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君の家まであと二曲

「あと二曲くらいだね」

信号待ちで僕が言うと、真帆はダッシュボードの時計を見た。

十一時四十二分。

「時間じゃなくて?」

「時間だと十二分」

「普通、そっちで言わない?」

「今の曲が四分。次が五分くらい。その次の途中で着く」

「ずいぶん正確だね」

「毎週送ってるから」

「毎週じゃないよ」

「先週も送った」

「先々週は?」

「送った」

「その前は?」

「送った」

真帆は少し考えた。

「毎週だね」

「でしょう」

信号が青になった。

僕はアクセルを踏んだ。

金曜日の夜だった。

真帆とは同じ会社で働いている。

部署は違う。

僕は商品企画。

真帆は広報。

同期だった。

入社して十一年になる。

仲良くなったのは、たぶん三年目くらいだった。

同期の飲み会で席が隣になって、帰る方向が同じだと分かった。

それから何度か一緒に帰った。

僕が車で通勤するようになってからは、飲まなかった日に送ることも増えた。

真帆のマンションは、僕の家までの道から少し外れる。

少し、と言っても十五分くらい。

「遠回りじゃない?」

最初の頃、真帆は何度も聞いた。

「そうでもない」

僕は毎回答えた。

本当は、そうでもある。

十一年のあいだ、僕にも恋人がいた。

真帆にもいた。

僕が付き合っていた女性と真帆が会ったこともある。

四人で食事をしたこともある。

どちらも今はいない。

それについて、僕たちは特に話さなかった。

「この曲、誰?」

真帆が聞いた。

「知らない」

「自分の車でしょう」

「ラジオだから」

「あ、そうか」

真帆は窓の外を見た。

五月の夜。

窓を少し開けると、ちょうどいい風が入る。

「今日の店、おいしかったね」

「うん」

「でも高かった」

「川田さんの送別会だから仕方ない」

「私、川田さんと三回くらいしか話したことない」

「来てたね」

「誘われたから」

「律儀だね」

「暇だったの」

「金曜なのに?」

「金曜だから」

真帆はそう言って、ラジオの音量を一つ上げた。

一曲目が終わった。

パーソナリティが短く喋る。

天気の話。

週末のイベント。

それから次の曲が始まった。

古い洋楽だった。

「あ、これ知ってる」

真帆が言った。

「僕も」

「誰だっけ」

「知らない」

「また?」

「曲は知ってる」

「それは知ってるって言わないでしょう」

「イントロ歌えるよ」

「歌って」

「もう流れてるから意味ない」

真帆が笑った。

昔からこうだった。

僕たちは大事な話をあまりしない。

会社の話。

食べ物。

映画。

天気。

誰かの噂。

買ったもの。

なくしたもの。

最近眠れないとか。

最近寝すぎるとか。

そういう話ばかりしている。

一度、真帆に言われたことがある。

「私たち、十一年も知ってるのに、深い話したことないよね」

僕は、

「深い話って何?」

と聞いた。

真帆も分からなかった。

結局その日は、冷凍餃子の上手な焼き方の話をして帰った。

「ねえ」

真帆が言った。

「うん」

「この前、佐伯さんに聞かれた」

「何を?」

「私たち付き合ってるのかって」

僕は前の車のテールランプを見た。

「なんて答えたの」

「付き合ってません、って」

「正解」

「正解なの?」

「違うの?」

「違わないけど」

真帆は笑った。

「そのあと、じゃあ何なんですかって」

「何なんですかって言われてもね」

「ね」

「同期」

「十一年目の?」

「同期に年数は関係ないでしょう」

「じゃあ友達?」

「たぶん」

「たぶんなんだ」

「真帆は?」

「たぶん」

僕たちは同時に笑った。

曲は半分を過ぎていた。

あと七分くらい。

次の大きな交差点を左に曲がって、まっすぐ行けば真帆の家だった。

「そういえば」

真帆が言う。

「来月から私、車買おうかな」

「急だね」

「最近見てるの」

「何買うの?」

「小さいやつ」

「情報が少なすぎる」

「白か青」

「さらに分からなくなった」

「週末、見に行こうかなって」

「いいんじゃない」

「車あったら便利だし」

「うん」

「そうしたら送ってもらわなくて済む」

その言葉のあと、ちょうど曲が静かになった。

歌声だけが車内に残った。

「そうだね」

僕は言った。

それだけだった。

真帆は窓の外を見ている。

交差点が近づいた。

左折レーンへ入る。

ここを曲がれば、いつもの道だ。

ウインカーを出した。

信号は赤だった。

「車、欲しかったんだ」

僕が言った。

「前からちょっと」

「聞いてない」

「言ってないから」

「何で?」

「別に報告することでもないでしょう」

「まあね」

「村井は何でも知ってるつもり?」

「そんなことないよ」

「私の好きな色、知ってる?」

「青」

「違う」

「白?」

「違う」

「じゃあ何」

「別に好きな色ない」

「問題が悪いよ」

真帆が笑った。

信号が青になった。

左へ曲がる。

いつもの道。

「でも」

真帆が言った。

「車買っても、たまには送ってよ」

僕は横を見る。

「何で?」

「飲んだ日とか」

「今日飲んでないじゃん」

「今日は飲みたくなかったの」

「じゃあ自分で運転できたね」

「まだ買ってないから」

