三階の非常階段
会社を出たとき、雨はもう止んでいた。
アスファルトだけが濡れていた。
街灯の光が路面に伸びて、車が通るたびにゆっくり揺れる。午前一時半。終電には間に合ったはずだった。でも私は駅とは逆方向へ歩いていた。
理由は特になかった。
ただ、人の多い場所へ戻る気になれなかった。
夜のオフィス街は、昼間より少しだけ正直だった。看板の灯りも、自販機の音も、どこか疲れている。
コンビニで缶のカフェオレを買った。
温かいやつ。
レジの店員は眠そうな顔で、「ありがとうございます」とだけ言った。私は軽く会釈して店を出る。
それだけのやり取りなのに、少し安心した。
まだ自分はちゃんと現実の中にいる、と思えた。
私は細い路地へ入った。
飲食店が並ぶ通りだった。
ほとんど閉まっている。シャッターの前に黒いゴミ袋が積まれ、どこかの室外機が低い音を鳴らしている。
その路地の途中に、古い雑居ビルがあった。
三階建ての、小さなビル。
一階は閉店したバー。二階は事務所らしいが、看板が外れている。三階には何が入っているのかわからない。
私はそのビルを知っていた。
正確には、非常階段だけ知っていた。
学生のころ、終電を逃した夜に、友人とそこで朝まで話したことがある。
煙草を吸う友人の横で、私は缶コーヒーを飲んでいた。
将来の話をした。
十年後、自分たちはどうなっていると思うか、みたいな、青臭い話だった。
結局、その友人とは数年前から連絡を取っていない。
喧嘩したわけではない。
なんとなく疎遠になっただけだった。
私はビルの前で立ち止まる。
非常階段は建物の外側についている。
古い鉄製で、雨に濡れて黒く光っていた。
なぜか、少しだけ上りたくなった。
疲れているんだと思う。
人は疲れると、昔の場所へ戻りたくなる。
私はカフェオレを片手に、階段を上がった。
鉄の階段が、ギシ、と鳴る。
二階。
誰もいない。
三階。
踊り場に出る。
そこには、古い灰皿がまだ置かれていた。
驚いた。
十年前と同じ場所に。
もちろん中身は空だった。雨水だけが少し溜まっている。
私は踊り場の手すりにもたれた。
街が見える。
遠くのビル群。
赤い航空灯。
走り去るタクシー。
深夜の街は、明るいのに静かだった。
私は缶を開ける。
プシュ、という小さな音。
湯気が少しだけ上がる。
飲む。
甘かった。
昔はブラックばかり飲んでいたのに、最近は甘いものを選ぶことが増えた。
苦いものだけでは夜を越えにくくなった。
私はぼんやり街を見下ろしていた。
そのときだった。
背後で、ドアが閉まる音がした。
バタン。
私は振り返る。
三階の非常口だった。
でも、誰もいない。
ドアは閉まったまま。
私は少し待った。
人が出てくる気配もない。
風かな、と思った。
でも、今夜はほとんど風がなかった。
私は視線を戻す。
すると、踊り場の床に、水滴が並んでいることに気づいた。
階段の奥から続いている。
まるで誰かが濡れた靴で歩いたみたいに。
私は眉をひそめる。
さっき上がってきたときにはなかった。
水滴は非常口の前で止まっていた。
私は無意識に近づく。
古いドアだった。
小さな窓ガラスがついている。
中は暗い。
私はガラス越しに覗き込んだ。
廊下が見える。
蛍光灯が一本だけ点いていた。
その奥に、誰か立っている気がした。
細い影。
男か女かわからない。
私は目を細める。
次の瞬間、蛍光灯がちらついた。
影は消えていた。
私は息を吐く。
疲れている。
それだけだった。
最近、仕事で細かいミスが増えていた。寝不足のせいだと思う。集中力が切れると、景色の端に妙なものが見える。
私は苦笑して、カフェオレを飲み直した。
ぬるくなっていた。
そのとき、階段の下から足音が聞こえた。
カン、カン、カン。
誰かが上がってくる。
私は自然に身構えた。
でも、足音は二階で止まった。
静かになる。
私はしばらく待った。
