの諦めによって決まる。

そして最後には、最初からそうなることが決まっていたかのような顔をして、現実が動き出す。

ここで問いが立つ。

主体性なき決定は、誰の手で行われているのか。

誰も決めていない。

けれど、決まっている。

誰も押していない。

けれど、押し出されている。

誰も命じていない。

けれど、従わされている。

誰も責任を取らない。

けれど、結果だけは現れている。

これは、現代社会のあちこちで起きている。

職場でも起きる。

学校でも起きる。

家庭でも起きる。

地域でも起きる。

政治でも起きる。

市場でも起きる。

SNSでも起きる。

ある人が孤立していく。

ある意見が言いにくくなる。

ある不具合が放置される。

ある危険が見過ごされる。

ある問題が、誰も触れないまま大きくなる。

誰かが明確に「そうしよう」と言ったわけではない。

だが、全員の小さな選択が積み重なり、結果として一つの方向へ進んでいく。

このとき、責任は消えたのではない。

分散したのである。

そして分散した責任は、非常に扱いにくい。

なぜなら、誰か一人にすべてを背負わせることはできないからだ。

しかし、だからといって誰も関係ないとは言えない。

ここが難しい。

主体なき決定とは、主体が存在しない決定ではない。

小さな主体が、多数に分散した決定である。

一人ひとりの関与は小さい。

だが、その小さな関与が集まると、誰かの人生を変えるほどの力になる。


第三章 「自分だけではない」という免罪符


責任が分散したとき、人はよくこう言う。

自分だけではない。

みんなもやっていた。

自分が止めても変わらなかった。

自分には権限がなかった。

自分はそこまで知らなかった。

自分はただ見ていただけだった。

これらの言葉には、一定の正当性がある。

実際、一人だけで止められないことはある。

権限がなければ変えられない構造もある。

情報を与えられていなければ、責任を問えない場合もある。

だから、すべてを個人の責任に還元することは危険である。

たまたまその場にいた一人を、集団の罪の代表者にしてはいけない。

だが同時に、「自分だけではない」という言葉が、免罪符になりすぎることもある。

自分だけではない。

だから自分は関係ない。

みんなもやっていた。

だから自分は悪くない。

自分が止めても変わらなかった。

だから何もしなくてよかった。

このようにして、人は自分の小さな関与を見ないで済ませる。

確かに、自分一人が原因ではない。

だが、自分が一部であったことまで消えるわけではない。

大きな加害の前で、個人は小さい。

しかし、小さいから無関係になるわけではない。

一滴の水は洪水ではない。

だが洪水は、一滴の水なしには存在しない。

もちろん、一滴に洪水の全責任を負わせることはできない。

だが、一滴が自分を完全に無関係だと言い切ることもできない。

責任とは、この微妙な場所にある。


第四章 沈黙する多数派は、本当に中立なのか


集団の中で、一番多いのは加害者ではない。

明確な被害者でもない。

多くの場合、一番多いのは沈黙する人たちである。

見ていた人。

気づいていた人。

違和感を持っていた人。

でも、何も言わなかった人。

関わると面倒だった。

自分が標的になるのが嫌だった。

場の空気を壊したくなかった。

確証がなかった。

自分には関係ないと思った。

誰かが言うだろうと思った。

沈黙には、いくつもの理由がある。

そのすべてを単純に責めることはできない。

人には生活がある。

守るものがある。

立場がある。

恐怖がある。

限界がある。

だから、沈黙した人すべてを悪人だとは言えない。

しかし、沈黙が常に中立であるとも言えない。

なぜなら、沈黙はしばしば現状維持に加担するからだ。

誰かが孤立している。

誰かが不当に扱われている。

誰かが責任を押しつけられている。

誰かが声を奪われている。

その場面で、周囲が全員黙ったとき、何が起きるか。

被害を受けている側は、自分の感覚を疑い始める。

これは本当におかしいのか。

自分が大げさなのか。

自分が弱いだけなのか。

自分が悪いのか。

沈黙は、加害者を強めるだけではない。

被害者の自己信頼を削る。

ここに、沈黙の重さがある。

沈黙は何もしていないように見える。

だが、沈黙は場の意味を支えることがある。

何も言わないことで、今起きていることを「問題ではないもの」として扱ってしまう。

そのとき沈黙は、中立ではなくなる。


第五章 制度に参加しているのに、責任を感じない社会


個人だけではない。

社会制度もまた、責任を薄める。

選挙。

市場。

企業。

行政。

裁判。

学校。

地域。

どれも多くの人の関与によって成り立っている。

だが、関与している人が多すぎるために、一人ひとりは自分の影響を感じにくい。

自分の一票で何かが変わるわけではない。

自分の購買行動で企業が変わるわけではない。

自分が黙っていても制度は回る。

自分が声を上げても大きな流れは変わらない。

そう考えると、人は参加しているのに責任を感じなくなる。

