【小説】『ココロ走る』第10話 走れない日々を乗り越えて
転倒してから、走ることができなくなった。
歩くことさえままならず、膝をかばいながら足を引きずるようにして移動した。
中村先生に紹介された近所の整形外科に通い、毎週リハビリを続ける。
リハビリ担当の山口先生は、ジムのインストラクターかと見間違えるようなマッチョな男性で、いつも明るい。
「まだ腫れてますね。でも、順調に回復してますよ。焦らないことが一番です」
「走るどころか、まだちゃんと歩けなくて……正直、不安です」
「不安になるのは当然です。でもね、歩けない日があっても、“また歩ける日”はきます」
「今日は大腿四頭筋を少し動かしていきましょうか」
「痛っ! まだちょっと動かすのいたいです」
「そうですか、まだ膝を動かしにくいですね。ゆっくりやりましょう!サポート任せてください」
彼は満面の笑みで、私の目を正面から見た。
「……また走れますか? 」
私は恐る恐る聞いてみた。
「大丈夫! 走りたいって気持ちがある限り」
「僕がついてますから! 」
リハビリを始めた最初のころは「また、あの悪夢が来るかも」と、心が壊れたあの日のことが頭をよぎった。
でも、違う。
もう、あの頃の自分とは違う。
主治医・中村先生の言葉が、心の奥にちゃんと残っている。
「焦らんでいい。充電期間やと思いなさい」
そう自分に言い聞かせながら、ランニングシューズを玄関の隅に置いた。
毎朝、そのシューズを横目に通勤する。
走れないけれど、腐らないようにした。
今は、今できることをしようと決めた。
⸻
緊急事態宣言が明けた3月の連休。2泊3日で名古屋へ旅行に出かけた。
初日は、かねてから行きたかった名古屋城や名古屋名物「ひつまぶし」を堪能し、夜はホテルで豪華なバイキングの予定だった。
「じゃらん」でホテルを予約するとき、萌花が「バイキングのあるホテル」を条件に検索してくれていた。
検温機を通って会場へ。「楽しみ〜!」と、萌花と綾がはしゃいでいる。
食事は美味しかったが、コロナ感染対策で料理を取りに行くたびにビニール手袋の着脱が必要だった。おかげで、私の食欲は少し減退した。
綾は無邪気にデザートのケーキまでむさぼり、萌花は何度も取りに行っては「また行くんかい」とツッコミたくなるほどだった。
……まぁ、これはこれでよしとしよう。
翌日は、まだ人の少ないテーマパーク「リトルワールド」へも足を運び、家族でゆっくり過ごした。
ここでは世界のさまざまな暮らしが再現されている。ヨーロッパ、東南アジア、そして沖縄の家も。
広大な敷地を足を引きずりながら歩くのは大変だったが、子どもたちと笑い合い、明美が私の手を引いてくれた。
“幸せだな”と思った。
二日目の夜は、露天風呂付きの旅館。
普段から長湯はしないが、貸切状態だった温泉にひとり浸かり、ゆっくりと時間を過ごした。
のぼせそうになってふと見上げた夜空は、満天の星。
大阪ではなかなか見られないその星が、ぼやけて見える。
それは、湯気のせいか、それとも少し涙ぐんでいたせいか。
「……やっぱり、走りたいな」
そう思った。
大阪城、三宅マラソン。
風の中を、もう一度——走りたい。
