『Grandpa』オーダー2023 #4(オーダー第4話)
※これはフィクションの小説です。登場人物や事件はすべて架空であり、実在の人物・団体とは関係ありません。
洋一は小学校からの帰路を、少し遠回りだけれど、川沿いの道を選ぶ。下流にはかつて暮らした街があるし、川に架かる鉄道橋はここから出ていける電車が通っていく。それを目にするのは慰めになる。
昨年から共働きの両親が、二人とも家に居れなくなった。父親は元から転勤の多い商社マンだったけれど、服飾デザイナーの母親までもが転勤することになり、小学五年生の洋一が一人暮らしをするわけにもいかず、父の実家で暮らすことになってしまった。独り身の叔母と祖父、三人での暮らし。祖父は認知症で寝たきりだから、叔母はほとんどつきっきり。洋一は結局ここでもほとんど一人で過ごしているような有様。だが、そこは苦にしてはいない。叔母は優しい人だし、祖父も頭がはっきりしている時は大好きだった。面白くはないけど、洋一を喜ばせようと冗談ばかり言っていた。そんな祖父を甲斐甲斐しく世話する叔母には好意しか抱けない。
問題なのは学校だ。今まで五年間通い、仲良くなった友達と別れるのは、苦しいことだった。気になっている子もいた。なのに全てが洋一の前から姿を消してしまった。今の学校も悪いところではない。けれど、すでに五年間かそれ以上の絆を育んできた級友たちの中にいれば、どうしたって隔たりを感じてしまうし、それはすぐに寂しさへと結びつく。
いつも、ついつい河川敷に降りてしまう。今日もそうだった。川の流れを眺め、鉄橋を渡る電車を幾つも見送る。秋の日が釣瓶落しに沈みかけ、暗くなりかけてやっと、洋一は重い腰をあげた。
川沿いをとぼとぼと一人で商店街へと向かう。どこかで同年代の子たちが笑い声を上げているのが聞こえる。級友なのかもしれないが、名前すら覚えきれていないのだから、声で見分けられるはずもない。商店街側には電飾のパが抜け落ちたパチンコ屋がある。それを指差し「見れや洋一、見れや洋一」と心底楽しそうに笑った若い頃の祖父は、きっともう帰ってこない。そこで祖父が取ってくれた景品の戦隊ヒーローのおもちゃは、母に捨てられてしまって、もう無い。商店街はもと居た街と違って活気がある。シャッター街のほうがいい。大型スーパーがないから、洋一の好きなお菓子の銘柄がここでは手に入らない。商店街の先には駐在所がある。でも、以前の自宅の近くにあった、いつも無人の交番とは随分違う。警官と婦警の夫婦がいつも仲良く街を見守っていて、通るたびに「洋一くん、お帰りー」なんて笑顔で声をかけてくるから、こっちも返さないといけなくて辛い。今日も辛かった。
住宅街に入ると夜に追いつかれた。一軒一軒が広くて古くて静かで暗い。懐かしい自宅のマンションなんてここにはない。見慣れた家がここにはない。そんな家の一つが今の自宅なのだといつまでたっても実感できない。寒い夢のような気がしてくる。いや、本当にそうなら、気持ちよく笑えるのに。
玄関は引き戸で滑りが悪くて開けづらい。力を込めると格子の木枠と曇り硝子がガチャガチャ鳴って怒り出す。入らせたくないのだろうけど、こっちだって好きで入りたいわけじゃない。
苦労して屋内に入ると、薬と洗濯石鹸の匂いが混じった病院の空気に包まれた。
祖父が寝たきりでいる部屋から空気を割って、
「お帰りー、今日は学校どうだった?」
届いた叔母の声は、疲労を明るい調子で精一杯に隠している。こっちも隠すしか選択肢なんてないじゃない。
「すごく楽しかったよ」
明るく応える度に、何かが失われていく気がする。
祖父の部屋に入ると、和室に不似合いな医療用ベッドで祖父が、にこやかに、口をもごもごさせている。
ベッドサイドのスツールに腰掛けた叔母が、目元に隈を浮かせて、にこやかに、匙で御粥を祖父の口に運んでいる。
祖父は洋一を見ると濁った瞳を輝かせた。
「純一。腹減ったろ。わしも減った。回転レストラン連れてったろかい」
食べながら喋るから、叔母が運んだ御粥が布団に飛び散った。
純一は父だ。洋一は洋一だ。
そして祖父は祖父だが、たぶん、もう祖父じゃない。
