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水を飲みすぎても倒れる



副題

脱水と水中毒のあいだで、身体の収支を考える

※この記事は、暑熱環境で働く人の水分補給について考える一般的な解説です。個別の症状を診断するものではありません。腎臓や心臓などの病気があり、水分・塩分の制限を受けている場合は、医師の指示を優先してください。

はじめに|水は、多ければ多いほどよいのか


熱中症対策では、水を飲むことが勧められる。

喉が渇く前に飲む。

こまめに飲む。

汗をかいたら、その分を補う。

それ自体は正しい。

暑い環境で身体を動かせば、汗によって水分が失われる。

水分が不足すれば、血液の循環や発汗による体温調節を維持しにくくなり、熱中症の危険が高まる。

だから、水分補給は必要である。

ここは最初に、はっきりさせておきたい。

脱水と水中毒を、同じ頻度で起こる対称的な危険として考えるべきではない。

暑熱環境でまず警戒すべきなのは、水分や塩分の不足によって起こる熱中症である。

厚生労働省も、暑熱環境では自覚症状の有無にかかわらず、作業前後と作業中に水分・塩分を定期的に摂取できる体制を求めている。(厚生労働省)

水中毒の話は、水分補給を控えるための話ではない。

補給にも量と速度と収支があることを確認するための話である。

では、水はどこまで飲めばよいのだろうか。

一日二リットルなのか。

体重一キログラム当たり三十ミリリットルなのか。

四十ミリリットルなのか。

汗をかいた分だけ追加すればよいのか。

それとも、飲めるだけ飲んだ方が安全なのか。

水分が足りなければ、人は倒れる。

しかし、水分が多すぎても、人は倒れることがある。

水中毒。

低ナトリウム血症。

そうした言葉を聞くと、水を飲むことそのものが危険なようにも思えてしまう。

だが、本当の問題は、水そのものではない。

身体から出ていく量と、入ってくる量の釣り合いが崩れることにある。

必要なのは、最も少ない水でも、最も多い水でもない。

その身体が、その環境で、その時間に失ったものを、必要なだけ戻すことである。

水分補給とは、量の競争ではない。

身体の収支を合わせる作業なのである。

第1章|必要水分量は、固定された数字ではない


必要な水分量を調べると、さまざまな数字が出てくる。

一日二リットル。

一日二・五リットル。

体重一キログラム当たり三十ミリリットル。

あるいは四十ミリリットル。

どれも完全な間違いとは限らない。

しかし、すべての人に共通する絶対的な正解でもない。

比較的安静に生活している成人の水分収支の例では、一日に身体へ入る水分は、おおよそ次のように整理される。

飲み水から約一・二リットル。

食事から約一リットル。

栄養素を代謝するときに生じる水が約〇・三リットル。

合計すると約二・五リットルである。

一方、身体からは尿、便、呼吸、皮膚などを通して、ほぼ同じ量が出ていく。(環境省)

ただし、これは安静時の一例である。

運動や暑熱環境によって発汗量が増えれば、その損失に応じた水分を追加しなければならない。

つまり、一日二・五リットルという数字は、

「飲み物だけで二・五リットル取れ」

という意味ではない。

汁物。

米。

野菜。

果物。

肉や魚。

ほとんどの食物には、程度の差はあっても水分が含まれている。

だから、飲み物だけを見て必要水分量を考えると、食事から入る水分を見落とす。

反対に、夏の肉体労働で大量に汗をかいているのに、安静時の基準だけを守っていれば、補給不足になる。

体重一キログラム当たり何ミリリットルという計算も、同じである。

医療や栄養管理では、一日の維持水分量として体重一キログラム当たり二十五から三十ミリリットル前後が用いられることがある。

しかし、これは病院での輸液や栄養管理などにも使われる概算であり、健康な人が日常生活で飲むべき飲料量を、そのまま示す公式ではない。(NICE)

