【常滑神明社】「やきもの散歩道」をゆく!街に息づく祈り
やきもの散歩道をゆく
常滑焼の器で、まずは一服
焼き物の街として知られる常滑。
しかし実際に歩いてみると、焼き物は店先に並ぶ器だけではなかった。
坂道には、土管を焼くために使われた廃材が埋め込まれ、家の土台にも焼き物らしきものが顔を出す。街を見下ろせば、かつて窯から煙を上げた煙突が今も残っている。
常滑では、街そのものに「土と火の記憶」が埋め込まれていた。
焼き物にそれほど興味がなかった私は、常滑と聞いても、セントレアのある街というイメージしか持っていなかった。
けれど、焼き物好きの奥さんに連れられて歩いてみると、そこには平安時代から現代まで続く、日本のモノづくりの歴史が残されていた。
この旅の第二の目的とも言える『やきもの散歩道』を歩く前に、まずは一服。
立ち寄ったのは、陶芸体験と喫茶の両方を楽しめる『晴光』さん。

運ばれてきたのは、常滑焼のドリッパーとコーヒーのセット。
自分の手でゆっくりお湯を注ぎ、コーヒーを淹れる。常滑焼の器を眺めながら飲む時間は、焼き物の街を歩く前の小さな準備運動のようだった。
コーヒーを飲みながら、さっきまで巡った熱田神宮、高座結御子神社、氷上姉子神社を夫婦で振り返る。神社巡りの余韻を残したまま、今度は「土と火の街」へ向かう。
初夏の暑さの中、『やきもの散歩道』へ。
なぜ常滑は「焼き物の街」になったのか?

やきもの散歩道駐車場(300円)を起点に、土管坂や登窯を巡って戻る周回ルートを歩いた。
今回はマップのAコースを少し外れながら、気になる路地へ寄り道していく。

散歩道へ入って間もなく、坂道に丸い陶器のようなものが、びっしりと埋め込まれていることに気づいた。
「これは何だろう?」
装飾にしては無骨で、同じ形のものが何列にも並んでいる。
その正体は、「ケサワ」と呼ばれる焼き台だった。
ケサワは、土管を窯で焼く際に下へ敷いた焼き台。役目を終えたものを、雨で滑りやすい坂道に埋め込み、舗装材兼滑り止めとして再利用したという。
焼き物を作るための廃材が、今度は焼き物を運ぶ人々の足元を支える。
街の景観として残る土管坂は、単に珍しい坂道なのではない。限られた資源を使い切ろうとする、職人たちの知恵と合理性が形になった場所だった。

明治期の土管とケサワがつくる、常滑ならではの風景だ。

こうして足元を見ただけでも、
常滑という街が焼き物とともに発展してきたことが伝わってくる。
では、なぜ常滑は、これほど大きな焼き物の産地になったのだろうか。
常滑が焼き物の一大産地になったのは、良質な粘土が採れたからだけではない。
細かな谷が入り組む地形は、斜面を利用した窯造りに適していた。さらに海にも近く、完成した焼き物を各地へ運び出せる。
「土」「地形」「物流」。
焼き物の産地に必要な条件が、この土地には揃っていた。
常滑焼の歴史は、平安時代末期まで遡る。
この頃、庶民が日常的に使う食器の需要が広がり、常滑では「山茶碗」と呼ばれる素朴な碗や皿が盛んに作られた。
華やかな美術品ではなく、人々の食卓を支える日用品だった。
職人たちは器を重ねて焼くことで、一度に多くの製品を作る技術を発達させる。
常滑は、土の質だけでなく、大量に作り、各地へ送り出す力を備えた産地になっていった。
時代が変われば、人々が焼き物に求めるものも変わる。
近代以降、常滑の主力となったのは、器だけではなく、土管をはじめとする産業用の焼き物だった。
昭和30(1955)年前後には、年間2000万本を超える土管が作られ、街には400本近い煙突が立ち並んでいたという。
平安時代には人々の食卓を支え、近代には都市の生活基盤を支える。
作るものは変わっても、常滑は一貫して、人々の暮らしに欠かせない焼き物を生み出してきた。
今、私たちが歩いている散歩道は、平安から昭和まで続く、日本のモノづくりの痕跡そのものだった。
ノスタルジックな迷路を歩く


実際に登窯の10本の煙突を目の前にすると、想像していたよりも小さく感じた。
けれど、その限られた登窯の空間の中で、いくつもの焼成室を使い分け、大量の焼き物を生み出していたという。