「あらあら、お父さんったら」
叔母が笑いながら丁寧に、布巾で御粥を拭い取っていく。
でも、完全には拭き取れない。もう元には戻らない。
明日も洗濯機は掛け布団で占められるのだろう。叔母の衣服も洋一の衣服も入らない。何度も何度も洗濯して、全てがどんどん摩耗する。それをひたすら繰り返す。毎日毎日繰り返す。
「洋ちゃん、ごめんね。今日も御粥しか作れてなくて、好きなものを出前頼んでくれる?」
謝らないで叔母さん、お願いだから。
とはいえ出前はうんざりだった。好きなものと言われても選択肢はそれほどない。駅前の中華飯店か住宅街の外れの蕎麦屋しか出前はしてくれないから。洋一は炒飯が好きだが駅前中華の炒飯だけは嫌いだ。油でギトギトだし御飯がベチャっとしている。ほかのメニューもだいたい美味しくはない。叔母さんの料理のほうが数段おいしい。もう久しく食べていないけれど。蕎麦屋は本当に蕎麦しかない。カツ丼天丼おいてない。こだわりがあるらしく蕎麦そのものは美味しいが、毎日そればかりじゃ飽き飽きだ。カップ麺でも食べたほうが幾分マシだ。
「カップ麺食べてもいい?」
叔母はちょっとだけ眉をひそめて、あまり体に良くないんだけど、小声でつぶやいたが、
「ええ、いいわよ」
と微笑んだ。
居間は元のマンションの倍は広い。そのせいで余計に一人の事実が重く感じる。すするカップ麺はお気に入りの味なのに気に入らなかった。宿題でもやっている気分で食べ終えて、自分の部屋へと向かう。引きずってきたランドセルを本棚の前に乱暴に下ろすと、きちんと並べていなかった漫画が一冊床に落ちた。洋一のものではない。純一父さんのものだ。そもそもこの部屋は父さんが子供の頃に使ってた部屋だし、本棚の本も壁の良くわからないポスターも、全部、洋一のものではない。この街に洋一の物なんてない。
漫画は以前に、まだマンション住まいだった頃の里帰りで、暇つぶしに読んだことがある本だった。少年が悪魔を召喚して活躍する話。絵柄がデフォルメされすぎで、好きにはなれなかったもの。そのくせ悪魔だけは妙にリアルに描かれているのが不気味だった。
でも、悪魔はたくさん登場するくせに天使や神様が全く出てこないところは、今なら共感できる。
たぶん、この世界には神様はいない。居場所を失った洋一に何もしてくれないのだから、そう考えるべきだと思える。
なら、これには正しいことが描かれているのかもしれない。
布団の上に寝転ぶ。寝るには早いだろうけど起きている理由が見当たらない。
悪魔か……
少し身を起こして床の漫画を拾い上げる。
適当にページを開くと主人公の少年が悪魔を召喚するシーンだった。漫画の主人公が唱えている召喚の呪文。それが妙に真実味を帯びて見えてくる。
魔が差して、それを口に出して読み上げていた。
瞬間、ふっと世界が揺れた気がした。外で鳴いていた虫の声がピタリと止む。耳が痛いほどの静寂。思わず身を縮こませると、「ヴぇくしょん!」と祖父の大きなくしゃみが静寂を破った。虫の声も思い出したように戻ってくる。
なんだか全てが馬鹿馬鹿しくなってきた。
洋一は体を布団に預けて目を閉じた。
無性に寝苦しさを感じる。生暖かい空気が顔をなでる。止まる。
「ふぅ」生暖かい。
止まった。
「ふぅ」生暖かい。
なんだよ、もう。
うっすら目を開くと、薄闇の中、鼻の先が触れるほどの距離に祖父の顔があった。
まったく無表情で死人のような顔。
ああ、祖父は亡くなったのだな、そう思いかけた時、
祖父の表情が豹変した。異様に口の端をつり上げて心底嬉しそうに、破顔する。
「洋一やーい!」
突然に大声を出されて心臓が跳ね上がった。
「洋一洋一洋一やーい! わしのかわいい初孫やーい! 笑えや笑えやたのしーぞい!」
洋一の驚きを意にも解さず、怒鳴るように喚きたてる。
「存分に笑ったら、笑顔でにっこり、死んだれやい!」
は?
祖父が嬉しそうに右手を持ち上げる。握りしめられた錆びた鉈が、鈍い光を放っていた。
庭の竹を切る時に若い頃の祖父が使っていたものだ。触って怒られたことがある。
いや、そんなことより、なんだって? 死ね? なんで? いや、なんで動けてるの?
