火曜日を保管する部署
私がその部署の存在を知ったのは、会社帰りに立ち寄った区役所だった。
転居届の記載に不備があり、平日にもう一度来てほしいと言われていたのだが、仕事の都合で昼間は動けない。夜間窓口が開いていると聞き、閉館間際の庁舎へ向かった。
雨上がりの夜だった。
昼間の役所は苦手だが、夜の役所は嫌いではない。
人気のない廊下。
遠くで鳴るコピー機の音。
誰かがまだ仕事をしている気配。
建物全体が、眠る準備をしているように見える。
手続きを終え、私は帰ろうとした。
そのときだった。
案内板の前を通り過ぎた瞬間、見慣れない表示が目に入った。
三階。
「曜日管理課」
と書かれている。
その下には小さな文字で、
「火曜日保管係」
ともあった。
私は足を止めた。
役所にはいろいろな部署がある。
だが、曜日を管理する課など聞いたことがない。
見間違いだろうと思い、近づいて確認した。
確かに書かれている。
曜日管理課。
火曜日保管係。
矢印は三階の奥を指していた。
妙だった。
三階はすでに消灯しているはずだった。
夜間窓口は一階しか使っていない。
私は首をかしげながら建物を出た。
外へ出た頃には、そのことを半分忘れていた。
翌週。
火曜日だった。
朝から妙に忙しかった。
会議が二件。
取引先との電話。
資料修正。
気づけば夕方になっていた。
昼休みもまともに取れなかった。
帰宅して夕食を食べながら、ふと思った。
今日、本当に火曜日だっただろうか。
もちろん火曜日だった。
スマートフォンにもそう表示されている。
だが火曜日らしい記憶が薄い。
月曜日の続きがそのまま水曜日へ繋がったような感覚だった。
疲れているだけだと思った。
その週の金曜日。
会社の同僚が昼休みに妙な話をした。
「今週、火曜日あったっけ」
冗談めかした言い方だった。
周囲も笑った。
私も笑った。
だが少しだけ気になった。
火曜日の出来事を思い出そうとすると、細部が曖昧だった。
会議をしたはずだ。
電話もした。
だが具体的な内容が思い出せない。
月曜日や水曜日の記憶は普通に残っているのに。
そんなことが数週間続いた。
火曜日だけが妙に短い。
朝になったと思うと終わっている。
気づけば夜になっている。
ある雨の夜。
私は残業帰りに区役所の前を通った。
時計は十一時を回っていた。
なぜだかあの案内板を思い出した。
曜日管理課。
火曜日保管係。
馬鹿げた話だと思いながらも、足は自然に役所へ向かっていた。
夜間窓口はまだ開いていた。
警備員もいる。
私は何食わぬ顔で中へ入った。
手続きの用事はない。
そのままエレベーターへ向かう。
三階のボタンを押した。
扉が開く。
廊下は暗かった。
蛍光灯が数本だけ点いている。
静まり返っていた。
人の気配もない。
私は奥へ進んだ。
案内板はなかった。
曜日管理課の表示もない。
やはり見間違いだったのだろう。
そう思いかけたとき、一番奥の部屋の扉だけが少し開いていることに気づいた。
中から灯りが漏れていた。
恐る恐る覗く。
そこは事務室だった。
古い机が並んでいる。
書類棚もある。
そして部屋の入口には確かに札が掛かっていた。
「火曜日保管係」
小さな木札だった。
私は息を止めた。
部屋の中には男性が一人いた。
五十代くらいだろうか。
白いワイシャツ姿で、机に向かっている。
彼はこちらを見ると驚く様子もなく言った。
「何かお忘れですか」
私は返事に困った。
帰るべきだった。
だが好奇心の方が勝った。
「火曜日を保管しているんですか」
自分でも馬鹿な質問だと思った。
しかし男性は真面目な顔で頷いた。
「足りなくなりますので」
当然のような口調だった。
私は思わず笑いそうになった。
だが笑えなかった。
部屋の奥にある棚が見えたからだった。
図書館の書庫のような棚だった。
無数の引き出しが並んでいる。
ひとつひとつに日付が貼られていた。
六月三日。
六月十日。
六月十七日。
全部火曜日だった。
男性は立ち上がった。
棚の前へ行く。
ひとつの引き出しを少しだけ開いた。
中が見えた。
もちろん本当に火曜日が入っているわけではない。
だが私は確かに何かを見た。
昼休みの社員食堂。
曇り空。
自動販売機の前で立ち話をする人。
駅のホーム。
夕方の交差点。
どれも一瞬だった。
映像というより記憶に近い。
引き出しが閉まる。
男性は言った。
「皆さん、火曜日を忘れますから」
私は黙っていた。
「忙しい週ほど多いですね」
「保管しているんですか」
「ええ」
彼は頷いた。
「完全になくならないように」
その説明で納得できるはずがなかった。
それなのに妙に腑に落ちた。
確かに火曜日は失われやすい。
月曜日ほど憂鬱でもない。
金曜日ほど待ち遠しくもない。
祝日にもなりにくい。
気づけば通り過ぎている曜日だった。
男性は棚を見上げた。
「誰も覚えていない火曜日ばかりです」
静かな声だった。
私はそれ以上質問しなかった。
聞いてはいけない気がした。
帰ろうとすると、男性が呼び止めた。
「あなたのもありますよ」
私は振り返った。
彼は棚の一番下を見ていた。
「二十代の頃の火曜日です」
私は何も答えられなかった。
二十代。
一人暮らしを始めた頃。
終電ばかり乗っていた頃。
確かに忘れてしまった火曜日は山ほどある。
部屋を出た。
廊下は静かだった。
エレベーターで一階へ戻る。
警備員は何も言わない。
夜間窓口の職員も普通に仕事をしている。
まるで何もなかったようだった。
翌日。
私はもう一度役所へ行ってみた。
昼休みだった。
三階へ上がる。
だがそこには普通の会議室しかなかった。
火曜日保管係など存在しない。
案内板にも載っていない。
それ以来、あの部署を見たことはない。
けれど火曜日になると、時々思い出す。
仕事帰りの空の色。
誰かと交わした短い会話。
コンビニで買った缶コーヒー。
思い出す必要もなかったはずの小さな記憶たち。
もしかすると、保管されていた火曜日の欠片が少しずつ戻ってきているのかもしれない。
今日も火曜日だった。
特別なことは何もない。
残業をして、電車に乗り、帰宅して茶を淹れた。
窓の外では遠くのマンションに灯りが点いている。
明日になれば、この火曜日も忘れてしまうだろう。
だがどこかの棚の引き出しには、ちゃんと保管されるのかもしれない。
誰にも思い出されなくなった曜日が、静かに並ぶ部屋で。
