【企画短編】可視光線
【企画参加作品】② #noteでBL
①の「陽だまりと焦燥」はお題(視線)が弱めだったので、こちらはがっつり「見させて」みました。
が、今度は重さとロマンス部分が足りない…。
企画ものって難しいですね…でも書いている自分は楽しかったです!
よろしくお願いいたします。
※※BL要素を含みますので、苦手な方はご注意ください※※
【テーマ】 激重感情仄暗不穏ブロマンス~BLでも可
【お題】 視線
【タイトル】可視光線(スペース抜き約9,000字)
もうたくさんだ。
誰も、俺を見るな。
【白川】
「水原」
呼びかけると、彼はびくっと肩を揺らした。反射的に身体が引かれて、ふたりの間に距離ができる。
今に始まったことではないが、俺は今日も懲りずに傷つく。
「…ごめん、ぼーっとしてたからびっくりして…なに?」
取り繕うような言葉は嘘ではないだろう。彼がぼんやりしていたから声をかけたのだ。
ただ、彼が同じ状況で声をかけられたとして、俺以外に同じような反応をするかと言えば違う。
俺は明らかに、彼に避けられていた。
「いや、次移動だから。間に合わないぞ」
既にまばらになったクラスメイトを見て、彼はああ、と立ち上がった。
「気づいてなかった。…ありがとう」
目を合わさずにそれだけ言うと、さっさとひとりで教室を出て行く。取り残された形の俺を、ドアの前でクラスメイトが呼ぶ。
「白川、なにしてんだ。行くぞー」
合流しながら、俺の声に身を引く彼の顔を思い出す。あの、怯えるような瞳。
俺のなにが、彼を頑なにするのだろうか。
初めて水原を見たときの印象は「綺麗」だった。水原葵、という名前も含めて、涼やかで静かな、綺麗な水流のようだと思った。
そんな彼は、不思議なほど目立たなかった。クラスではほぼひとりで過ごし、授業中も校内行事でも注目される活躍はない。孤立するわけでも中心になるわけでもなく、ただそこにいるだけのクラスメイト。ひとりでいるのが好きな、ただの大人しい生徒だった。
けれどなぜか目を惹かれる。ぼんやりと窓の外を見る横顔も、静かなのに聞き取りやすい音読の声も、チョークを持つ細く長い指も。
そのすべてが、なぜかはわからないけれど、俺の目を惹きつける。
話してみたい。彼のどこに自分がこんなに惹かれるのか知りたい。
その思いとは裏腹に、気がついたときには彼は俺を避けるようになっていた。
直接的なきっかけは思い当たらない。さっきの移動教室のように、何かあれば話しかけはしたけれど、会話はどれもごく事務的な、短いものでしかなかったはずだ。彼の逆鱗にふれられるほどの接触だったとは思えない。
それなのに、俺が近づくと、怯えたように距離を取る。
「葵!」
明るく呼びかける声を聞いたのは、帰ろうと教室を出たところだった。廊下の端で、同じく帰るところらしい水原を呼び止める誰か。
隣のクラスの、沢野だ。
「帰るなら一緒に行こうぜ。ちょうどおまえの家に寄ろうと思ってたんだ」
そんな沢野の声を、聞くともなしに聞く。
水原の返答は聞こえないが、沢野に向かって微笑みかけるのが見えた。
あんな顔、見たことない。そう思っていると、沢野が水原に手を伸ばした。
「葵、髪伸びたんじゃね。目に入りそう」
そんな言葉とともに沢野の長い指が水原の髪にふれて、前髪をかきあげるように梳いた。
水原は目を眇めて、されるがままになっている。…嫌がっては、いない。
すぅっと胸が冷えるのを感じた。俺は呼びかけただけで距離を取られるのに。
髪にふれることを許される、沢野の指。ふたりが連れだって姿を消しても、艶やかな黒髪を梳くその光景が、瞼から消えなかった。
「水原」
呼ぶと、彼が明らかに動揺するのがわかった。放課後の駐輪場にいるのは、俺と水原だけだ。
「…なに」