「よーし、よーし、やったろかーい、かわいい初孫やったるわーい!」
祖父が大きく鉈を振りかぶった。
頭より先に体が動く。思いっきり体を捻ると、ざくっと髪の毛を掠めて鉈が落ちてきた。布団が破れて羽毛が舞い上がる。窓から薄明りが射している。ああ、もうすぐ朝だな、と、どうでもいいことを思ってしまった。
ぐぐっと祖父が首をひねって洋一を見た。
突然、瞳を潤ませる。
「なぜじゃい? 洋一。なぜ避けるんじゃい。わしのこと嫌いなんか? わしゃあ、こんなに愛しているっちゅうのに」
うぉんうぉんと祖父が泣き出した。
が、瞬時に笑顔にもどって口の端を異様に吊り上げる。
「そんなわけないな。気のせいじゃ! 洋一がわしのこと嫌うはずないもんな。可愛い初孫なんじゃから! ヤンデレじゃな。照れとるだけじゃ!」
言うや否や、ぴょんと軽い動作のくせに天井付近まですっと跳躍した。
「富っ士五湖ちゃぅぁーん」
鉈をかざして頭から洋一向けて降ってくる。
もう、祖父はだめだ。
再び寝転がって身をかわすと、洋一はそのまま転がるように廊下へと飛び出した。
廊下を走っていると、
「洋一君? どうしたの? 朝から騒いで」
物音で目を覚ましたらしい叔母が寝巻姿で廊下に顔を出してきた。
「洋一やーい」
そこへ祖父が追いついてくる。
「お、お父さん?! 元気になったの?」
「元気ぃ?! あったりまえじゃーい」
祖父が無造作に鉈を振るって、叔母の首筋を薙いだ。
今まで見たことのない程の血が噴いた。
「お、お父……」
叔母が目を見開きつつ、膝から崩れるように廊下に倒れる。
全てが夢のように現実味がなかった。
「元気じゃーい! あ、元気があれば、なんでもできる。七島貞治もいうとった。元気ですかー?! 元気じゃーい!」
叔母さん……。
じーちゃんは悪魔だ。悪魔になっちゃったんだ。昨日寝る前に、僕があんな呪文を……。馬鹿だ。わかってたはずなのに。神様はいないけど悪魔はきっといるって。そんな気がする世界じゃないか。叔母さん生きてるよね。叔母さんに救急車を呼んであげないと、いや、警察が先? いや、救急車? 何でもいい。叔母さんを助けないと。
「じーちゃん!」
「おお?! なんじゃ、死ぬか? 洋一。その気になってくれたか?」
「かくれんぼがしたい!」
「かくれんぼー?」
祖父がぽかんと口を開けて、呆けた顔をした。が、すぐに凄い笑顔になる。
「そうかー! 洋一はじーちゃんと遊びたいか! ええぞ! ええぞ! じゃが、捕まったらちゃんと死ぬんじゃぞ。じゃあ、じーちゃんが鬼やったる。鬼じーちゃんじゃ、そんじゃ数えるぞーい! 死ぬ気で隠れて死ぬんじゃぞーい!」
祖父が「いーちぃ、にーぃ、うーん? 次はなんじゃったけ?」と頭を抱えて悩みだした。
洋一はすぐにその場を離れて居間を目指す。居間の電話で助けを呼ぶ。そして、この家から逃げる。祖父はついてくるだろう。悪魔だから。殺したいみたいだから。そうすれば、助けが来て、叔母を救ってくれるはず。
居間についた、電話に飛びつき受話器をとる。結局119を優先することにした。コール音がなり始めてから、やっぱり110番にしたほうがよかったと後悔したがもう遅かった。相手が通話にでると言い募る。刃物で叔母が首を切られたこと、祖父がやったこと、祖父がすぐにでもやってくるだろうこと、すぐに救急車を呼んでほしいこと、警察に連絡をしてほしいこと。祖父の影におびえながら、矢継ぎ早にまくしたてる。電話口の男性は洋一の様子に事情を察してくれたのか、すぐにその場から逃げるように言うと、助けを向かわせると力強く約束してくれた。
ほっと一息ついて受話器を下す。
自分の声が止んだだけで、あたりは異様に静かになった。ときおり早起きのムクドリが早口に鳴く声が遠くに聞こえる。平和で嘘のような響き。
「洋一」
祖父が居間に入ってきた。こっちが今は真実だ。
「洋一、言いたいことがある――」
祖父は笑いをひっこめていた。とても真剣な表情。元の祖父でも見せたことのない本気の気配に思わず息を飲む。
「――そろそろ、死ぬべきだっつーの!」