だが、制度とはまさにその小さな参加の積み重ねで動いている。

誰か一人の意思ではない。

無数の微細な選択。

無数の無関心。

無数の諦め。

無数の支持。

無数の沈黙。

それらが集まって、制度は方向を持つ。

だから制度に対する責任は難しい。

一人がすべてを背負うことはできない。

しかし、一人ひとりが完全に無関係になることもできない。

国家の決定もそうである。

企業の決定もそうである。

集団の空気もそうである。

誰かがすべてを決めたわけではない。

けれど、誰も関係していないわけではない。

この中間を考えなければならない。

責任を個人へ押しつけすぎれば、倫理は自己犠牲の強要になる。

責任を集団へ溶かしすぎれば、倫理は誰の手にも残らなくなる。

必要なのは、責任を一人に押しつけることではない。

責任の所在を、もう一度見える形へ戻すことである。


第六章 薄まった罪は、誰にも持てないほど広がっている


罪が人数で薄まると、何が起きるか。

誰も、自分の手に罪を感じなくなる。

自分は少ししか関わっていない。

自分は決定していない。

自分は命令していない。

自分は直接傷つけていない。

だから、自分は悪くない。

確かに、その言い分には一部の真実がある。

だが、問題はそこではない。

罪が薄まったとき、その罪は誰にも持てないほど広がっているのだ。

一人の中に罪があるなら、その人が向き合うことができる。

謝ることもできる。

償うこともできる。

変わることもできる。

しかし、罪が空気の中に広がったとき、誰もそれを持てない。

持てないから、向き合えない。

向き合えないから、終わらない。

終わらないから、また繰り返す。

これが、薄まった罪の怖さである。

濃い罪は裁かれることがある。

薄い罪は裁かれにくい。

だが、薄い罪ほど長く残ることがある。

なぜなら、それは誰のものでもない顔をして、構造の中に保存されるからだ。

職場の空気として残る。

家庭の習慣として残る。

学校の文化として残る。

地域の常識として残る。

国家の制度として残る。

そして次の誰かが、また同じ場所で削られる。


第七章 責任を見える場所へ戻す


では、どうすればよいのか。

すべての人間に、すべての責任を背負わせることはできない。

それは不可能である。

人は有限である。

時間も、意識も、力も、立場も、権限も限られている。

だから、すべてに応答しろと言うことはできない。

すべてを止めろとも言えない。

すべての不正義に関われとも言えない。

それは倫理ではなく、破滅の命令になる。

だが、それでもできることはある。

責任を、見える場所へ戻すことだ。

誰が決めたのか。

誰が知っていたのか。

誰が止められたのか。

誰が利益を得たのか。

誰が黙ることで守られたのか。

誰の沈黙によって、誰が孤立したのか。

誰が担当しないことで、問題が宙吊りになったのか。

こうした問いを立てることで、空気になった責任は少しずつ輪郭を取り戻す。

責任を見える場所へ戻すとは、誰か一人を吊るし上げることではない。

構造を見えるようにすることである。

責任の線を引き直すことである。

誰が何を背負えるのか。

誰が何を背負えないのか。

どこに権限があるのか。

どこに沈黙があったのか。

どこで先送りされたのか。

どこで見なかったことにされたのか。

それを言葉にすることで、罪はただの空気ではなくなる。


第八章 罪にならない罪は、どこに残るのか


罪は人数で薄まる。

だが、消えるわけではない。

薄まった罪は、空気に残る。

沈黙に残る。

制度に残る。

習慣に残る。

誰かの身体に残る。

誰かの不信に残る。

誰かの諦めに残る。

誰かの言葉にならない違和感として残る。

そして、それが語られないままでいると、次の現場に移動する。

同じような沈黙が生まれる。

同じような排除が起きる。

同じような先送りが繰り返される。

同じように、誰も悪者に見えないまま誰かが壊れる。

だから必要なのは、名指しだけではない。

断罪だけでもない。

責任がどう薄まったのかを、構造として語ることである。

誰か一人を悪者にすれば、物語はわかりやすくなる。

だが、わかりやすい悪者を作ることで、構造そのものが見えなくなることがある。

逆に、誰も悪者ではないと言ってしまえば、傷ついた人の痛みが消されることがある。

そのどちらでもない道が必要になる。

一人にすべてを押しつけない。

だが、全員を無関係にもさせない。

責任を責任として見える場所へ戻しながら、罪がどのように薄まり、どのように残ったのかを語る。

その作業が必要になる。

罪は人数で薄まる。

しかし、消えるわけではない。

では、その薄まった罪はどこに残るのか。

次に考えたいのは、その問いである。

法が拾わなかった痛み。

沈黙の中に残った責任。

空気へ溶けた加害。

誰も悪者に見えないまま完成した排除。

それらは、どこに残り、どのように語り直されるのか。

罪にならない罪は、どこに残るのか。

次回は、その問いについて書いていきたい。


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