「今帰りだろ。途中まで一緒に行こうぜ」
俺の誘いに、水原が息を呑む。そんなに嫌かよ、と胸が黒くざわめく。
「…なんで、俺と?」
「別に、見かけたから?あんま話したことないし。ちょうどいいかな、って」
答えると、逡巡するように目が泳ぐ。そんなに嫌かよ。こぼれそうなそんな言葉を呑み込む。
「俺とは、嫌?」
なるべく穏やかに聞こえるように。胸のなかで渦巻く黒い感情がバレないように。声を落として、言った。
水原は答えない。ただ眉を寄せて、俺の視線を避けるようにうつむく。
「沢野とは帰るのに?」
一歩近づくと、はっとしたように顔を上げた。艶やかな黒髪は、夕暮れの光に茶色く透けている。
沢野にふれさせた髪。
「沢野には、髪をさわられても嫌がらないのに。俺とは、話すのも嫌?」
「…白川」
「俺、おまえに何かしたか?」
距離を詰めると、水原はその分後ずさる。その背が駐輪場のフェンスにふれて、がしゃん、と耳障りな音が響いた。
「答えろよ。なんでそんなに俺を避ける?…俺がおまえに、何をしたんだ?」
逃げ場を失くした水原は、最後の抵抗のように俺から顔を背けている。フェンスに手を突くと、長い睫毛が震えるのが見えた。噛みしめた形の良い唇。シャツの胸元を掴む、白い指。
沢野はふれたことがあるのだろうか。この指に、睫毛に、…唇に。
「水原!」
胸に渦巻く黒い感情が爆発し、喉から溢れた。俺の声に大きく肩を揺らした水原は、諦めたようにひとつ息を吐いて…真っ直ぐに俺を見た。
初めて正面から捉える瞳。初めて俺の顔を映している瞳。
綺麗だな、と、的外れなことを思う。
「…おまえが、俺を見るからだ」
彼の言葉の意味はわからなかった。伝わらないことに苛立つように、彼の眉間の皺が深まる。
「おまえ、いつも俺を見てるだろ。教室にいる間中、いつだっておまえの視線を感じる。俺が何をしていても、全部灼きつけようとしてるみたいに。それが嫌なんだ」
水原の口調は、普段からは想像できないくらい激しかった。俺への怒りを爆発させるように、形の良い唇から俺を拒否する言葉が溢れる。
「嫌なんだ、他人に見られるのが。誰かに何かを期待されるのも、近づこうとされるのも、俺を理解しようとされるのも。ぜんぶうんざりなんだよ!」
喉が凍り付いたように、応える言葉がない。今までの怯えるような色は消えて、怒りに燃える瞳が真っ直ぐに俺を捉えている。
「だから大人しくしてるのに、目立たないようにしてるのに、おまえは全部見てる。訊きたいのは俺のほうだ。なんで俺を見る?なんで俺を、放っておいてくれないんだ!」
水原の怒りに圧倒されて言葉が出ない。そんなに強く拒否されているとは思っていなかった。それに、気づかれていたなんて。俺がいつも、彼を見ていたことを。
なぜ見る。なぜ目を惹かれる。それは、
「…好きだからだ、たぶん。おまえのことが」
見つけた答えはそのまま唇から滑り落ちた。しまったと思ったのは、水原の顔が凍り付いたのを見てからだ。さっきまでの怒りも忘れて、彼は愕然と俺を見ている。
こんなふうに言うべきじゃなかった。でももう遅い。それなら、今は伝えるしかない。…もう、伝わらないかもしれないけれど。
「初めて見たときから気になってた。だからつい目で追ってた。なんでかは自分でもわからなかったし、それを知りたくて近づきたかった」
でも今ならわかる。髪にふれた沢野。それを許す水原。ふたりを見て生まれた感情が黒く渦巻くものなら、答えはひとつしかない。
「好きなんだ。だから避けられたくない。ちゃんと、おまえと話したい」
「…すき?」
彼がようやく発した声には、嘲る響きがあった。不快そうに寄せられた眉。再び瞳に宿る、怒り。
「俺のことなんか何も知らないくせに。単にこの顔だから、この声だから、俺のことを好きだって?俺はおまえのお人形じゃないんだよ」
