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エッセイ「夏を始めました」

    夏場にちょっと歩き慣れない町を歩いているとね、つい無意識に探しているものがある。じりじりと照りつける太陽の下、ふと街角の中華屋の店先に貼られた「冷やし中華始めました」という、あの藍色の文字なんだ。

    あの看板を見た瞬間にね、それまで暑さで少し参っていた身体が、急にしゃきっと目を覚ますような感覚になるんだよ。夏の風物詩なんて言葉で片付けるにはもったいないくらい、あの皿にはね、夏の暑さを乗り切るための先人たちの知恵がぎゅっと詰まっている。

​ 目の前に運ばれてきた一皿を眺めてみるとね、まずその美しさに胸が踊るじゃないか。ガラスの器の上に、黄色い錦糸卵、緑のきゅうり、鮮やかな赤のトマト、そしてピンクのハムが放射状に美しく並んでいる。この色彩の配置はね、単に綺麗だからという理由だけじゃないんだよ。

    色彩心理の面からも、赤や緑、黄色といった鮮やかな原色のコントラストは、暑さでやられがちな食欲を本能的に刺激する役割を持っている。皿の上に小さな花が咲いたようなあの景色を見るだけで、不思議と「よし、食べよう」という元気が湧いてくるんだよ。

    冷やし中華はタレが心憎い。麺を箸で手繰るために皿に顔を寄せただけでツンとした、いい塩梅の酸っぱさが鼻をくすぐって、喉がゴクリと鳴る。そのままズルズルッと音を立てて麺をすすれば、しょっぱさ控えめのタレが麺と絡み合って、箸が追いつかない速さで食べてしまう。こうして、さらに食欲に火がついてしまうんです。

​ そしてね、冷やし中華の具材がなぜ一様に「細い千切り」になっているのかなんだけど、そこを深く考えてみると実に面白い。あれはね、かんすいを含んだ独特のコシと喉越しを持つ中華麺と、箸で持ち上げたときに上手い具合に重ねて口に運べる計算なんだ。もし具材がゴロゴロと大きかったら、麺の流れるような喉越しが途中で遮られてしまうでしょう。すべての具材が麺と同じ細さで寄り添っているからこそ、ズズッとすすった瞬間に、麺のツルツルとした食感ときゅうりのシャキシャキ感、卵のふんわりとした柔らかさが口の中で同時に弾ける。この計算された一体感こそが、冷やし中華の喉越しを格段に涼しく仕立て上げている秘密なんです。

​ それぞれの具材にもね、ちゃんと意味がある。例えば、瑞々しいきゅうりはね、成分のほとんどが水分で、カリウムが豊富に含まれている。身体の中にこもった余分な熱を外へ逃がしてくれる、天然の冷却装置みたいなものだ。そこに組み合わされるハムや錦糸卵は、冷たい麺類を食べる時にどうしても不足しがちな良質なタンパク質を補う。そして全体の中心に鎮座する紅生姜のピリッとした辛みが、全体の味を退屈させずに引き締めてくれるんだ。どれ一つとして、ただの飾りで載っている具材なんてない。

​ 何より、私たちの身体を芯から涼しく、心地よくしてくれる最大の功労者は、あの醤油ベースの甘酢ダレに含まれる「お酢」ですよ。人間はね、暑さで疲労がたまると胃腸の働きも鈍くなる。それをお酢に含まれる成分が唾液や胃液の分泌を促して消化を助けてくれる働きがあるんです。つまり、冷やし中華を食べたときに感じるあの「すっきりとした爽快感」は、冷たさという物理的な刺激だけじゃありませんよ。お酢の成分が身体の内側に働きかけて、本能的に「身体が潤った」と感知するからこそ、私たちはあれほど深い涼を感じることができるんだよ。

​ 麺をきれいに平らげたあと、器の底に残った少し酸味のあるタレをね、最後に皿ごと持ち上げてすすってみる。口の中に広がるお酢の爽やかな余韻と、よく冷えたお冷で喉を潤す瞬間。さっきまであれほど鬱陶しかったはずの夏の暑さがね、どこか心地いい季節の背景のように思えてくるから不思議なものだ。

    一皿の冷やし中華に黙々と向き合うこと。それもまた日本の夏を粋に愉しむための芝居みたいなものですよ。子供にはまだ分からない、大人の大切な夏の儀式なんていうのも遊び心があっていいじゃないですか。


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山下静希 自分の記事の価値を知りたいと思っています。 いただいたチップで一杯の美味しいコーヒーを飲ませていただきますので、応援よろしくお願いします。