【小説】『ココロ走る』第3話|歩き始める
数日後、まだフラフラするので、かかりつけの病院へ行った。促されるままに、血圧の機械の前へ。
そして、その日は測った血圧は「197—112」を示していた。若い看護師の手が一瞬止まり、隣で医者が静かにため息をついた。
「この状態が続くのは、体に負担ですね」
「ストレスを何とかしないとね」
…しかし、現状解決の方法は全く見えない。
かかりつけの医者は、静かにこう言った。
「間違いなく、パニック障害ですね」
その日から、大量の薬を飲むのが日常になった。
効いているのかいないのかもわからないまま、ただ日々をやり過ごすしかなかった。
処方されたのは、血圧を下げる薬、不安を和らげる安定剤、そして睡眠薬。
それでも夜になると、心臓がバクバクと暴れ出す。
目を閉じても、浮かぶのは会社のこと、こじれた人間関係、止まった社会だった。
———
そんなとき、知り合いが紹介してくれたのが、
中村先生という町医者だった。
古いビルの1階にある、ひっそりとした内科医院。
「中村内科」の看板と、ゆるやかな笑顔の年配の
医師。
診察室には、不思議と落ち着く空気が流れていた。
先生は、静かに話を聞いてくれた。
誰にも言えなかったことを、初めて口にした気がする。会社のこと、コロナのこと、人間関係のことまで……。中村先生は、ゆっくり焦らさず、私の話に耳を傾けてくれた。
「……大分コロナ禍で苦労してますね。抱えすぎも良くない。無理もダメです」
「運動なんかしてみたらどうですか?歩くのはいいですよ。朝公園とかを歩いて、お日様を浴びる。」
「歩く……ですか? 」と私が不思議そうに聞くと。
「うん、歩くのは体にも心にもいい。」と中村先生は答えた。
「ただし、全速力で走るのは控えてくださいよ。重いものを持つのもです」
「ゆっくりでいいから歩く。これを始めてみましょう」
そう言って、優しく笑った。
翌朝、まだ気持ちは晴れていなかったけれど、
とにかく言われた通りに歩いてみようと思った。
向かったのは大阪城公園。
2020年4月、緊急事態宣言下の朝。
あの広い園内には、誰ひとりいなかった。
まるで世界に自分だけが取り残されたような
景色の中を、一人ただひたすら一時間歩いた。
中村先生の言葉を、胸の中で繰り返しながら。
ーーーゆっくり、歩く
鳥の鳴き声、風に揺れる木の葉の音、朝の匂い。
遠くに見える天守閣も、どこかぼんやりとしていた。
歩いていたら、急に涙が出て止まらなかった。
ただ「歩く」ということが、こんなにも人間的で、
こんなにも救いになるのだと、初めて知った。
この日から、歩き続けた。