「だから、おまえのことを知りたくて話したかったんだ。でも避けるから」
「…それで、話してみて想像と違ったらがっかりするのか。勝手にキレイな、可愛い、感じのいい俺を想像して、少しでも違ったら失望して興味を失くすのかよ」
「…そんなこと、」
「ないのかよ。じゃあ今、こうやっておまえを否定する俺は?こんな俺が知れて満足か?これからも、さっきまでと同じように、俺を好きだって言えるのかよ!」
答えられなかった。あまりにも知らなかったことが多すぎて。…知ったばかりの彼が、それまでと違いすぎて。
固まる俺を燃える瞳で睨み、水原は一言「どけよ」と言った。低く押し殺した声。苦いものに耐えるような、苦しそうな声だ。
「放っておいてくれ。誰とも関わりたくないんだ」
吐き捨てるように言って去って行く姿を、ただ見ているしかなかった。
【沢野】
「あれ、葵?」
廊下で見かけたのは俺の幼なじみだ。普段の休み時間は教室で過ごすことの多い彼が、足早に階段に向かうのを追いかける。
「なんかあったのか。顔色悪いぞ」
俺に気づいた彼は、「けいすけ」と小さく名前を呼んだ。あからさまにほっとする様子に、胸がざわりと鳴る。
「どうした?」
「いや、なんでもない」
「そんな顔してなんでもないわけないだろ。教室で何かあったのか?」
食い下がると、躊躇うように黙り込む。ますます放っておけなかった。
「昼、一緒に食おうぜ。中庭で待ってるよ」
「…わかった」
予鈴が鳴る。教室に戻らなくては。明らかに嫌そうにしながら、彼も渋々廊下を引き返した。
うつむくその顔に、また胸がざわめく。
「沢野、メシー」
「ごめん、俺今日は別で食うから、またな!」
クラスメイトにそう告げて中庭に向かう。葵は既に来ていて、俺を見るとほっとしたように微笑んだ。
透きとおるようなその微笑に、困ったな、と思う。
「葵、メシは?」
「…食欲ない」
持っているのは野菜ジュースだけだ。足りるわけがない。俺は弁当の卵焼きを彼の口に突っ込む。
「…うまい、小母さんの卵焼き」
「だろ。いつも絶対入れてもらうんだ。でもたまにネギ入れてくるから要注意な。ネギだけはやめてくれっていつも言ってるんだけど、嫌なら持って行くなの一点張り。残すと翌日は作ってくれねーし」
「はは、小母さんらしい」
青ざめていた顔に血色が戻る。自然な笑顔に、俺もほっとする。
繊細な幼なじみの心の軋みは、俺にもダイレクトにダメージを与えるから。
「唐揚げも食えよ」
「啓介の分なくなるだろ、もういいよ」
遠慮する口に唐揚げをねじ込むと、大人しく食べた。よしよし、いい感じだ。
「で、何があったんだ?」
切り出すと、きゅっと眉間に皺が寄る。まぁそういう顔になるだろう。嫌なことを聞き出そうとしているのだから。
「…おまえ、白川って知ってる?」
「うん。二中の白川颯斗だろ。目立つからな」
そいつがどうした?と訊くと、彼は数日前のふたりのやりとりを訥々と口にした。これまで感じていた視線。駐輪場での会話。そしてその後。
「隙あらば話しかけてくる。もう意味がわからない」
話しかけられることに耐えられず、休み時間の度に教室を飛び出していたらしい。
聞きながら、俺の眉間にも深い皺が発生した。白川への苛立ちとともに。
「なんて言ってくるんだ?」
「教室だから、そんなに直接的なことではないけど…こないだは急に悪かった、でもやっぱりちゃんと話したい、みたいな」
まずいな、と思った。葵にあんなにはっきり拒否されて、それでも食い下がるということは。
「おまえのこと、まじで好きなんじゃねーの」
「やめろよ」
吐き捨てるように言う。その強ばった顔に、ああまだ駄目なんだな、と思う。
繊細な幼なじみ。彼が他人からの好意や期待に過剰なまでに拒否反応を示すようになったのは、中学の終わりだ。