誰も来ない。
気になって階段を覗く。
暗い踊り場だけが見える。
人影はない。
なのに、気配だけが残っていた。
私は急に、学生のころのことを思い出した。
ここで友人と話した夜。
あいつは煙草を吸いながら、「三十代って想像つかないな」と笑っていた。
私は「たぶん普通に働いてる」と答えた。
「普通ってなんだよ」
そんな会話をした。
今思えば、内容はほとんど覚えていない。
でも、缶コーヒーの匂いとか、階段の冷たさとか、そういうものだけが残っている。
人の記憶は、案外そっち側にしがみつく。
私は空き缶を軽く潰した。
ぺこん、と小さな音。
すると、すぐ後ろで誰かが笑った。
短い笑い声だった。
私は反射的に振り返る。
誰もいない。
非常口のドア。
濡れた床。
古い灰皿。
それだけ。
でも今のは、確かに聞こえた。
男の声だった。
少し低くて、懐かしい感じのする笑い方。
私は喉が渇くのを感じた。
怖い、というより、現実が少しずれていく感覚だった。
深夜は、ときどきそうなる。
世界の輪郭が薄くなる。
昼間なら絶対に気にしないことが、静かにこちらへ近づいてくる。
私は階段を下りようと思った。
でも、足が動かなかった。
その代わり、非常口のドアへ手を伸ばしていた。
自分でも理由がわからない。
ドアノブを回す。
開いた。
古い廊下の匂いがした。
少し湿った、埃っぽい匂い。
蛍光灯は一本だけ点いている。
廊下の突き当たりに、小さな窓が見えた。
その途中。
誰か背中を向けて立っていた。
私は固まる。
黒いスーツ姿だった。
男に見える。
肩幅だけがぼんやり白い光に浮いている。
その背中に、見覚えがある気がした。
私は声を出しかける。
でも、その前に蛍光灯がまたちらついた。
パッ、パッ、と二回。
光が戻ったとき、廊下には誰もいなかった。
静かだった。
遠くで、排水管の音だけがする。
私は急に怖くなって、ドアを閉めた。
金属音が響く。
呼吸が浅くなっている。
私はそのまま階段を下り始めた。
一段ずつ。
カン、カン、と靴音が鳴る。
二階まで下りたところで、上から声がした。
「まだいると思ってた」
私は止まる。
聞き覚えのある声だった。
友人の声に似ていた。
十年前、ここで話していたあいつの。
私はゆっくり上を見る。
誰もいない。
三階の踊り場に、白い蛍光灯だけが見えている。
私は何も言えなかった。
言葉にした瞬間、本当に何かがいる気がした。
だから黙ったまま、一階まで下りた。
外へ出る。
夜風が少し冷たかった。
道路にはタクシーが一台停まっている。
コンビニの明かりも見える。
現実の色だった。
私は小さく息を吐く。
そのまま歩き出した。
数メートル進んだところで、なんとなく振り返る。
非常階段の三階。
誰か立っていた。
暗くて顔は見えない。
でも、こちらを見下ろしているのだけはわかった。
私は目を細める。
次の瞬間、ビルの看板灯が点滅した。
視界が白くなる。
もう一度見たときには、誰もいなかった。
ただ、非常階段だけが夜の中に浮いている。
私はそのまま帰った。
部屋に着くころには、二時半を過ぎていた。
スーツを脱ぎ、ベッドの横へ置く。
冷蔵庫を開ける。
水を飲む。
静かな部屋だった。
窓の外で、遠くの電車が走る音がした。
始発前の回送電車かもしれない。
私は床に座ったまま、しばらく動かなかった。
スマートフォンが震える。
通知だった。
知らない番号からのメッセージ。
本文は空白。
添付画像だけが一枚。
私は開く。
ぼやけた夜景の写真だった。
どこか高い場所から撮ったみたいな。
画像の端に、鉄製の手すりが映っている。
私はそれを見て、少しだけ息を止めた。
三階の非常階段に、よく似ていた。
送信時刻は、一分前だった。
私はしばらく画面を見ていた。
返信はしなかった。
ただ、消したはずのカフェオレの甘さだけが、まだ口の中に少し残っていた。
