藤井風をまだ深く知らなかった私が、「罪の香り」だけを聴けた理由
前回の記事を書いていて、ふと気づいたことがありました。
藤井風さんをまだ“深く意識していなかった頃”、
なぜかある一曲だけは、すっと聴けていたということ。
世間で評判の曲は胸が苦しくて避けていたのに、
その曲だけは「この音楽面白い」って聴けた。
今思えば、それが私にとっての最初の入口でした。
そんな話を、ここに書き残しておきたいと思います。
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■ なぜ私はその曲だけを、最初から聴くことができたのか
藤井風さんの音楽をようやく聴けるようになって、
私はひとつの不思議に気づきました。
かつて、
他の曲は心にまっすぐ届きすぎて、
まだ脆かった私はどうしても受け止めきれませんでした。
ある曲は優しさが深すぎて涙が出てしまい、
ある曲は人生を問われるようで胸が苦しくなり、
また別の曲は、自分を奮い立たせる力が強すぎて怖かった。
けれど、
ただ一曲だけ、私はずっと前から聴けていた歌がありました。
「罪の香り」。
理由が長らく分からなかったのですが、
今なら静かに理解できます。
あの曲は、あの頃の私の“心の形”と
驚くほど正確に重なっていたのです。
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■ 「まだ好きだった自分」と「もう終わらせたい自分」のあいだで生きていた
私は、
ある人を愛して、結婚して、
そして愛した人の心ない言葉で深く傷つきながら、生きていました。
相手への情熱は本物で、
それを手放すのは簡単ではありませんでした。
「まだ好きでいた(いたい)自分」と
「このままでは私が壊れてしまう」という自分。
その両方が同時に存在していたのです。
「罪の香り」は、その矛盾のまま生きている心に
そっと寄り添うような曲でした。
“惹かれてはいけないものに惹かれてしまう自分。”
“分かっているのに距離を置けない自分。”
そしてそのことを、
どこか苦笑いしながら見つめているような空気。
私はあの曲を聴くたび、
「本当に、まいったな。バカな自分」と
少し笑うことができました。
涙ではなく、苦笑い。
それが私を保つための、やわらかい小さな解放でした。
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■ 私の人生は、いつも“両極の気持ち”が共存していた
私は長いあいだ、
矛盾を抱えたまま生きていました。
全てを終わりにして消えてしまいたい自分と、
ここで生きなければいけない自分。
誰かを守りたい自分と、
自分を守ってもらいたい自分。
その両方がいつも同時に存在して、
どちらにも嘘がなかった。
選べないから、そのまま抱えて生きるしかなかった。
「罪の香り」は、
そんな人間の“曖昧さ”を否定しない曲でした。
「どちらか一つに決めなくていいよ」
「矛盾のままでも、人は前に進めるよ」
そんなふうに、
少し距離を置きながら隣に座ってくれるような安心感がありました。
他の曲では涙が出てしまうのに、
あの曲だけは“自分を保ったまま聴けた”理由が、今は分かります。
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■ あの曲は、壊れずに残っていた“最後の私”に触れた
振り返れば、
私はずっと、自分の苦しさを「大したことはない」と思い込もうとしていました。
でも本当は、
ぎりぎりのところで生きていました。
それでも完全には壊れなかった。
弱さを苦笑いできるくらいの、
かすかな強さが残っていた。
そしてその強さを最初に拾い上げてくれたのが、
数ある曲の中で、
「罪の香り」だったのだと思います。
他の曲は私の心が追いつくまで、
静かに待っていてくれただけでした。
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■ 結びに
私が「罪の香り」だけを聴けた理由は、
あの曲が“当時の私の物語そのもの”だったからです。
未練と前進。
愚かさとやさしさ。
悲しみと苦笑い。
その全部を抱えたままでも、
人は生きられる。
人は前に進める。
あの曲は、
そのことを私にそっと教えてくれた気がします。
そして今の私は、
ようやく他の曲も聴けるようになりました。
過去の自分を責めずに見つめられるようになったから。
そういえば——
あの日、「罪の香り」を“選んだ”わけではありませんでした。
Spotifyがふいに流してきたその曲の、
煽るようなブラスのイントロに「ん?」と耳が止まり、
気だるい歌い出しに惹かれ、
「おっと罪の香り、抜き足差し足忍び足」
昭和か?と思わせる懐かしい言葉の羅列に思わずつられ笑い。
気づくと、
力強い叫びのようなサビまで一気に聴いていました。
そして、アウトロで煽るブラスで一気に締めて、断ち切るように終わった曲。
「何これ?」 。
わからないけど、もう一度聞いていみたい。
繰り返しくり返して、お気に入りにポチりしました。
あの日、偶然みたいに流れてきたあの曲。
楽曲と歌詞の面白さに、惹かれて何度も何度も聴いているうちに、
少しずつ自分の心と向き合っていきました。
あれは、私にとってのターニングポイントでした。
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