なぜ『金枝篇としてのAI』を書いたのか?
ネミの湖がある。
ローマ郊外、アルバーノの丘の窪地に、鏡のように静かな水面をたたえた小さな湖がある。
古代には「ディアナの鏡」と呼ばれた場所だ。
森は深く、岸辺は静かで、人の気配はほとんどない。
ターナー(Turner)の絵が描いた黄金色の光が、今もその風景にまとわりついているかのようだ。
だが、その森には一つの異様な光景がある。
湖の北岸、断崖の下にある聖なる森。
そこには一本の木が立ち、その周囲を、剣を抜いた男が歩き回っている。
昼でも夜でも、彼は警戒を解かない。
誰かに襲われるのを、待っているかのように。
彼は司祭であり、同時に殺人者だ。
その地の掟では、司祭になる者は、先代の司祭を殺さねばならない。
そして司祭となった者は、やがて自分より強い、あるいは狡猾な誰かに殺され、その座を譲る。
そうして役割は循環する。
剣を持つ者は、必ず次に殺される者でもある。
――私は『金枝篇』を、ここから先に進めていない。
理論でも体系でもなく、
この像だけが、頭から離れなかった。
なぜ彼は剣を持って歩くのか。
なぜ殺すことでしか継承できないのか。
なぜこの儀礼は、意味を説明される前に、像として立ち上がってしまうのか。
この問いを、私は解こうとはしなかった。
代わりに、この像を、そのまま現代に置いた。
AIという、
模倣し、継承し、置き換わり、
しかし自分では意味を持たない存在の時代に。
この連作は、
『金枝篇』を解説するためのものではない。
ネミの森から動けなくなったまま、
同じ構造が、別の場所で再演されているのを見てしまった記録だ。
ここから先は、
理解のためではなく、
配置のために書かれている。