もう誰とも関わりたくない。どうせ誰も、俺のことなんて必要としてない。俺が笑わなければ、相手にしなければ、望む反応を返さなければ、彼らにとって俺は必要ないんだ。俺はいつも、誰かの都合のいい人形でしかない。
青ざめて、苦しそうにそう言った顔を、声を忘れることができない。
「どうせこの顔に期待してるだけだ。大人しくて優しくて、いつでも相手のために頑張れるいい子。…期待どおりじゃなきゃ、すぐ捨てるくせに」
連日の接触に疲れているのだろう。普段なら口にしないそんなことまで言い出す。自分で傷口を抉りだしそうで、見ていられない。
「…もし話してみて、」
なぜ自分はこんなことを言おうとしているのだろう。頭のなかの冷静な部分で、ちらりと考える。
「白川がほんとに、こうやって俺と話すときと同じようにしてるおまえを好きだって言ったら、どうする?」
「え?」
「白川が、あいつの想像してたおまえじゃなくて、自分の好きに振る舞うおまえを改めて好きになるなら。…もしかしたら、もうなってるのかもしれないけど」
そしたらどうする。
お人形じゃない自分を好きになる相手なら。
「受け入れるのか?」
「…まさか」
葵は困惑したように俺を見る。俺の真意がわからず、不安そうに揺れる瞳。
ああまずいな。心にちらつく黒い影。
あいつの前で、そんな瞳をしていたのか。それはとても良くない、葵。
その瞳はあまりにも、仄暗い劣情を煽る。
その瞳に煽られて、あいつも、俺も、思わず手を伸ばしてしまう。
「もし」
やめろという心の声がする。俺のなかの冷静な部分。でももう、その声はあまりに小さくて、力を持たない。
「もし俺が、あいつと同じように、おまえのことを好きだって言ったら?」
「…なに?」
磨かれた宝石のような綺麗な瞳が、俺の言葉に揺れる。不安そうに、怯えるように、煽るように。
駄目だよ葵。誰の前でも、そんなふうに瞳を揺らしたりしたら。
それは綺麗なお人形でいるより、ずっとずっと…
「受け入れる?」
「…けいすけ?」
悲鳴のような細い声に、頭を殴られたような気がする。我に返ると、幼なじみは青ざめて俺を見ていた。
「冗談だよ、そんな顔するな」
しんと冷える心を感じながら、俺は慌てて笑う。いつもの快活な笑顔。彼が唯一ほっとできる、幼なじみの顔で。
「…ふざけんな、変なこと言うなよ。びっくりするだろ」
「ごめんって。ほら、デザートやるよ」
「いらねーよ」
ぎこちなく怒りながら、ようやく葵が笑顔を見せる。
その笑顔を見ながら、心が軋むのを感じる。
この笑顔と、あの瞳。
俺が手に入れたいのは、ほんとはどっちなんだろう。
【白川】
「白川?」
呼びかけてきたのは沢野だった。思いがけない相手に、咄嗟に返事ができない。
「…沢野」
「あ、知ってんだ俺のこと。初めて話すよな」
快活な笑顔。隣のクラスの中心人物で、水原の友人。俺が彼について知っているのはそれだけだ。
話しかけられるような接点はない。…水原以外には。
「今、帰り?一緒していいかな」
快活な笑顔で言う。穏やかなのに、有無を言わせぬ強さで。
「…わかった」
無言で通学路を歩きながら、不意に馬鹿馬鹿しくなる。
何やってんだ、俺。なんでこいつと、こうやって並んで歩いてるんだ。
こいつは、たぶん俺の、
「…葵に告ったって?」
油断したところを殴られて、一瞬息がとまりそうになる。
沢野は口元に薄い笑みを浮かべて正面を向いたままだ。
「水原に聞いたのか」
絶望的な気持ちで訊く。愉快な話題だったはずがない。彼がどんな顔で俺のことを伝えたのかと思うと、胸が塞がるようだった。
沢野はどんな顔で、その話を聞いたのだろう。
「まぁな。様子がおかしかったから、俺が聞き出した。口を割らせるために、大事な弁当が半分失くなったよ」
