屋上駐車場の観測会
その商業施設の屋上駐車場では、月に一度だけ小さな天体観測会が開かれていた。
大きなイベントではない。
地元の天文サークルが主催しているだけだ。
参加費は無料。
望遠鏡も貸してくれる。
知っている人だけが知っている催しだった。
佐伯直人がその存在を知ったのは、スーパーの掲示板だった。
買い物帰りに何気なく目に入った。
『土曜夜 月と惑星の観測会』
それだけ書かれている。
直人は四十歳だった。
建設会社で現場管理の仕事をしている。
空に興味があるわけではない。
星座もほとんど知らない。
それでも、その紙を見た時に少し気になった。
理由は自分でもわからない。
最近、休日になると意味もなく車を走らせていた。
海へ行ったり。
山の見える道を走ったり。
目的地はあってもなくてもよかった。
ただ家と会社以外の場所にいたかったのだと思う。
観測会の日。
直人は開始十分前に屋上へ着いた。
夜風が思ったより涼しい。
屋上の端には望遠鏡が数台並んでいた。
家族連れ。
学生。
年配の夫婦。
二十人ほどが集まっている。
思ったより賑やかだ。
少し場違いな気がして帰ろうかとも思った。
だが受付の男性が気さくに声をかけてきた。
「初めてですか?」
「はい」
「大丈夫ですよ。だいたい皆そうです」
そう言われると帰りづらい。
結局そのまま参加した。
月はきれいに見えていた。
望遠鏡を覗く。
表面の凹凸がはっきり見える。
「すごいですね」
思わず声が出た。
隣で誰かが笑った。
「初めて見るとそうなりますよね」
女性だった。
三十代半ばくらい。
首から小さな双眼鏡を下げている。
「そんなに違うものなんですね」
直人が言う。
「写真で見るのとは全然違います」
女性は頷いた。
「私も最初びっくりしました」
「よく来るんですか」
「たまに」
彼女は少し考える。
「星を見にというより、ここに来るために来てる感じですけど」
その言い方が気になった。
「どういう意味ですか」
女性は周囲を見回した。
子どもたちが望遠鏡を覗いている。
スタッフが説明している。
夜風が吹く。
遠くに町の灯りが広がる。
「何となく平和じゃないですか」
彼女は言った。
「ここ」
直人は笑った。
確かにそうだった。
誰も急いでいない。
売上の話も。
締切の話も。
ニュースもない。
ただ空を見上げている。
大人も子どもも。
理由はそれぞれだろう。
けれど同じ方向を見ている。
それが少し不思議だった。
女性は村瀬夏希と名乗った。
三十六歳。
理髪店で働いているらしい。
駅前の店だという。
「髪を切る仕事と星って結びつかないですね」
直人が言う。
「よく言われます」
夏希は笑う。
「私も結びついてません」
「じゃあなぜ」
「逃げ場所ですかね」
その言葉は妙に正直だった。
「逃げ場所?」
「仕事が嫌なわけじゃないんです」
彼女は付け加える。
「でも毎日同じ場所にいると、別の景色が欲しくなるじゃないですか」
直人は頷いた。
それはよくわかった。
彼も同じような理由でここへ来たのかもしれない。
望遠鏡の順番を待ちながら二人は話した。
仕事のこと。
休日のこと。
最近なくなった映画館のこと。
町の話。
大した話ではない。
それでも不思議と会話が続いた。
天体観測会のおかげかもしれない。
空を見上げる時間があると、沈黙も気にならない。
話が途切れれば空を見る。
また何か話す。
その繰り返しだった。
やがてスタッフが土星を見せてくれた。
輪がはっきり見える。
直人は思わず声を上げた。
「本当に輪があるんですね」
「ありますよ」
夏希が笑う。
「疑ってたんですか」
「少し」
「子どもみたいですね」
「自覚あります」
望遠鏡から顔を離す。
空には無数の星がある。
だが町の灯りが強いせいで、その多くは見えない。
それでも十分だった。
直人はふと思った。
若い頃は空を見上げることがもっと多かった気がする。
帰り道。
部活帰り。
旅行先。
いつから見なくなったのだろう。
忙しくなったからか。
慣れたからか。
理由はわからない。
「そういえば」
夏希が言った。
「私、この観測会で知り合った人に言われたことがあるんです」
「何をですか」
「星を見るのが好きな人と、星を見る場所が好きな人は違うって」
「なるほど」
「私は後者です」
直人は少し考えた。
そして言った。
「僕もかもしれません」
夏希は笑った。
「ですよね」
その言い方が妙に嬉しそうだった。
観測会は二時間ほどで終わった。
参加者たちが少しずつ帰っていく。
望遠鏡も片付けられ始める。
屋上には夜風だけが残った。
直人も帰ろうとした。
だがエレベーターへ向かう途中で、夏希が立ち止まる。
「せっかくだから」
「はい?」
「缶コーヒーでも飲みません?」
屋上には自動販売機があった。
少し古い型だ。
二人は温かいコーヒーを買った。
ベンチに座る。
観測会の後の屋上は静かだった。
遠くを走る車の音だけが聞こえる。
「なんか文化祭の後みたいですね」
夏希が言う。
「終わった後の感じ」
「わかります」
直人は頷く。
「片付け終わった後の校舎みたいな」
「そう、それです」
二人はしばらく夜景を眺めた。
特別な景色ではない。
見慣れた町だった。
けれど高い場所から見ると少し違って見える。
「また来ます?」
夏希が聞いた。
「観測会ですか」
「はい」
直人は少し考えた。
最初は一度きりのつもりだった。
だが今は違う。
「来ると思います」
「よかった」
夏希は缶コーヒーを持ちながら笑う。
「私もです」
帰る頃には店の灯りもほとんど消えていた。
エレベーターへ向かう。
途中で連絡先を交換した。
次の観測会の予定を確認するため。
理由としてはそれで十分だった。
一階へ降りる。
自動ドアの外には夜の駐車場が広がっていた。
車まで歩く。
そこで自然に立ち止まる。
「じゃあまた」
夏希が言う。
「来月ですかね」
「たぶん」
直人は答える。
たぶん。
曖昧な言葉だった。
けれど嫌いではなかった。
世の中には、はっきり決めない方がいい約束もある。
来月。
晴れるかどうかもわからない。
仕事が入るかもしれない。
観測会が中止になるかもしれない。
それでもまた会う気がした。
根拠はない。
ただそんな気がした。
夏希の車が先に出ていく。
赤いテールランプが遠ざかる。
直人はしばらく見送った。
それから自分の車に乗り込む。
エンジンをかける前に空を見上げた。
屋上で見た時と同じ空だった。
星も同じ場所にある。
なのに少し違って見える。
観測会で見た土星の輪を思い出す。
望遠鏡がなければ見えなかったもの。
けれど確かにそこにあったもの。
人との出会いも似ているのかもしれない、と直人は思った。
普段の生活の中では通り過ぎてしまう。
見えないまま終わる。
けれど、たまたま同じ場所に立ったことで見えるものがある。
夜の駐車場には静かな風が吹いていた。
次の観測会まで、まだ少し時間がある。
それなのに直人は、帰宅後の予定よりも先の夜のことを考えていた。
そのことが、少しだけ可笑しかった。
