三階の非常階段
午前二時四十一分。
オフィスの時計は、深夜になると少しだけ音が大きくなる。
本当に大きくなっているわけじゃない。
昼間みたいに、電話も鳴らないし、キーボードも鳴らないし、誰かが笑う声もない。ただ、ほかの音が消えるから、秒針だけが急に責任感を持ち始める。
カチ。
カチ。
カチ。
私はパソコンの画面を閉じた。
閉じた、というより、諦めた、に近かった。
資料は八割できていた。
八割で十分な仕事なんてほとんどないけれど、八割を超えたあたりから、人の集中力はだいたい言うことを聞かなくなる。
あと少し。
その「あと少し」に、何年も使ってきた気がする。
二十代のころは、それでよかった。
終電を逃しても、コンビニのコーヒーで朝まで持った。
朝日を見ながら帰ることに、どこか意味みたいなものを感じていた。
でも三十を越えると、徹夜には意味より先に腰がくる。
肩もくる。
目も乾く。
情熱は減っていないつもりなのに、部品だけが先に古くなる。
それが少し面白くて、少し困る。
私は席を立った。
フロアには誰もいなかった。
さっきまで後輩が一人いた気がするけれど、いつ帰ったのか覚えていない。
椅子だけが、きちんと机の下に戻されていた。
そういうところが、今どきの若い人はちゃんとしている。
私の二十代なんて、椅子はだいたい斜めだった。
エレベーターを待つ気にはならなかった。
どうせこの時間は省エネ運転で遅い。
私は非常階段のドアを押した。
重たい鉄の音。
少し遅れて、冷たい空気。
ビルの中なのに、階段だけは季節に正直だった。
私は三階の踊り場まで降りて、そこで足を止めた。
いつもそうだった。
一階まで降りるつもりで階段に入るのに、なぜか三階で止まる。
理由は特になかった。
たぶん、景色だった。
三階の小窓からだけ、向かいのビルの屋上が見える。
そこだけ少し視界が開けていて、夜の街が切り取られて見えた。
私は窓の前に立った。
ガラスは少し曇っていた。
手で拭くほどでもない。
曇ったまま見る街のほうが、深夜には似合うことがある。
遠くの信号。
ビルの赤いランプ。
まだ明かりのついている部屋。
眠れない人間は、思ったより多い。
それを確認できるだけで、少し楽になる夜がある。
ポケットから缶コーヒーを取り出した。
自販機で買ったやつだった。
いつ買ったのか、もう少し前のことなのに思い出せない。
プルタブを開ける。
小さな金属音。
階段の中では、それだけで誰かに見つかった気になる。
私は一口飲んだ。
ぬるかった。
でも、悪くなかった。
むしろ深夜には、ぬるいもののほうが信用できる。
熱すぎるものは急かしてくるし、冷たすぎるものは目が覚めすぎる。
その中間くらいが、人にはちょうどいい。
カチ。
カチ。
どこか上の階で、時計の音みたいなものがした。
もちろん階段に時計なんてない。
たぶん配管か、何かの熱膨張だろう。
でも深夜になると、人は機械の音に意味を与えたくなる。
理由のない音より、理由のある勘違いのほうが安心できるからかもしれない。
私は窓の外を見た。
向かいのビルの屋上。
普段なら誰もいない。
洗濯物もない。
室外機と、フェンスと、たまにカラス。
それだけの場所。
でも、その夜は違った。
人がいた。
女の人だった。
たぶん。
白いシャツみたいなものが見えた。
フェンスの近くに立っていた。
こちらを向いているのか、街を見ているのかは分からなかった。
距離があった。
でも、不思議と目を離せなかった。
私は缶コーヒーを持ったまま、その人影を見ていた。
動かない。
風もない。
髪も揺れない。
まるで、そこだけ時間が止まっているみたいだった。
私は少し笑った。
疲れてるな、と思った。
こういうのはだいたい、室外機か何かの見間違いだ。
深夜の窓越しなんて、信用できるものが少ない。
私はコーヒーをもう一口飲んだ。
そして、もう一度、窓の外を見た。
今度は、誰もいなかった。
室外機だけ。
フェンスだけ。
赤いランプだけ。
私は缶を持ったまま、少し考えた。
見間違い。
たぶんそうだ。
そういうことにしておいたほうが、明日の仕事には向いている。
でも。
窓ガラスに、自分の姿が映っていた。
その後ろ。
階段の上。
踊り場のひとつ上。
誰か立っているように見えた。
私は振り向かなかった。
すぐには。
ガラス越しの自分の肩の向こう。
白っぽい何か。
人の形。
髪みたいな影。
でも、曇ったガラスのせいかもしれない。
疲れ目かもしれない。
缶コーヒーのアルミが、少しだけへこんだ。
握りすぎていた。
私はゆっくり息を吐いた。
それから、振り向いた。
誰もいなかった。
四階へ続く階段。
蛍光灯。
消火器。
注意書き。
それだけだった。
私は少し笑った。
声は出なかった。
深夜に一人で笑うとき、人はだいたい声を使わない。
そのほうが、何かを驚かせずに済む気がするからだった。
ポケットのスマートフォンが震えた。
会社の連絡だった。
明日の会議資料について、短い確認が一件。
句読点まで律儀だった。
感情の入る余地がない文章だった。
私は画面を見て、閉じた。
朝でいいと思った。
若いころなら、すぐ返していた。
褒められたかったし、頼られたかったし、必要とされることに少し酔っていた。
今も嫌いじゃない。
でも、夜くらいは、自分を後回しにしなくてもいい気がしていた。
私は缶を飲み切った。
少しだけ温かかった。
自分の手の熱なのか、飲み物の名残なのかは分からなかった。
窓の外を見る。
向かいの屋上は、何も変わっていなかった。
でも、フェンスのあたりだけ、少しだけ曇りが薄くなっている気がした。
誰かがそこに立って、ガラス越しにこちらを見ていたみたいに。
もちろん、気のせいだった。
たぶん。
私は空き缶を握って、階段を降り始めた。
二階。
一階。
地下駐車場へ続くドア。
外へ出るための出口。
何も変わらない。
いつものビル。
いつもの夜。
でも、一階の出口に手をかけたとき、なぜかもう一度だけ三階の窓を思い出した。
あそこから見える景色。
曇ったガラス。
向かいの屋上。
それから、自分の後ろに映った白い影。
私は振り返らなかった。
振り返る理由がないことより、振り返らない理由のほうが、深夜には少し強かった。
外へ出る。
夜気が少し湿っていた。
雨の匂いがした。
まだ降ってはいない。
でも、たぶん朝までには降る。
そういう匂いだった。
私はビルを見上げた。
三階の小窓だけ、少しだけ白く光っていた。
蛍光灯のせいかもしれない。
ガラスの反射かもしれない。
あるいは。
そこまで考えて、やめた。
全部に答えがある夜なんて、少し忙しすぎる。
私はポケットに空き缶をしまって、駅とは反対のほうへ歩き出した。
明日の資料は、たぶん朝でも間に合う。
たぶん、という言葉は、大人になってから少し好きになった。
断言しないくせに、思っていたより、ちゃんと前を向いている言葉だった。