にやりと笑う顔にカッと頭に血が上る。
フラれて、避けられて、親密さを見せつけられる。なんなんだ、この状況は。
「マウント取るために声かけたのかよ」
「そんなんじゃねーよ。家が近所で、親同士が仲いいんだ。だからいわゆる幼なじみ。…様子がおかしいことくらい、顔見ればわかる」
「…結局マウントじゃねーか」
「違うって」
俺の苛立ちをかわすように、沢野は眉を下げて笑う。快活な、感じの良い、人気者の顔だ。水原が受け入れる、幼なじみの顔。
「俺には、いまさらそんなことできねーからな。むしろ羨ましい」
「…は?」
思わず真正面から沢野を見る。彼は笑いながら目を逸らした。
「今日、その話を聞きながら俺も言ってみたけど、てんでダメだ。あいつにあんな怯えた顔されたら、いつもの幼なじみに戻るしかなかった。…あの瞳で煽られた勢いでならいけるかなって、ちょっと自分に期待したけど」
「どういう意味だ」
「あいつ、手強いぞ。誰の感情も受け止めないって決めてるからな。こじ開けるならおまえはもちろん、あいつも無傷ではいられない。…泣くどころじゃすまない、きっと」
不穏な言葉を連ねる沢野の顔に、もう笑顔はない。強い瞳は、この状況を招いた俺に対する深い怒りに燃えている。
「…教えてくれよ。なんで水原は、あんなことを言うんだ?俺の好意が迷惑なのは仕方ないとして、そんなもんじゃない激しさだった。誰とも関わりたくないなんて」
沢野はこの話をするために、俺に声をかけたのだと思った。問いかけは自然にこぼれた。
「…あいつの親は厳しい人でさ。きょうだいもみんな優秀だったから、末っ子のあいつへの期待感は元から強かった。あいつは優秀なきょうだいをずっと見てきたから、いろんなことが自然と誰よりうまくできたからな」
なにもかも適当な俺なんかとは雲泥の差だ。いつもみんなのお手本になる、いい子の葵。
「本人もたぶん、それが当たり前になってたんだ。周りに求められることを、求められるようにこなせること。自分がどうしたいとか、そんなことは考えたこともなかったと思う」
でも一度、ぽつりと言ったことがある。たしか小学生の頃だ。
その年の発表会で、葵は伴奏のピアノを担当していた。でも本当は、彼はみんなと一緒に舞台に立ちたかったのだ。
おれもやりたかったな。
そう呟いた彼に、何もわかっていなかった俺は言った。じゃあ言えば良かったじゃん、ピアノじゃなくて劇に出たいって。
そしたら彼は言った。でもおれの役割は、いつも最初から決まってるから、と。
「どうせいつかは、そんなことに耐えられなくなったはずだ。でもそのタイミングが、あまりに最悪だったから」
彼は親の薦める志望校への受験に失敗したのだ。俺が知る限り、彼にとって初めての大きな失敗だった。
「…受験日、あいつは体調が悪かった。数日前からそうだったのに、ずっと我慢してたんだ。クラスでは他のやつらの悩みに付き合ったりもしてた。そんなことより、他の誰かのことより、自分を優先しなきゃいけなかったのに、あいつはいつもどおり『誰かの求めること』をこなしてしまった。そしてあいつがそんなふうに自分を削っているのを、誰も気づかなかった」
たかが受験だ。死ぬわけじゃない。最終的に進学したここだって、世間一般的には充分羨望の的になる学校でもある。
「でもあいつの親は、なんでそんなこともできないんだ、って言った。きょうだいは問題なくそこに受かったのに。誰よりも優秀だったおまえが、なんで期待に応えられないんだ、って」
それがどれほど彼を傷つけたか。彼が一番他者の慰めを必要とした時に、誰も彼に手を差し伸べなかった。
「クラスの奴らも遠巻きにするようになった。あいつの都合なんかお構いなしであんなに頼り切りだったのに、あいつが失敗したら誰も声をかけなくなった。…ふざけんなよ。今でも許せねぇ」
