【小説】『ココロ走る』第9話 走ることで得た世界と、立ち止まる勇気
大阪の町は、クリスマス一色に塗り替えられるはずだった。
しかし、再びコロナの緊急事態宣言が発表された。
社会の閉塞感に反して、会社は前に進もうとしている。コロナ禍にもかかわらず、営業成績は悪くなかった。
「なんか…変わりましたよね」
ある日、陽介にそう言われた。
「最近、顔つきが違うっていうか。生き生きしてますよね?」
ひとまわり以上も年齢差があるくせに偉そうに、と笑い飛ばしたが、本心ではうれしかった。
自分でも、変わったと思う。
前は、目の前の仕事をこなすことで精一杯だった。
今は、自分から何かを“起こしたい”と思っている。
体も軽くなった。
気づけば、会社の誰よりも走っているという、密かな誇りもあった。
この歳になって、新しい世界を手に入れた気がしていた。
大会が近づくにつれ、練習にも熱が入った。
一月の終わり、大阪城のいつものコースを走る。寒さが芯まで響く。
ランナーの数もまばらで、マスク姿の人がほとんどだった。感染対策のため、大会も小規模で実施されるらしい。
「マラソン大会まで、あと2週間か」
厚底のランニングシューズの感触を確かめながら、YouTubeで見たランニングフォームを思い出す。
地面からの反動をもらうという理論だ。
なるほど、悪くない。足取りも軽かった。
……までは、よかった。
小さな段差に気づくのが、ほんの一瞬遅れた。
右足が段差に引っかかり、バランスを崩した。体が前に投げ出され、右膝をアスファルトに強く打ちつけ、そのまま前に倒れた。
幸いとっさに手をつくことができたので、大切な相棒、Garminは無事だった。
膝を思いきり打った。
こんなに派手に転んだのは、何十年ぶりだろう。
転けた瞬間、いろんな想いが交錯した。
痛みは後回し。咄嗟に考えたのは、マラソン大会のことだった。
受け身が取れず、見事に右膝から転倒。
全体重70キロが、その一点にのしかかった。
下はアスファルトだが、石がごつごつと浮き出た、大阪城周辺独特の路面。
擦り傷、打ち身には、最悪の素材だった。
倒れながら、フィルムのコマ送りのように、マラソンにかけた日々の映像が蘇った。
倒れたまま、しばらく動けなかった。
近くを歩いていた人が駆け寄ってくれた。
ゆっくりと立ち上がったが、膝に鈍い痛みが残った。
足を引きずりながら、家まで帰る。いつもの倍以上の時間がかかった。
歩けるのだから、骨は折れていない——そう自分に言い聞かせながら。
家に着くと、明美が玄関先で待っていた。
「心配したよ。連絡もないし……」
「えっ、どうしたの?膝から血、出てる……」
「はは、段差につまずいて派手にやってもうたわ」
「大会直前に何してるんやろ……。中村先生とこ行ってくる」
病院では、骨に異常はなかったものの、ひどい打撲と擦り傷。
包帯は大げさだと断った。
「マラソン?いつからしてるんや。すごい回復やなぁ」
「先生が背中押してくれたから、走り始めました。それで、出ようかと」
「そら、診察のたびに元気になるわけやな」
「けど、無理はせんほうがええな。足が万全やないし、完治まで少し時間がかかる」
「骨は折れてないですよね? それなら数日間湿布貼ったりしたら……」
私の次の言葉を遮るように中村先生は言った。
「焦らんでいい。充電期間やと思い。まだまだ先は長い長い」
「ここまできたのに……」
久しぶりに、心が沈んだ。
それでも、涙は出なかった。
落ち込むだけで終わらせたくなかった。
自分が変われたのは、大会じゃない。
“走ってきた日々”のほうだった。
それを、忘れたくなかった。
この世界は、まだ終わっていない。