体重六十八キログラムなら、

六十八×三十ミリリットルで、約二・〇四リットル。

六十八×四十ミリリットルなら、約二・七二リットルとなる。

しかし、この数字が飲み物だけを指すのか、食事に含まれる水分まで含むのかによって、意味は変わる。

さらに、発汗量は直接計算に入っていない。

同じ六十八キログラムでも、

冷房の効いた室内で過ごす人。

真夏の屋外で働く人。

高温の工場で防護具を着て働く人。

休日に家で横になっている人。

必要な飲水量が同じになるはずはない。

体重一キログラム当たり何ミリリットルという数字は、上限ではない。

必ず飲み切らなければならないノルマでもない。

通常時の水分収支を考え始めるための基準点である。

必要量は、

食事。

発汗。

排尿。

気温。

湿度。

作業強度。

体格。

体調。

それらによって動く。

必要水分量とは、あらかじめ決められた容器の容量ではない。

その日に生じた損失によって変動する、動的な数字なのである。


第2章|上限は、一日の総量より飲む速度で変わる


では、水分摂取の上限はどこにあるのだろうか。

一日三リットルなのか。

五リットルなのか。

十リットルなのか。

実は、水分の上限は一日の総量だけでは決めにくい。

同じ五リットルでも、

夏の工場で十時間働きながら飲み、その多くを汗として失った場合。

涼しい部屋で、数時間のうちに集中して飲んだ場合。

身体にとっての意味はまったく違う。

重要なのは、どれだけ飲んだかだけではない。

どのくらいの時間で飲んだか。

そのあいだにどれだけ汗をかいたか。

尿としてどれだけ排出できたか。

食事からどれだけ塩分や水分を取ったか。

身体が水を排出しやすい状態だったか。

という収支である。

健康な成人でも、短時間に入った大量の水を無制限に排出できるわけではない。

腎臓が余分な水を尿として処理できる能力には限界がある。

生理学上は、一時間当たり〇・八から一リットル前後という概算が示されることもある。

しかし、これは安全に飲める上限を示す数字ではない。

運動に伴う低ナトリウム血症の医学的合意文書でも、過剰な飲水に加え、運動中に水を排出しにくくなることが発症に関係すると整理されている。(British Journal of Sports Medicine)

腎機能。

食事量。

薬。

吐き気。

痛み。

運動。

体調。

抗利尿ホルモンの働き。

これらによって、水を排出できる量は変わる。

特に運動や身体的ストレスの最中には、身体が水を保持しようとして、抗利尿ホルモンの働きが強くなることがある。

その状態では、飲んだ水がすぐ尿として出ていくとは限らない。

つまり、

一時間当たり一リットル近く排出できることがある。

という話と、

一時間当たり一リットルまで飲み続けてよい。

という話は同じではない。

NIOSHも暑熱作業中の水分補給について、少量を十五分から二十分ごとに取ることを勧める一方、時間当たりの摂取量を増やしすぎないよう上限を示している。

これは特定の数字までなら必ず安全という意味ではなく、一気飲みや過剰補給を避けるための作業上の目安である。(アメリカ疾病予防管理センター)