沢野の瞳に暗く激しい怒りが燃える。その顔に、水原が彼を信頼する理由がわかった気がした。幼なじみだからじゃない。沢野だけが、水原の傍にいたからだ。
「だからあいつは決めたんだ。もう誰とも関わらない。どうせ誰も、俺を都合のいい人形としてしか見てないことがわかったから。注目されることも、期待されることも、もうまっぴらだ、って」
怒りと諦めから出た言葉だったけれど、それよりも彼の心を捉えたのは恐怖だったのだと思う。自分が望む形でなくても、確かに自分の居場所だと思えていた場所。そこがあまりにも簡単に崩れ去ったことへの。
相手を信じて、再び否定されたら、きっと彼は自分を保つことができない。
「…怯えてただろ、おまえに告られる前」
静かに問われて、うなずく。それが不可解で問い詰めたのだ。…まさかこんな流れになるとは思わなかった。
「思い出すんだよ、きっと。おまえからの好意が、あの頃の周囲の期待を思い出させて、それを失くした恐怖につながるんだと思う。…おまえの視線を感じる度、居場所が失くなるような…自分の存在を否定されるような、そんな気分になるんじゃないかな」
「…なんだよそれ。無理すぎるだろ」
なぜ俺を避ける、という問いに、彼は俺が見るからだと言った。
彼を見るから。彼に好意を持つから。だから嫌だと。
「な、手強いだろ。おまえが好きだと言うほど、あいつは追い詰められる」
静かな沢野の声。沢野は受け入れることにしたのだ。この状況は変えられないと。そのなかで、彼を傷つけない立場にいることを選んだ。
それがたとえ、自分の望む関係でなくとも。彼を追い詰めるよりはマシだと考えたのだろう。
「…放っといてやってくれないか。あんなに青ざめた顔でいられるのは、俺が耐えられない。これ以上、あいつに関わらないでやってほしいんだ」
友人として当然の意見だった。俺が彼でもそう言うだろう。実際、俺が水原に好意を伝え続けるのは、誰も幸せにしないような気がする。
それでも、諦められない。
「できないって言ったら?」
「いちおう、理由を訊いてもいいか?」
「俺は水原を否定しない。確かに最初に想像してたキャラじゃなかったけど、別にそれでも構わない。実際、今のほうがずっとあいつに惹かれてる」
「おまえのエゴでしかないな」
「それはわかってる。でも、他人の好意を拒否し続けて生きていくなんて無理だ。…いつか誰かが破る殻なら、俺が破りたい」
自分の居場所は何度でも作れる。受け入れる相手を間違えなければ。
そしてそのためには、自分の望むように振る舞うことが絶対に必要だ。
「水原は今、俺に対しては本来の自分で接してるはずだ。怒りも拒否感も不快感も全部隠そうとしてない。だから、俺は絶対に手を引いちゃいけないんだ。あいつが自分のままで受け入れられるって、今は俺しか証明できないんだから」
沢野がその役を担わないなら。リスクごと、どうしてもその役を引き受けたい。
俺の返事に、沢野は眉を下げて苦く微笑った。予想済みの答えだったようだ。
「おまえがそう言うなら、俺は毎日葵に寄り添うだけだ。ストレスで疲れ切ったあいつを労って、ここにいれば大丈夫だと甘い言葉で安心させる。あいつに何も求めない、ただそこにいるだけの幼なじみとして」
彼がどちらを選ぶかわからない。むしろ、それで俺を選ぶことはまずあり得ないだろう。最終的に、俺というアクシデントを経て、ふたりの閉じた世界がより強固になるだけなのかもしれない。
それでも、俺の答えは変わらない。
「いい性格してるな、おまえ」
「…お互いにな」
沢野とふたりで笑い合う。どちらの好意も、ただのエゴだ。水原の苦悩を癒やすことにはならない。
それでもどうしても、諦めることができない。
