"後悔”なんて、存在しない
私は過去の選択や行動をよく後悔する人間でした。雪だるま式に頭の中でどんどん大きくし、自律神経が狂い、精神を病み、パニック障害を発症するに至りました。
しかし、”後悔は存在しない”という認識に至ってからは心が安定し、過去を悔いるのではなく”今”を生きられるようになりました。少しでも何かのお役に立てばと思い、ここに記させていただきます。
はじめに
ここで言及する反省と後悔は以下の通りです。
”反省”:自分のよくなかった点を認めて改めようと考えること
”後悔”:自分のしてしまったことをあとになって感情的に悔いること
後悔はそもそも存在しない
「後悔をするな」といった言葉を良く耳にすることがありますが、まず始めにお伝えしたいことは後悔はする、しないではなく、そもそも存在しないということです。
反省は存在し、実際にどういった点が良くなかったのかを考え、感情論ではなく方法論として改善していくことであり、適度に実施することが大切だと思います。では、なぜ後悔は存在しないのでしょうか。
選択の余地がなかったら後悔はしない
私は、生来もっとこんな能力や身体等が欲しかったと思う時、それを持っていないことを”後悔”したことはありません。そのことを”悲嘆”したり”残念”に思うことはありましたが、それは雪だるま式に「なぜあの時。。」と、頭の中でどんどん膨らませていくことではありませんでした。
「ああしていれば」と考えることは、起こらなかったことを想像していくことでもあるため、悔いの思考が止まりません。止まらないどころか、どんどん大きくなっていきます。
しかし元々自分に備わっている身体的な特徴や能力など、いわゆる選択の余地がなかったことに関しては私は後悔をしないのだと気付きました。
例えば、私には100mを5秒で走る能力は無く、恐らくいくら練習しても難しいと思います。それは元々自分に備わっていない能力です。そのため、本番で5秒以内で走れなかったとしても、5秒以内で走れる選択はそもそもなかった、だからその実力を残念に思うことはあってもその結果に”後悔”はしないと思ったのです。
後悔とは、他の選択ができたはずという”勘違い”であり、自分への”過大評価”
後悔とは、どうしてあんな選択をしてしまったのか、どうしてもっとできなかったんだろうと悔やんでいる状態だと思います。それは、一言でいうと大きな”勘違い”であったと思います。
私は、まるで当時の自分には別の道を選ぶ能力や余裕や体力など、様々なものが備わっていたと”自分を過大評価”していました。そこから後悔が生まれていたのです。私はあくまで、その”時点”においては他の選択ができる能力を総合的に持ち合わせていなかっただけ、要するに選択の余地が無かったのです。
その時の自分にはできたのではと自分を過大評価することはとても辛いことだと思います。できたのにできなかったと考えることはとても悔しいことであり、勿体ないことだからです。
練習では100mを5秒で走れていたのに本番では10秒という結果だった時、「どうして練習ではできたのに、、」と悔やむのだと思います。しかしそれは実は、5秒で走るスキルはあったかもしれませんが、少なくとも本番時点では10秒というタイムが自分の能力だったのです。
後悔は存在しない→自然と”今”を生きられる
その時点の”能力”が足りなかったことを認識することで、後悔ばかりして過去に生きていたことがなくなり、その能力が無いことを残念に思い反省しながら、自然と”今を生きる"ことができるようになりました。
ではここで少し、私が後悔していた具体的なケースをご紹介したいと思います。
後悔した例①
大切な資料作成を任され時間をかけて頑張って仕上げた。内容はミスがなかったのに表紙の日付を間違えて客先・上司から強く叱責を受けた。
→この時の私は、「どうして日付を見直せなかったのだろう」「内容は完璧だったのにケアレスミスをしてしまった」という後悔の念を抱いていました。
それは、自分が日付を正しく把握して資料に記載する”能力”があるのに、その能力を発揮できなかったと考えていたからでした。
しかし実は私は、その時に日付を正しく把握して資料に反映する”技術”は持ち合わせていたかもしれませんが、資料を作成したまさにその”時点”において、総合的にその”能力”がなかったのです。私は、”ケアレスミス”を犯したのではなく、それは紛れもない私の実力だったのです。
私は私が持っていた技術を全て使うことはできなかったかもしれませんが、その時点ではベストを尽くしました。持ち合わせている技術を総動員しようとした結果が、資料という形で出てきたアウトプット=私の能力だったのです。
後悔した例②