水中毒を考えるとき、危険なのは単純な総量より、

身体から出ていく速度より、入ってくる速度が上回り続けること。

である。

上限とは、固定された天井ではない。

その時点での発汗量と排出能力によって移動する境界なのである。


第3章|水中毒とは、水に毒があることではない


水中毒という名前は、水そのものに毒性があるように聞こえる。

しかし、本体は水の毒ではない。

水によって体液が薄まり、血液中のナトリウム濃度が異常に低下することにある。

ただし、低ナトリウム血症の原因は、過剰な飲水だけではない。

薬剤、ホルモン、腎臓、心臓、肝臓などの異常によっても起こる。

この記事で扱う水中毒とは、その中でも、大量の水分が入り、体液が薄まることで起こる希釈性の低ナトリウム血症を中心とした話である。

ナトリウムは、神経や筋肉の働き、細胞の内外にある水分の分布などに関わっている。

大量の水分が短時間に入り、身体がそれを十分に排出できなければ、血液中のナトリウムは相対的に薄くなる。

塩分が突然すべて失われたわけではない。

身体の中に水が増えすぎたため、濃度が下がったのである。

たとえるなら、同じ量の塩が入った容器に、水だけを追加していくようなものだ。

塩の絶対量が変わらなくても、濃度は下がっていく。

血液中のナトリウム濃度が急激に低下すると、水が細胞内へ移動する。

脳の細胞に水分が入り、脳浮腫を起こせば、

頭痛。

吐き気。

混乱。

けいれん。

意識障害。

などにつながり、命に関わる場合もある。(アメリカ疾病予防管理センター)

つまり水中毒とは、

水を飲んだことそのものが問題なのではない。

身体が処理できる速度を超えて水が入り、体液の濃度と分布が崩れた状態である。

水は必要不可欠である。

しかし、必要不可欠なものだからこそ、量と速度を誤れば身体の秩序を崩す。

酸素も、塩分も、糖質も、体温も同じである。

身体に必要なものは、多いほどよいのではない。

適正な範囲にあることに意味がある。


第4章|不足と過剰は、反対なのに似た症状を出す


水分不足と水分過剰は、正反対の状態である。

脱水は、身体の水が足りない。

水中毒は、身体の水が相対的に多すぎる。

ところが、身体の表面に現れる症状は、一部がよく似ている。

頭痛。

吐き気。

だるさ。

筋力の低下。

集中力の低下。

めまい。

判断力の低下。

熱疲労と運動関連低ナトリウム血症の初期症状には、吐き気、頭痛、筋力低下、倦怠感などの重なりがある。

低ナトリウム血症が進行すると、混乱、けいれん、昏睡などの神経症状が現れることがある。(アメリカ疾病予防管理センター)

ここに、水分管理の難しさがある。

水分が足りない人にも、頭痛や吐き気が起きる。

水分が多すぎる人にも、頭痛や吐き気が起きる。

同じ症状が、逆方向の原因から現れる。

だから、症状だけで水分不足か過剰かを完全に判断することはできない。

暑い場所で具合が悪くなった。

汗をかいている。

ならば、水が足りないに違いない。

そう考えるのは自然である。

実際、暑熱労働では、まず熱中症や脱水への対応が優先される。

しかし、

長時間にわたって大量の水を飲み続けていた。

身体から出ていく量以上に飲んでいた。

汗をかいたのに、作業後の体重が増えている。

頭痛や吐き気に加えて、言動がおかしい。

意識がぼんやりしている。

けいれんが起きた。

そうした場合には、水分過剰や低ナトリウム血症の可能性も考える必要がある。

熱中症と水中毒は、対立する二つの話ではない。

どちらも、身体の水分・塩分・熱の収支が崩れた結果である。

不足と過剰は、別々の道を進みながら、同じ場所で身体を壊すことがある。


第5章|スポーツドリンクなら、いくら飲んでもよいのか


水だけを大量に飲むと、血液中のナトリウム濃度が薄まることがある。

それなら、スポーツドリンクを飲めば問題は解決するのだろうか。

スポーツドリンクには、水分だけでなく、ナトリウムや糖質が含まれている。

長時間の発汗を伴う作業では、水だけでなく、電解質を含む飲料が役立つ場合がある。

NIOSHも、発汗が数時間続く場合には、バランスの取れた電解質を含むスポーツドリンクを選択肢として挙げている。(アメリカ疾病予防管理センター)

しかし、スポーツドリンクは水中毒を完全に防ぐ魔法の飲み物ではない。

スポーツドリンクにはナトリウムが含まれているが、その量は、過剰な飲水による希釈を完全に打ち消すほどではない。

運動関連低ナトリウム血症の予防で中心になるのは、塩分を追加し続けることではなく、発汗などで失った量を大きく超えて飲み続けないことである。(British Journal of Sports Medicine)

