【統合失調症】罪悪感との折り合いのつけ方
統合失調症の当事者として
病名という「救い」
私が「統合失調症」と診断されたとき、感じたのは絶望ではなく、不思議なほどの安堵でした。
それまで私の身に起きていた出来事は、嵐のようで、説明のつかない恐怖に満ちていました。
けれど「病気です」と言われた瞬間、それらは得体の知れない怪物ではなくなったのです。
名前がついたことで、ようやく長く止めていた息をつけたような気がしました。
もちろん、生涯付き合っていく可能性のある病気です。
それでも、「原因がある」と知れたことは、私にとって確かな救いでした。
けれど、本当の苦しみは、症状が落ち着き、現実に戻り始めたころにやってきました。
混乱の中で見ていた世界
病状が強かった頃、私の世界は「現実」とは違う感覚に強く結びついていました。
他人の思念が流れ込んでくるように感じたり、特定の思想が自分を攻撃しているように思えたり。身体が急に重くなり、立ち上がれなくなることもありました。
当時の私は、その苦しみの原因を、ある特定の人に結びつけてしまいました。SNS上の怒りがすべて自分に向けられていると感じ、追い詰められ、混乱の中で「謝罪してほしい」という手紙を送ってしまったのです。
今振り返れば、病気に強く影響されていた状態でした。それでも、結果として相手を戸惑わせ、傷つけてしまったことは事実です。
妄想に支配されていたあの頃、私は何度も自分の命を絶とうとしました。世界が内側から崩れていくような日々でした。
回復期に訪れた「静かな罪悪感」
薬を飲み、少しずつ現実感が戻ってきたころ、今度は別の苦しみが始まりました。
それは恐怖ではなく、静かな罪悪感でした。
「あのとき、自分は何をしてしまったのだろう」
最初は、きちんと謝れば分かってもらえるのではないか、という期待もありました。けれど実際に相手の方と向き合ったとき、そこにあったのは厳しい沈黙でした。
その瞬間に悟りました。
もう関わらないこと、距離を置くこと。
それが今の自分にできる、せめてもの誠実さなのだと。
病気が背景にあったとはいえ、傷つけてしまった事実が消えるわけではありません。その重みは、今も私の中に残っています。
再生への小さな歩み
再発を繰り返していた私を、友人が厳しく叱ってくれたことがありました。その出来事をきっかけに、私は自分の弱さと向き合う時間を持つようになりました。
誰に褒められるわけでもなく、時には理解されないこともありましたが、私は絵を描き、デザインを作り続けました。
創作している時間だけは、ばらばらになりそうな自分をつなぎ止めてくれました。
罪悪感との折り合いは、努力だけでどうにかなるものではありませんでした。時間が必要でした。周囲の支えに助けられながら、少しずつ、傷がかさぶたになるのを待つしかありませんでした。
今はこう思っています。
自分が自分らしく、穏やかに生きること。
二度と誰かの境界線を越えないよう、自分を律していくこと。
それが、遠くにいる相手に対して、今の私にできる責任の取り方なのかもしれない、と。
おわりに
今でも、ふとした瞬間に当時の記憶がよみがえり、胸が締めつけられることがあります。
その痛みは、私が一度、誰かの境界線を踏み越えてしまった証なのだと思います。無理に消そうとするのではなく、その痛みごと抱えて生きていくしかないのだと感じています。
許されることをゴールにするのではなく、自分を整え続けること。
時間はかかりますが、痛みと共に歩む道は、きっとあるはずです。
もし、かつての私と同じように罪悪感の淵にいる方がいたとしたら。
「あなたがすべて悪いわけではない」という祈りのような何かが、どこかで誰かの心に、静かに届くことを願っています。
失ったものは大きく、傷跡も消えません。
それでも私は、この痛みとともに、自分の人生を丁寧に進めていこうと思います。