「そうだけど」

真帆は少し黙った。

「あと、こっちのほうが楽だし」

「僕が運転するから?」

「それもある」

「他には?」

「話せるから」

僕は前を見た。

「会社でも話してるでしょう」

「会社では仕事の話するじゃん」

「今も大した話してないよ」

「それがいいんでしょう」

真帆はそう言った。

二曲目が終わった。

新しい曲のイントロが流れる。

「あと一曲」

真帆が言う。

「最初、あと二曲だったからね」

「この曲が終わる前に着く?」

「たぶん」

「何分?」

「知らない曲だから分からない」

「役に立たないなあ」

前方に真帆のマンションが見え始めた。

あと三分もない。

僕は少しだけアクセルを緩めた。

制限速度の範囲で。

「村井」

「うん」

「来週の金曜、暇?」

「たぶん」

「また送別会あるよ」

「誰?」

「営業の田島さん」

「僕、田島さん知らないよ」

「私もあんまり知らない」

「じゃあ行かなくていいでしょう」

「誘われた」

「律儀だね」

「暇だから」

「また?」

「来る?」

「知らない人の送別会に?」

「私もいるよ」

「それは知ってる」

真帆は笑った。

「じゃあ来て」

「何で」

「帰り、送って」

「車買うんでしょう」

「まだ買ってない」

「いつ買うの」

「そのうち」

「ずっと買わなそう」

「いいじゃん、別に」

曲はまだ続いていた。

マンションの前まで来た。

いつもならここでハザードを出す。

僕は出さなかった。

そのまま通り過ぎた。

十メートル。

二十メートル。

真帆は何も言わない。

三十メートル。

「村井」

「うん」

「今、通り過ぎたよ」

「そう?」

「毎週送ってる人が間違える?」

「曲、まだ終わってないから」

自分でも、ずいぶん変な言い訳だと思った。

真帆は何も言わなかった。

ラジオから知らない歌が流れている。

次の交差点まで進む。

「どこ行くの?」

「一周して戻る」

「何のために?」

「曲が終わるまで」

「馬鹿じゃない?」

「たぶん」

真帆が笑った。

「じゃあしょうがないね」

僕は右に曲がった。

住宅街をゆっくり走った。

本当に一周するだけの道だった。

「この曲、長いね」

真帆が言う。

「そうだね」

「七分くらいあるんじゃない?」

「大作だ」

「早送りする?」

「ラジオだからできない」

「あ、そうか」

今日二度目だった。

僕たちは笑った。

「ねえ」

真帆が言った。

「うん」

「私たちってさ」

少し間があった。

僕は続きを待った。

「やっぱいい」

「何?」

「忘れた」

「絶対嘘じゃん」

「本当に」

「気になる」

「じゃあ村井から何か話して」

「何を」

「深い話」

「急だな」

「十一年してないから」

僕は考えた。

深い話。

人生。

仕事。

家族。

将来。

恋愛。

どれも車の中で突然始めるには重かった。

「今日の店」

「うん」

「デザート頼めばよかった」

真帆が吹き出した。

「浅い」

「深い話って難しいな」

「もういいよ」

「真帆は?」

「何が」

「深い話」

「私もない」

「じゃあいいじゃん」

「そうだね」

曲が終わった。

パーソナリティの声に変わる。

「終わったよ」

真帆が言った。

「うん」

「戻っていいよ」

「はい」

マンションへ戻った。

今度はちゃんと前で停めた。

午前零時一分。

真帆がシートベルトを外す。

「ありがとう」

「うん」

ドアに手をかける。

でも、すぐには開けなかった。

「村井」

「何?」

「さっきの話、思い出した」

「私たちって、の続き?」

「うん」

「何?」

真帆はフロントガラスの向こうを見た。

「私たちって、いつまでこうなんだろうね」

僕は答えなかった。

答えが分からなかった。

「こうって?」

少しずるい聞き方をした。

「毎週みたいにご飯食べて」

「うん」

「車で送ってもらって」

「うん」

「どうでもいい話して」

「うん」

「それだけ」

「嫌なの?」

「嫌じゃない」

真帆はすぐに答えた。

「じゃあいいんじゃない」

僕もすぐに答えた。

真帆は笑った。

「村井らしいね」

「何が」

「深くならない」

「悪かったね」

「褒めてる」

「本当に?」

「たぶん」

真帆はドアを開けた。

片足を外へ出してから振り返る。

「来週」

「うん」

「田島さんの送別会、七時だから」

「行くことになってる?」

「なってる」

「知らない人なのに」

「帰り道、二曲あるでしょう」

僕は笑った。

「三曲かもしれないよ」

「遠回りするならね」

ドアが閉まった。

真帆はマンションへ歩いていった。

エントランスの前で一度振り返り、軽く手を上げた。

僕も上げた。

車を出す。

助手席が空いた。

さっきまで真帆が座っていたところに、彼女が買ったミントのガムが残っている。

忘れたのだろう。

信号で止まった。

ラジオでは次の曲が始まっていた。

知らない曲だった。

僕はタイトルを確認した。

覚えておこうと思った。

来週、真帆に教えるために。

それくらいなら、深い話じゃなくてもできる。

信号が青になった。

家までは、あと五曲くらいあった。

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