したがって、身体から出ていく量を大きく上回って飲み続ければ、スポーツドリンクであっても体内の水分は増えすぎる。

問題は、水かスポーツドリンクかという二者択一ではない。

飲料の種類にかかわらず、

どのくらい飲んだか。

どのくらい汗をかいたか。

どのくらいの時間で飲んだか。

食事から何を取ったか。

という収支が重要になる。

同時に、スポーツドリンクに含まれる糖質を、すべて余計なカロリーと考えるのも正しくない。

肉体労働では、糖質は作業を続けるためのエネルギーになる。

水分は、体温調節と循環の材料。

ナトリウムは、体液の濃度や神経、筋肉の働きに関わる。

糖質は、筋肉や脳が活動するための燃料になる。

だから、夏場にコーラをスポーツドリンクへ置き換えることには、

飲料カロリーを減らす。

水分量を確保する。

一定の塩分を補う。

作業に使う糖質を残す。

という複数の意味がある。

通常のコカ・コーラは百ミリリットル当たり四十五キロカロリーなので、五百ミリリットルでは二百二十五キロカロリーになる。

通常のアクエリアスは百ミリリットル当たり十八キロカロリーなので、六百ミリリットルでは百八キロカロリーになる。(Coca-Cola)

コーラを一日四本飲めば、約九百キロカロリー。

アクエリアスを四本なら、四百三十二キロカロリー。

水分量は二リットルから二・四リットルへ増える。

一方で、飲料カロリーは一日四百六十八キロカロリー減る。

これは補給を断ったのではない。

水分、塩分、糖質を残しながら、過剰だった可能性のある飲料カロリーを削ったのである。

減量とは、必要な補給まで失うことではない。

必要なものを残し、余剰だけを減らすことである。


第6章|作業前後の体重から、発汗量を推定する


発汗量を正確に測ることは難しい。

汗を容器に集めるわけにはいかない。

汗は衣服に吸収される。

床へ落ちる。

蒸発する。

呼吸からも水分は失われる。

そこで、比較的簡単な指標になるのが、作業前後の体重である。

短時間の体重変化の多くは、水分の変化として捉えられる。

作業中に大きな食事を取らず、作業前後の服装や測定条件をできるだけ揃えた場合、推定発汗量は大雑把には次の式で考えられる。

推定発汗量
=作業前体重-作業後体重+飲水量-尿量

水一リットルを約一キログラムとして扱う概算である。

運動中の発汗量を、前後の体重差に飲水量を加え、尿量を差し引いて推定する方法は、スポーツ科学の研究でも用いられている。(PubMed)

たとえば、

作業前体重が六十八・〇キログラム。

作業後体重が六十七・五キログラム。

作業中の飲水量が二・〇リットル。

排尿量が〇・五リットル。

だったとする。

この場合、

六十八・〇-六十七・五+二・〇-〇・五。

推定発汗量は、約二・〇リットルとなる。

つまり、体重計の数字は〇・五キログラムしか減っていなくても、作業中には約二リットルの水分が失われていた可能性がある。

逆に、大量に汗をかいたはずなのに、作業後の体重が作業前より増えているなら、身体から出た水分以上に補給している可能性がある。

運動中の体重増加は、過剰な水分摂取による低ナトリウム血症を疑う手掛かりの一つになる。(British Journal of Sports Medicine)

