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春休みに宿題を出さない理由を疑ってみる

春休みは「宿題が出ない」という学校が多いと思います。
担任が変わるから。
学級が変わるから。
進学して、前の先生が点検できないから。
現場にいると、それが当たり前のように受け入れられています。

でも、少し立ち止まって考えてみると、ここに「宿題に対する考え方」が表れているように思うのです。

多くの場合、宿題は
出す→やらせる→点検する→評価する
という一連の流れで成立しています。
だからこそ、その流れが成立しない春休みには、宿題が出しにくくなる。
言い換えれば、宿題は「学ばせるもの」である以前に、「管理するもの」として捉えられている、ということです。

そして、その「管理」の意識が強くなりすぎたとき、少し気になる場面が生まれることもあります。
提出状況を一覧にして掲示したり、
未提出の子の名前を貼りだしてプレッシャーをかけたり、
評価の中で大きな減点要素として扱ったり。
そこまでいかなくても、「この子はやらない子」と無意識のうちにラベルを貼ってしまうことも、決して珍しくはありません。
もちろん、やるべきことに向き合わせたいという思いは、どの先生にもあります。
子どもたちの成長を願っているからこその関わりです。

ただ、その関わりが強くなりすぎたとき、宿題が「学びのためのもの」から、「できていないことを示すもの」に変わってしまう危うさも感じます。
そして、その感覚は、今の時代の子どもたちとの関係性の中では、少しずつ合わなくなってきているのかもしれません。

本来、宿題は何のためにあるのか。
それは、「子どもたちの学びを支えるためのもの」のはずです。
そう考えたとき、春休みのように自由な時間がたくさんある期間こそ、別の形の宿題があってもいいのではないかと思うのです。
例えば、
「ここが苦手だと思っている人は、少し復習してみてね」
「これに興味がある人は、こんなことを調べてみると面白いよ」
「新しい学年に向けて、こんな準備をしておくといいかもしれないね」
そんなふうに、「やりたいと思った人が手に取れる学び」を用意する。

全員に強制する必要はありません。
やらない子がいてもいいと思います。
ただ、やりたいと思っている子に何も提示しないまま、「どうせやらないから」と機会そのものを手渡さないのは、少し違うのではないでしょうか。
提出して、先生に見てもらいたい子は、新しい学年で「こんなことをやってきました」と見せればいい。
そうした自由さの中でこそ、「自分のために学ぶ」という感覚は育っていくのだと思います。

日頃の宿題も同じです。
すべてを回収し、すべてを点検し、すべてを評価することだけが宿題ではありません。
子どもが自分で選び、自分で取り組み、自分で意味づけていく余白を残すこともまた、大切な視点です。
先生が見ているからやる。
出さないといけないからやる。
そうした外側の動機づけだけでは、先生の管理が外れた瞬間に学びは止まってしまいます。

でも、
「やってみたい」「これならできそう」「ここを少し克服したい」
そんな内側からの動機が生まれてきたとき、学びは少しずつ自分のものになっていきます。

春休みに宿題が出ないことは、一見するとただの慣習のように見えます。
しかしその背景には、「宿題とは何か」という私たちの前提が、はっきりと表れています。
宿題は、管理のためのものなのか。
それとも、学びを支えるためのものなのか。
その問いを見つめ直すことが、日々の実践を少し変えていくきっかけになるのかもしれません。


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