窯の内部をのぞくと、火の熱と煙に包まれながら働いた職人たちの姿が、少しだけ近く感じられた。
登窯を離れてルートへ入ると、焼き物は窯の中だけにあるのではなかった。

家の土台には、蛸壺にも見える土管が組み込まれている。
坂道のケサワと同じように、役目を終えた焼き物を捨てず、街の一部として使い続けたのだろう。
細い坂道が何度も曲がり、その先に煙突や古い窯が突然姿を現す。路地全体が、どこか別の時代へ続いているような雰囲気をまとっていた。
「ノスタルジックだね。アニメに出てきそう」
奥さんの言葉に頷きながら、迷路のような路地を歩いた。


道の途中には、焼き物で作られた不思議なオブジェも点在していた。
魔除けなのか、単なる遊び心なのか、正体は分からない。
けれど、路地を曲がるたびに何かが現れる。その予測できなさも、やきもの散歩道の魅力だった。
役目を終えた窯や廃材も、新しい役割を与えられ、街を歩く人を引きつける景観として残っていた。
神明社
令和8年6月中旬
焼き物の街を見守る高台の神明社
一通り「やきもの散歩道」を歩き終え、私たちは駐車場へ戻った。
そこで改めてマップを眺めていると、散歩道の近くに、「神明社」と記された神社がある。
しかも、先ほどまで歩いていた谷底の路地ではなく、その上の高台に鎮座しているようだった。
「この神社、少し寄ってみる?」
もともと参拝する予定はなかった。
けれど、谷間で土と火を扱ってきた街を歩いた直後だったからこそ、高台にある神社の存在が妙に気になった。
谷で働く人々を見守るための場所だったのか。
それとも、焼き物の街が広がる以前から、この高台には別の祈りがあったのか。
答えが分からないまま、私たちは神明社へ向かった。


常滑は、細かな台地と谷が入り組んだ土地だ。
谷の斜面には窯が築かれ、谷底には仕事と暮らしが集まった。
一方、神明社が鎮座するのは、街を一段高い場所から見渡す高台だった。
神明社の由緒をたどると、かつてこの近くには「千代の峯」と呼ばれた場所に鎮座していた神社が、明応3(1494)年に3社に分祠されたという。

神明社が、焼き物産業の守護を目的に創建されたのかは分からない。
その名の通り伊勢信仰を背景に、地域の人々が祈りを託してきた神社なのだろう。
焼き物の街として栄えた時代にも、この高台には祈りの場があり続けた。
社号碑に刻まれた「LIXILのルーツ」

「LIXILが寄進してたんだー」
『神明社』と刻まれた社号碑には、「伊奈製陶株式会社」の文字がある。奥さんによれば、現在のLIXILにつながる旧INAXの前身企業だという。


伊奈製陶の創業者・伊奈長三郎は、江戸時代から続く陶工の家に生まれた6代目だった。
転機となったのが、東京・帝国ホテルの建設で使われるタイルの製造である。
近代建築に求められる大量のタイルを焼き上げた経験を礎にして、伊奈製陶を創業。後には初代常滑市長も務め、焼き物産業だけでなく、街の発展そのものに関わっていった。
常滑には、土を見極め、量産し、各地へ送り出す技術と産業文化が、長い年月をかけて育まれてきた。
作るものは山茶碗から土管、タイルへと変わっても、「土を暮らしに役立つ製品へ変える」という発想は変わらない。
後に世界へ広がる企業がこの街から生まれたのは、偶然ではなかったのかもしれない。
しかし、かつての千代の峯の姿は、街の発展とともに失われていった。
地形も街並みも、時代とともに変わる。それでも高台には神明社が残り、社号碑には伊奈製陶の名が刻まれている。
山茶碗、土管、タイル。常滑で作られてきた焼き物は、形を変えながら、今も私たちの暮らしのなかに残っている。
谷では職人たちが土を焼き、高台では人々が祈る。
産業が神社に守られ、発展した産業が今度は神社を支える。そんな関係が、この街では長い時間をかけて育まれてきたのかもしれない。
御朱印

御朱印には、境内の陶製狛犬と、常滑を象徴する登窯が描かれている。
焼き物の街に鎮座する神社らしい御朱印だ。
基本情報
鎮座地:愛知県常滑市栄町6丁目200
授与時間:9時頃〜17時頃
※最新情報は公式HPをご確認ください
参拝所要時間:20分くらい。
Googleマップ
次回予告
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次回は、三河国一宮の「砥鹿神社里宮」です。
なぜ三河国一宮には、里宮と山上の奥宮があるのか。その祈りの原点をたどります。
お楽しみに。
「東海」の神社の記事はこちら
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