ただし、この計算にも誤差がある。

食事を取れば、その重さが加わる。

排便でも変わる。

濡れた作業着を着たまま測れば、その水分も体重に含まれる。

飲んだものがまだ胃の中に残っていることもある。

呼吸による水分損失や、代謝による質量変化も完全には反映できない。

だから、一回の測定だけで結論を出すのではなく、

同じ体重計。

できるだけ同じ服装。

同じ時間帯。

勤務前後。

という条件を揃え、何日かの傾向を見る方がよい。

体重計は、身体の水分量を直接測っているわけではない。

しかし、目に見えない収支を、ある程度見える形に変えてくれる。

今日は補給が足りなかったのか。

飲みすぎたのか。

おおむね釣り合っていたのか。

身体の感覚だけでなく、数字も併用することで判断しやすくなる。


第7章|喉の渇きだけでは判断できない


水分補給では、

喉が渇いたら飲めばよい。

と言われることがある。

反対に、

喉が渇く前に飲め。

とも言われる。

どちらが正しいのだろうか。

「喉が渇く前に飲む」と、「喉の渇きに応じて飲む」は、一見すると矛盾している。

しかし、前者が防ごうとしているのは、作業に集中し、補給の機会を逃して脱水することである。

後者が防ごうとしているのは、必要量を無視して、決められた量を機械的に飲み続けることである。

渇くまで一滴も飲まないことと、渇いていないのにノルマとして飲み続けること。

避けるべきなのは、その両方なのである。

喉の渇きは、身体が水分を求めている重要な感覚である。

しかし、それだけで暑熱作業中の必要量を完全に判断できるとは限らない。

作業に集中していれば、渇きを見落とすことがある。

マスクや防護具を着けていれば、すぐには飲めない。

休憩まで我慢することもある。

暑さに慣れていない時期や、体調が悪い日には、普段と同じ感覚で管理できない場合もある。

そのため、暑熱作業では喉の渇きだけに頼らず、定期的に水分と塩分を補給できるようにする必要がある。(厚生労働省)

一方で、

喉が渇く前に飲まなければ危険だ。

と考えすぎれば、必要量を大きく超えて飲み続けることにもなり得る。

実際には、

喉の渇き。

尿の回数と色。

作業前後の体重。

発汗量。

作業時間。

気温と湿度。

飲んだ量。

体調。

これらを合わせて判断する必要がある。

尿の頻度や色、作業前後の体重変化は、単独で絶対的な判定をするものではないが、水分状態を推定する補助的な情報になる。(PubMed)

身体の感覚を無視して、数字だけに従うのも危うい。

数字を無視して、感覚だけに従うのも危うい。

感覚は、身体から届く情報である。

数字は、その感覚を外側から補正する情報である。

喉が渇いていないのに、体重が大きく減っている。

大量に汗をかいた感覚があるのに、体重は増えている。

いつもどおり飲んでいるのに、尿が極端に少ない。

そこに生じるずれを見る。

どちらか一方を正解にするのではなく、感覚と数字の食い違いを確かめることが、水分管理になる。


第8章|水分補給は、本人だけの問題ではない


熱中症対策は、本人の自己管理の話にされやすい。

水を飲まなかった本人が悪い。

塩分を取らなかった本人が悪い。

体調管理ができていなかった本人が悪い。

しかし、必要な水分量を決めているのは、本人の意志だけではない。

気温。

湿度。

作業強度。

連続作業時間。

防護服や作業着。

風通し。

休憩時間。

残業。

暑熱順化。

飲料を取れる場所。

トイレへ行ける頻度。

職場で症状を申告しやすいか。

これらが発汗量と補給行動を決めている。

水を飲めと言われても、ラインを離れられなければ飲めない。

こまめに補給しろと言われても、飲み物が作業場所から遠ければ難しい。

大量に飲めと言われながら、トイレに行くことを嫌がられる職場なら、補給と排出の両方が妨げられる。

反対に、水分補給を義務化するあまり、本人の発汗量や体格に関係なく、全員へ同じ量を飲ませるのも適切とは限らない。

熱中症対策は、水分補給だけでは成立しない。

作業時間の短縮。

涼しい休憩場所。

休憩回数。

暑熱順化。

WBGTの把握。

身体の冷却。

健康状態の確認。

作業中の巡視。

厚生労働省の職場向け対策でも、これらを水分・塩分補給と組み合わせて実施することが求められている。(厚生労働省)

