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無菌室の戴冠式と、愚かなる魔女の箱庭

二〇三四年、冬。  
かつて東京と呼ばれた都市の心臓部にそびえ立つ、国立高度統合医療センター。
その最上階にある第一手術室は、この世のあらゆる汚穢(おわい)を拒絶するかのような、痛々しいほどの白に包まれていた。  
無影灯が六つの眼を持つ神のように天井から見下ろしている。
その冷徹なLEDの光は、手術台の上に横たわる患者の蒼白な肌と、その傍らで震える一人の執刀医――いや、魔女の手元を容赦なく暴き立てていた。  
彼女の名は、メルル。  
本来であれば、深い森の奥で大鍋をかき混ぜているべき古式ゆかしい魔女の末裔である。
しかし、時代は変わった。
魔法は科学に駆逐されたのではない。
資本主義と高度なバイオテクノロジーに融合し、歪な進化を遂げていたのだ。
「あ、あの……メス、じゃなくて、杖……どこだっけ」  
メルルは震える手でトレイの上を探った。
カチャリ、と金属音が無機質な部屋に響く。
彼女の手が触れた瞬間、整然と並べられた鉗子(かんし)の山が崩れ落ち、床に散乱した。
「ひっ!」  
短い悲鳴を上げ、彼女は慌てて拾おうとして、今度は自身の長いローブの裾を踏んづけた。
派手に転倒する。
頭にかぶっていた尖がり帽子が、滑稽な放物線を描いてAI麻酔器のモニターに激突した。  
ピー、ピー、ピー。  
警告音が鳴り響く。
看護師の代わりに配置された自律型手術支援ロボット『アスクレピオス』のアームが、呆れたように(そう見える動きで)帽子を拾い上げ、メルルの頭に押し付けた。  
彼女はドジだった。
それも、致命的なまでに。  
魔法薬の調合では爆発を起こし、使い魔の召喚ではカエルとドラゴンを取り違える。
魔女学校を落第寸前で卒業した彼女が、なぜ今、世界最高峰の手術室に立っているのか。  
それは、この時代の「流行(トレンド)」のせいだった。  
サイバネティクスによる身体強化や、遺伝子操作による不老不死は、もはや十年前の流行遅れだ。
今の富裕層がこぞって求める最先端、それは――『体内王国(インナー・キングダム)』の築城である。  
臓器の隙間に、ミクロサイズの魔法生物たちを住まわせ、自身の体内に一つの生態系、一つの王国を作り上げること。
それが精神の充足と絶対的なステータスとして、狂おしいほどにもてはやされていたのだ。  
手術台に眠るのは、メディア王として知られる初老の男。
彼は巨万の富を投じ、自身の胸郭(きょうかく)の中に、誰よりも豪華で賑やかな「動物たちの王国」を作ることを望んだ。
そして、その施工業者として選ばれたのが、なぜか失敗続きのメルルだったのだ。
「君の魔法は不安定だが、芸術的な予測不能性(カオス)がある」という、誉め言葉なのか皮肉なのか分からない理由で。
「やるしかない……私だって、魔女なんだから」  
メルルは立ち上がり、深呼吸をした。
滅菌された空気は肺を刺すように冷たい。  
彼女は震える指先で、空間に複雑な幾何学模様を描き始めた。
科学と魔法の融合術式。
ホログラムの術式陣が空中に展開され、無影灯の光と混じり合って虹色の粒子を撒き散らす。
「い、いでよ……森の賢者たち、平原の覇者たち……ええと、あと、川のせせらぎとか!」  
詠唱は杜撰(ずさん)だった。
だが、そこに込められた魔力だけは桁外れだった。  
彼女の指先から、眩い光の奔流がほとばしる。
開かれた患者の胸部、そのわずかな空洞に向けて、魔力の種子が撃ち込まれた。  
本来であれば、ここで整然としたミクロの城壁が形成され、規律正しい兵隊アリのような騎士たちが整列するはずだった。  
だが、メルルはまたしても失敗した。
魔力の出力を間違えたのだ。  
ボシュッ!  
