エッセイ「夏には『う』でも食べりゃいい」
この時期になるとね、居酒屋へ入ってまず頼んでしまうのが、枝豆にもろきゅう、それに冷やしトマトなんていう夏野菜なんだよ。
しかもね、ビアガーデンにでも行こうものなら、この三点は申し合わせたようにテーブルの上に勢揃いしてしまう。冷静に考えればね、そんなところの野菜なんて採れたて新鮮というわけでもないし、取り立てて値段が安いわけでもない。せいぜい提供スピードが早いことくらいが取り柄なのに、なぜか注文してしまう。追加でナスの浅漬けなんかも欲しくなったりね。
これといった理由もないのに手が出てしまうのはね、私たちが「夏野菜」という言葉の中に、理屈抜きの「旬」を感じ取ってしまうからだろう。
同じように、夏になると無性に食べたくなるのが「うなぎ」だね。だけど、うなぎなんてものは、今の時代なら一年を通して流通しているし、天然ものに限って言えば、本当に脂が乗って美味くなる旬というのは、産卵を控えて冬眠に入る前、まさに「秋から冬」にかけてなんです。
そもそも「土用の丑の日」だって、うなぎが定着する前は「う」の付く食べ物を食べれば良いとされていて、うどんや瓜でも食っていれば十分事足りていたわけだ。栄養面で言ったって、現代の豊かな食生活を続けていれば、うなぎを食べたからといって飛び抜けて精がつくなんてこともない。
それでもね、わざわざ夏にうなぎを有り難がって食べる。この「旬のものを食べて季節を喜びたい」という、日本人のいじらしいまでのこだわりと、食の中に四季を見出そうとする気取らない粋は、日本人らしくて好きなんだ。
建物ごと何年も燻されてきたような店に入ってね、重箱の蓋を開ける瞬間はいつだって胸が高鳴るものですよ。職人が炭火の上で、江戸の昔とは違って一度蒸してから千切れんばかりの柔らかな身を返し、甘辛いタレをつけて香ばしく焼き上げる。タレと脂が炭に落ちて、その煙がまたうなぎを包むんだ。炭の薫香とタレの焦げた匂いが漂ううな重に粉山椒をひと振りしてね、そろりそろりと箸を入れる。なぜか蒲焼きというのものは、うやうやしく箸を入れてしまうもんだ。皮目はしっとり香ばしく、その身は口の中でとろけるように解けて、脂の甘みが広がる。タレが染みた白いご飯と一緒に食べ始めれば、行儀もへったくれもあるもんか。こんな美味しいものを食べて、やれ焼き加減がどうだのと通ぶった文句でも言おうものならバチが当たるね。
ちなみに、江戸の初めあたりに町人たちがこぞって食べたうなぎというのはね、今のような上品な蒲焼じゃなかったね。ぶつ切りにしたうなぎを串に刺し、蒸さずにそのまま焼いて大雑把に味噌を塗っただけの代物で、屋台で手軽に頬張る、まあファストフードだったんです。
そう考えるとね、うなぎに対する情熱は昔から相当なものですよ。世界を見渡せば、イギリスではぶつ切りにして煮た「ゼリー寄せ」にされて味を酷評されていたり、ユダヤ教では鱗のない不浄な魚として食べることを禁じられていたりして散々な扱われ方だ。
そんな魚をね、泥を吐かせて、開き、蒸し、絶妙なタレを開発してまで極上の蒲焼へと昇華させてしまった。どこまでも美味しさを追求するこの食への貪欲さ。これもまた、実に見事な日本人らしさじゃないか。
了
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