掌編小説「ジャンプ」|シロクマ文芸部
夏休みが今日からだと分かったのは、孫のタクミが遊びに来てくれたからだ。
妻の昌枝が亡くなってから夏休みの初日には、娘の律子がタクミを連れて来るようになった。
玄関の呼び鈴が鳴り、開けると黄緑色のプラスチックの虫かごを肩から下げた男の子が立っていた。
「じいじ、夏休みになったよ!」
後ろで律子が「お父さん、麦茶出してあげてね」と靴を脱ぎながら笑う。
「じいじ、セミをつかまえたよ。網でこうやってさあ、つかまえたんだよ」
タクミは靴を脱がずに上がり込む。六歳にしては体が大きく、顔全体が丸っこくてかわいらしい。
「すごいなあ。さすがタクちゃんだね」
音のない家がすぐに活気づく。虫かごからは、細いジジジという声が聞こえる。
「タクミ、靴を脱ぎなさい」
律子が叱ると、「はーい」と反省の色もなく靴を脱ぎ散らかした。
麦茶を出すと、氷を噛んでその音を楽しんでいる。
縁側でカードを並べ、テレビゲームのモンスターを説明してくれる。
「これが一番強いんだよ。雨をふらすちからで、どんなやつもたおすんだ」
「そいつはすごいねえ。タクちゃんみたいだねえ」
蚊取り線香に火をつけ、台所に茹でておいたトウモロコシを取りにいく。
戻ると「じいじ、見て見て、おれすごいよ」とタクミが靴下のまま縁側から庭へジャンプした。着地に失敗して手をつき、膝を擦りむいて泣き出す。
「こら。靴下で庭に出ちゃダメでしょ」
律子が庭のサンダルを履き、タクミを抱き起こす。膝に小さな擦り傷ができていた。
「いたいよお」
「そうかそうか。上手だったぞ、タクミ。仮面ライダーみたいだったぞ。絆創膏を取ってきてやろう」
「お父さん、私が行くから、タクミを見ていて」
タクミはもう泣き止み、腕を上げたり下げたりして変身ポーズに入っていた。
「じいじ、虫取りに行こうよ」
「じいじは腰が痛くて外に出られないんだよ。ごめんな」
最近は立ち上がるのにも時間がかかる。これまでタクミの願いは何でも聞いてやってきたが、七十を過ぎると体にガタがくる。そしてひどく眠い。
「律子、少し横になるよ」
「お父さん、大丈夫? 秀樹さんが一緒に住もうって言ってくれてるんだから、無理に一人暮らし頑張らなくていいのに」
「まだまだ大丈夫だ。少し疲れやすくなってるだけだよ」
寝室に戻るとベッドが二つ並んでいる。昌枝のベッドはまだ捨てられずにいる。
三年前の夏、買い物から戻ると、家の中が妙に静かだった。 トイレの前で呼びかけても返事がなく、鍵がかかっていた。 中では、昌枝が便器にもたれるように倒れていた。 そのまま病院に運ばれ、息を引き取った。冗談のようだった。
ベッドは捨てられない。 自分のベッドに横になり、水に沈んでいくように眠った。
昼寝から起きると、まだ明るかった。呼び鈴が鳴った気がした。
「じいじ、夏休みになったよ!」
同じ言葉なのに、声が少し低い。
麦茶を出そうと持っていくと、いらないと断られた。
「お父さん、体調はどう? 顔色があまりよくないわね」
律子が言う。
「大丈夫だよ。タクミと外に虫取りにでも出かけてたの?」
「タクミはもう虫取りなんかしません。中学一年生なんだから」
「は?」
縁側を見ると、タクミが寝転びながら漫画雑誌を読んでいる。膝から下が先ほどよりかなり伸びている気がする。
「ちょっと、タクミ。漫画ばかり読んでないで、じいじと話あるんでしょ」
律子が雑誌を取り上げる。
「おれのジャンプ返せよ。じいじに話なんかねえよ」
上目遣いで、私を見る。
「おれさあ、絵画コンクールで、中学の部の金賞をとった。別にただ描いただけだけど」そう言いながら、視線だけは私の反応を確かめるように、ほんの一瞬だけ上がる。
「さすが、タクちゃんだな! よくやったな」
本当に嬉しい。しかし少し、めまいがしてきた。
「少し横になっていいか」
「お父さん、本当に大丈夫?」
自分のベッドに倒れ込むようにして眠りに引っぱられた。
もう一度、呼び鈴が鳴った気がした。目が覚めると、律子が心配そうに顔をのぞき込んでいた。
「お父さん、体調はどうですか?」
物音に顔を向けると、機械油のついた作業用のグレーともベージュともつかないジャンプスーツを着た見知らぬ若い男が立っている。
そもそも、ここは自分の家の玄関だったか。
麦茶を出そうとして、麦茶がどこにあるか分からないことに気づいた。
そういえば昌枝がエアコンの不調をうったえていた。業者が来たのだろう。
「エアコンの吹き出し口から水がぽたぽた垂れてくるんだ。音もにおいも変だし、直してほしい」昌枝がうったえていた通りの説明をした。
作業服の男が困った顔をしている。
「じいじ、さっきから何を言ってるんだよ」
作業服の男は苦笑して、それから声を落とした。
「こりゃだめだね。しっかりしてくれよ。自分の娘の分ももっと長生きしなくちゃね」
「は? 失礼な奴だ」 声を荒らげる。
「律子ならここにいる。おい、律子!」
「中村さん、今日は体調がいいみたいですね。お孫さん来てくれてよかったですね」
声のする方を見ると、律子だと思っていた若い女性の顔は、全然知らない女性のものだった。
白い看護服を着ている。
中村さん、というのが自分のことだとはすぐには分からなかった。
見回すと、無機質な白い壁に蛍光灯の光が冷たく反射していた。
消毒液の匂いに、かすかな尿のような匂いが混じっている。視線を落とすと、鉄パイプのベッドとテーブル、小さなテレビが、五畳ほどの狭い部屋にぎゅうぎゅうと詰め込まれていた。
白い壁に吸い込まれそうになり体がよろけた。ベッドの柵を掴み体を支える。掴んだ柵がとても冷たい。
「じいじ、これクリスマスプレゼントだよ」
作業服の男が真っ赤なマフラーを首に巻いてくれた。一瞬身を引いたが、よけられなかった。
窓の外には見たことのない景色が広がっていた。 手入れされた芝生が薄く雪をかぶり、曇り空の下で色を失っている。
人影はなく、遠くの道路を車が一台ゆっくりと通り過ぎていった。
とにかく眠い。目をやると、何もない白い壁に、子供が絵具で描いたような絵が飾ってある。
縁側にとうもろこしと虫かごが描かれていた。その幼い絵が、仰々しい高級な額縁に入れられて、壁の真ん中にひとつだけ飾られていた。
窓に目を戻すと、すりガラスに変わっていて外の景色がわからなくなっていた。
部屋の隅で誰かが言った。
「じいじ、夏休みになったよ!」
了

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