間の抜けた音と共に、患者の胸から溢れ出したのは、極彩色の蔦(つた)と、制御不能な動物たちの幻影だった。  
手術室は一瞬にして、熱帯雨林の様相を呈した。  
無機質な壁を突き破るように大樹の幻影が伸び、モニターの上を極小のリスたちが駆け回る。
ライオンのたてがみを持つ小鳥がさえずり、鱗の生えたウサギが跳ね回る。 「わわっ、ちょっと待って! そこは電源コード!」  
メルルが叫ぶが、動物たちは止まらない。
彼らは患者の体内を「開拓」し始めていた。
心臓の鼓動を太鼓に見立ててリズムを刻み、肺の膨張を風として利用し、血管を滑り台にして遊んでいる。  
モニターのバイタルサインが乱高下を始めた。
『心拍数、異常上昇。血圧、測定不能。術式崩壊の危険性アリ』  
機械的なアナウンスが響く。
このままでは、王国ができる前に患者の体が保たない。
あるいは、王国が暴走して患者を食い破ってしまうかもしれない。
「どうしよう、どうしよう……また失敗だ。いつもこうだ。私は何も守れない、何も作れない……」  
メルルの目から涙が溢れた。
視界が滲む。  
彼女の脳裏に、師匠の言葉が蘇る。
『お前の魔法は雑だ。だが、誰よりも熱い』。  
そうだ。
技術がないなら、情熱で埋めるしかない。  
今、この世界で「体内王国」が流行しているのはなぜか? 
人々が孤独だからだ。
完璧に管理されたデジタルの世界で、予測不能な「生」の温もりを、自分の中に飼いたがっているのだ。  
ならば、この混沌こそが正解ではないのか?  
メルルは涙を拭い、両手で杖を握りしめた。
いや、それは杖ではない。
この瞬間、それは王錫(おうしゃく)であり、指揮棒であり、命を繋ぐメスだった。  
彼女は叫んだ。
恐怖を振り払うように、ありったけの情熱を込めて。
「聞きなさい! 私の可愛い下僕たち! そこはただの遊び場じゃないの! そこは、貴方たちが永遠に守るべき、愛しい揺り籠なのよ!」  
その声は、魔力となって部屋中を震わせた。  
論理も計算もない。
ただひたすらに、
「ここで生きてくれ」
「仲良くしてくれ」
「この命を守ってくれ」
という、火傷しそうなほどの熱情。  
それは、冷え切った手術室の空気を熱く変えた。  
暴れ回っていた動物たちが、ふと動きを止める。
彼らの瞳に、知性の光が宿った。
メルルの無茶苦茶な魔力が、彼らに「心」を与えたのだ。  
ライオン鳥が心臓の上へと舞い降り、その鼓動に合わせて優しく羽ばたき、不整脈を整え始めた。  
鱗ウサギたちが血管の壁を修復し、蔦(つた)植物が傷口を縫い合わせるように絡みつく。  
それは医学的にはデタラメだった。
だが、魔法的には完璧な調和(ハーモニー)だった。  
患者の体内が、黄金色の光に包まれていく。
肋骨(ろっこつ)のアーチは宮殿の柱となり、横隔膜は豊かな大地となった。
そこには、規律ある軍隊ではなく、賑やかで、少しドジで、けれど生命力に溢れた祭りのような王国が築かれていた。
「……できた」  
メルルはその場にへたり込んだ。  
モニターの数値が安定する。
いや、安定どころか、術前よりも遥かに力強い数値を刻んでいる。  
アスクレピオスのアームが、完了を告げるブザーを鳴らした。  
患者の胸は閉じられ、傷跡一つ残っていない。
ただ、耳を澄ませば、心音に混じって、小鳥のさえずりや獣の遠吠えが、楽しげな音楽のように聞こえてくる。  
一〇年後の未来、最新の流行。  
それは、完全無欠な管理社会へのアンチテーゼ。  
ドジな魔女が作り出したのは、不完全であるがゆえに愛おしい、混沌と情熱の王国だった。  
汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、メルルは笑った。
また帽子がずり落ち、鼻の頭にぶつかる。  
だが、その不格好な姿こそが、冷徹な無菌室に咲いた、最も人間らしい魔法であるように思えた。  
手術室の窓の外、未来都市のネオンが、祝福するように瞬いていた。

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