夜勤明けの標本室
その建物は川沿いの古いビルの三階にあった。
私は偶然そこを見つけた。
夜勤明けだった。
朝ではなく、まだ夜の続きのような時間だった。
空は少し白み始めていたが、町には深夜の空気が残っていた。
眠気はあった。
だが真っ直ぐ帰る気にもなれなかった。
コンビニで買った缶のお茶を飲みながら歩いていると、雑居ビルの案内板が目に入った。
学習塾。
税理士事務所。
空室。
その下に、小さな文字があった。
「標本室」
それだけだった。
何の標本なのかは書かれていない。
営業時間もない。
なぜか気になった。
私は階段を上った。
エレベーターは止まっていた。
三階までの階段は薄暗かった。
踊り場の窓から川が見えた。
誰もいない。
車の音だけが遠くに聞こえていた。
三階に着く。
廊下の奥に扉があった。
プレートには確かに「標本室」と書かれている。
営業中なのかも分からない。
けれどノブを回すと、扉は静かに開いた。
中には年配の女性がいた。
白衣でもなく、制服でもない。
普通のカーディガンを着ていた。
図書館の司書にも見えた。
女性は私を見ると、
「見学ですか」
と言った。
私は曖昧に頷いた。
入場料も説明もなかった。
室内には棚が並んでいた。
博物館のようだった。
ただし、置かれているものがおかしい。
ガラスケースの中に、小さな札が付いている。
『買わなかった傘』
と書かれていた。
ケースの中は空だった。
隣には、
『三年前のため息』
さらに、
『言わなかった冗談』
『途中でやめた散歩』
『午後四時十三分の居眠り』
どれも空っぽだった。
私はしばらく黙っていた。
女性は慣れた様子で言った。
「触れないでくださいね」
「何もないように見えますけど」
私が言うと、女性は少し笑った。
「見える人もいます」
その言い方があまりにも自然だったので、私はそれ以上聞かなかった。
標本室は静かだった。
空調の音だけがしている。
窓はなかった。
棚の間を歩く。
どのケースも空だった。
けれど不思議なことに、札を読んでいるうちに何かが浮かぶ。
『途中でやめた散歩』
その札を見たとき、私は去年の秋を思い出した。
休日だった。
特に目的もなく歩いていた。
川沿いを。
途中で雨が降りそうになり、引き返した。
それだけのことだった。
忘れていた出来事だった。
思い出す価値もないと思っていた。
だが、確かにそんな日があった。
そのときだった。
ケースの中に、一瞬だけ景色が見えた。
曇った川面。
歩道。
濡れたベンチ。
瞬きをすると消えた。
私は立ち止まる。
疲れているのだろう。
夜勤明けだった。
それで説明できる気がした。
たぶん。
標本室の奥には、少し大きな展示があった。
札にはこう書かれていた。
『誰にも話さなかった親切』
私は足を止めた。
ケースは空だった。
しかしなぜか、その前だけ少し温かい気がした。
冬でもないのに。
昔のことを思い出した。
数年前。
終電で帰る途中だった。
酔った男性がホームの端で寝ていた。
私は駅員を呼んだ。
それだけだった。
大したことではない。
翌日には忘れていた。
今も思い出そうとしなければ出てこない程度の出来事だった。
ケースを見る。
何もない。
何もないはずなのに、誰かの背中が遠くに見えた気がした。
ほんの一瞬だけ。
私は目を閉じた。
開く。
当然、何もなかった。
女性が近づいてきた。
「見えましたか」
私は少し考えた。
「よく分かりません」
女性は頷いた。
「だいたい皆さんそう言います」
その返事が妙に可笑しかった。
私は小さく笑った。
標本室を一周する。
最後の棚に、小さなケースがあった。
札にはこう書かれていた。
『持ち帰り自由』
中は空だった。
私は首を傾げる。
「何を持ち帰るんですか」
女性は答えた。
「空いた場所です」
意味は分からなかった。
けれど、それ以上説明を求める気にもならなかった。
私は礼を言い、標本室を出た。
階段を下りる。
外へ出る。
空はもう明るくなり始めていた。
川面に朝の光が落ちている。
通勤する人たちが歩いていた。
私は缶のお茶を飲んだ。
ぬるくなっていた。
振り返る。
三階の窓は見当たらなかった。
標本室があった場所には税理士事務所の看板しかない。
見間違えたのだろうか。
そんな気もした。
そのまま帰宅した。
シャワーを浴びる。
カーテンを閉める。
ベッドへ横になる。
眠る前、ふと思った。
人は毎日いろいろなものを落としている。
傘や鍵ではなく。
言わなかった言葉とか。
途中でやめた散歩とか。
誰にも話さなかった親切とか。
そういう小さなものを。
そしてどこかに、それを静かに並べている部屋があるのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、私は眠っていた。
目覚めたのは夕方だった。
窓の外では雨が降っていた。
部屋は静かだった。
ただ、どこかに少しだけ空いた場所ができている気がした。
何のための場所なのかは、まだ分からなかった。