水分不足も過剰補給も、完全に個人の問題ではない。

身体の収支は、労働環境によって作られる。

水分管理とは、ペットボトルの本数だけを管理することではない。

休憩や冷却、作業強度まで含めて、失う量そのものを減らすことである。


第9章|異常が起きたとき、水だけで押し切らない


暑熱環境で具合が悪くなったとき、

とりあえず水を飲め。

という対応が行われやすい。

意識がはっきりしていて、自力で飲める軽い熱中症であれば、水分や塩分を少しずつ補給することには意味がある。

しかし、次のような場合には、水を飲ませ続けて様子を見る段階ではない。

呼びかけへの反応がおかしい。

会話が成り立たない。

まっすぐ歩けない。

強い頭痛がある。

繰り返し吐いている。

全身のけいれんがある。

意識を失った。

自力で飲み込めない。

大量に水分を取っていたのに、症状が悪化している。

こうした場合、熱射病、重い低ナトリウム血症、その他の病気を、現場だけで見分けることは難しい。

意識がおかしい人に無理に飲ませれば、誤嚥する危険もある。

水を追加すべきか。

塩分を追加すべきか。

冷却を優先すべきか。

血液中のナトリウムを測定しなければ判断できないこともある。

厚生労働省は、熱中症が疑われる場合には涼しい場所への移動、身体の冷却、水分・塩分の摂取などを行い、必要に応じて救急隊の要請や医療機関の受診につなげるよう示している。(厚生労働省)

低ナトリウム血症についても、混乱、けいれん、昏睡などの神経症状がある場合は、医療機関での評価が必要になる。(アメリカ疾病予防管理センター)

だから、異常が起きたときの原則は、

水を飲ませて仕事へ戻すこと。

ではない。

作業を止める。

涼しい場所へ移す。

身体を冷やす。

周囲へ知らせる。

一人にしない。

状態を観察する。

重い症状があれば、119番通報や医療機関への搬送を行う。

ことである。

補給は治療の代わりではない。

身体が明確な異常を出した時点で、問題はペットボトル一本の不足だけではなくなっている可能性がある。


終章|身体が必要としているのは、量ではなく釣り合いである


前回の記事では、

力んだ箇所から順につる。

という体験から、熱けいれんと熱疲労について考えた。

そこでは、身体の赤字が問題だった。

汗によって水分が失われる。

塩分が失われる。

作業によって糖質が使われる。

筋肉に疲労が蓄積する。

身体に熱がたまる。

その赤字が、残業時間に限界を超えた。

しかし、赤字を恐れるあまり、補給を増やし続ければ、今度は別の収支異常が起こる。

水分が、身体から出ていく量を超えて増える。

体液のナトリウム濃度が下がる。

細胞の内外にある水分の分布が崩れる。

不足を防ぐための行為が、過剰という別の問題を作る。

だからといって、水分補給を控えればよいわけではない。

暑熱環境での肉体労働では、脱水と熱中症を防ぐための補給が必要である。

水中毒の存在は、水を飲むことを否定する話ではない。

それは、

水にも収支がある。

という話である。

一日に必要な水分量は、体重だけでは決まらない。

飲み物だけでも決まらない。

発汗量だけでも決まらない。

食事。

水分。

塩分。

糖質。

尿。

汗。

作業時間。

休憩。

気温。

湿度。

体調。

それらを一つの流れとして見なければならない。

身体は、少なさにも耐えられない。

多さにも耐えられない。

身体が維持しているのは、量ではない。

関係である。

入ってくるものと、出ていくもの。

作られる熱と、逃がされる熱。

消費するエネルギーと、補給するエネルギー。

水と塩分。

活動と休息。

それらの釣り合いによって、身体は動いている。

水分補給とは、水をたくさん飲む行為ではない。

不足を避けながら、過剰にもならないよう、身体と環境のあいだに釣り合いを作り直す行為なのである。


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