大切な人を亡くしてしまった時に、「どうしてもっと大切にできなかったんだろう」「あの日、素直になれてたら」と、後悔の念が止まらなかった。
→とても辛い気持ちでした。後悔してももう大切な人は戻ってこない。日々の仕事などに追われて、本当に大事なものが見えていなかった。そう何度も何度も悔やみました。
しかし、その後悔も自分の過大評価から生まれていること気付きました。
大切な人が生きていたその時点の私の生活状況、体力、知識、メンタリティ、全ての総合的な状況から、そう生きる選択をしていたのです。その能力がなかったことはとても残念なことですが、それ以外の選択ができる能力が無かったのです。
そう思うようになってから、大切な人がいない寂しさや残念な気持ちを抱えながらも、後悔ではなく、今この瞬間に大切にしたい人を大切にしようと思えるようになりました。まさに、今この瞬間を生きれるようになりました。
あの時に戻れたなら
「あの時に戻れたならあんなことしなかったのに」という気持ちは、多くの方が一度は経験したことがあるのではないでしょうか。
あの時に戻る方法には、大きく二つあると思っています。
一つ目は、映画「Back to the Future」のように今の私たちがタイムマシーンでその時点に戻ること(もしくは今の記憶だけ持ってその時点に戻ること)。ただ時を戻すだけでなく、失敗したことを知った自分が当時に戻るわけですから、確かに別の選択ができるかもしれません。しかし当時の状況をそのまま再現できているのは、二つ目の方法である、ただ時を巻き戻すこと。
一つ目について何が起こるかはぜひ映画を見ていただければと思いますが、私たちが勘違いしがちなのが二つ目です。
もし私たちがただ時を巻き戻したのならば、私たちは当然、また同じ選択やミスを必ずするということです。それはそのはずです。何回時を戻しても、私たちはその時、その時の能力の限りを尽くして生きていたのですから。
「私はベストを尽くして生きていなかった、だからあの時に戻りたい」という方がいるかもしれません。しかし私たちが例え一日ダラダラしてしまったとしても、それはその時に私たちが持ち合わせている全ての能力を以てしてダラダラするという"選択"をしています。何回時間を巻き戻しても同じことを繰り返すということ自体が、"技術"は持っていてもそれを発揮する"能力"が無かったという何よりの証拠です。
“ミス”は過去からの"連鎖"である
よく思い返してみると私が日付を間違えたことは、単なるその一瞬のケアレスミスではなく、過去からの色んな要素の連鎖や積み重ねで起きていたことが分かりました。
睡眠不足が続いていた、忙しくて資料を寝かせて見返す余裕が無かった、上司や客先からのプレッシャーがあった、細部にこだわり体裁や全体が見れていなかった、前から日付を軽視していた、、このような過去からの複合的な要素が重なり合って、その日付を正しく記載する能力がなかったのです。
その資料作成を依頼されてから提出するまでの特定期間の”準備不足”と捉えがちですが、私たちが生まれてきてそこに至るまでの全ての”準備”の連鎖=その時の能力が、良い悪いではなくその一瞬に集約されて表れているだけなのです。
"後悔を受け入れる強さ"を持つ必要はない
よく「後悔やその結果を受け入れましょう」という言葉を耳にしますが、私にはこの言葉は合いませんでした。存在する後悔を受け入れるほど強くなれなかったからです。ミスをしたというネガティブな意味を持った結果を受け入れるのは、とても苦しいことだと思います。
しかし、そもそもその後悔自体が存在しないという考えに至ってから、後悔を受け入れる強さを持つ必要も無くなりました。そうすると、ミスを実力であったと捉えられ、結果を受け入れる必要もなく、ただ私の中にある能力であると思えるようになりました。
そう思うに至ってからは、心がとても軽く穏やかになりました。
さいごに
ここに述べてきたことは、「このように思いましょう」という感情論ではく、後悔は存在しないという客観的な事実であり論理だと思います。
大切なことは、その時の自分にはそれを選択・行動できる能力が無かった、もしくはその選択・行動をしたのは私たちの紛れもない能力であった、ありのままの私たち自身であったという認識をすることにあります。
私たちの行動によりネガティブなことが起きた時、”できるのにできなかった”ことを悔いるのではなく、その時の私たちの”能力”に悲しみながらもその実力の足りなさに悔しい気持ちを覚えれば、そこから自然と"反省"が生まれ"今"を生きられると思います。過去から脱却し今を生きたその先にこそ、新たな未来が広がっていくと信じてやみません。