中腰で両腕で胸を強調しながらそう言うと、祖父は、色っぽくないが色っぽく口を尖らせた。
また、あたりが静かになった。ムクドリもどこかへ行ってしまったらしい。かわりに近場でカラスが鳴いた。
そうだな、確か今日はゴミの日だ。カラスが騒いで当然だ。
叔母さんが大変だから、ゴミ出しは洋一がやっている。今日は出せそうにないけれど。今日はそれより逃げないと。
洋一は踵を返して走り出した。
廊下の血溜まりを飛び越える。視界の端に捉えた叔母は痙攣するようにわずかに動いていた。
もう少しだけ頑張って、助けを呼んだから、助けがくるから。
心のなかで叫びつつ玄関へ走る。本当は叔母に傍にいてあげたい。だけど、たぶん、今それをしたら二人ともダメになる。
施錠を外して引き戸を……固くて動かない。いつもよりなお酷かった。開く素振りすら見せない。施錠を何度も確認し、かかってないことを確かめて、体重をかけてひいているのに曇り硝子がガチャガチャ鳴るだけで開きやしない。
「洋一やい」
振り返るとじいちゃんがクラウチングスタートの格好で廊下にうずくまっていた。顔だけこちらに向けている。上機嫌に笑っている。
「行っくぞーい!」
猛烈なスタートダッシュを決めた途端に、血溜まりに足を取られてミサイルのように飛んできた。それでも笑ったままだった。
反射的に体を避けた洋一の鼻先を祖父が飛んでいく。宙飛ぶ祖父と目があった。バチコーンと祖父がウィンクして通り過ぎる。
祖父は頭から玄関の引き戸に着弾した。
「あべし!」
祖父が悲鳴をあげる。木枠が折れる。曇り硝子が砕けて飛び散る。欠片が朝日を弾いてキラキラ光る。
派手に引き戸を破壊した祖父は軒先に落ちて動きを止めた。仰向けに倒れて、目を見開き、割れた額から血がだらだらと、だらしなく流れている。
そんな有様でも笑顔なのが不気味だが、動き出す気配はない。
玄関前は酷い惨状だし、屋内は血の匂いに満ちている。
でも、普通の朝が戻ってきた。
と思ったのに、何の前触れもなく、祖父がすっと立ち上がった。そうしてピンと背筋を伸ばす。
「関白太政大臣――あべし君! 前へ!」
言いながら、厳かに洋一へと歩を進めてくる。
「抜刀!」
祖父が突然掻巻を脱ぎ捨て下着を下ろした。祖父の祖父があらわとなって、頭を垂れて揺れている。
次いで、ぱっと足を開いた。両脇を開けて肘を張り、ビシッと両手で、祖父が祖父の祖父を指差す。
「美しい一本!」
カラスが一声鳴いて頭上を飛んで行った。ポトンと道に糞を落としていく。
とりあえず、洋一はその場から逃げることにした。なんだか、いたたまれなかった。これはよくない、そう思った。
「待てやい! 洋一。なんで逃げるんじゃい! なんで死なんのじゃい! おかしいじゃろが。笑えや!」
じいちゃんが追いかけてくる。あまり早くないが、体をゆらゆらと、股間をぶらぶらと、鉈をぶんぶん迫ってくるのは、見ているだけで心が死にそうになる。とにかく足を急がせる。
閑静な朝の住宅街で祖父がわめく。近所の早起きな老人たちがあっけにとられて、洋一たちの追いかけっこを見送っている。
「ヴァーカ、ヴァーカ」いったい何が気に障ったのか。祖父は時折、老人たちを罵倒している。
おかげで大分距離が開いてきた。逃げ切れそうだ。そんな甘美な希望も見えてくる。
ダメ押しに狭い路地へと走り込む。そこから更に裏路地へ、洋一自身も初めて通るような、ひっそり目立たない小道を目ざとく見つけては進路に選ぶ。うまくすれば、これできっと逃げ切れる。
そうして高い塀に挟まれた、息が詰まるような小道を選んだ時だった。背後を振り返りながら走っていたら。危うく壁にぶつかりそうになる。道は行き止まりになっていた。「なんでこんなところに」と首を傾げたくなるような古い電信柱が一本あるだけ。素っ気ない打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた行き止まりの道。それが洋一の選んだ道だった。
――この先行き止まり。
子供の洋一から見ても拙い赤い文字で、コンクリートの壁に、そう書き殴ってある。
この先じゃなくて、ここが行き止まりじゃないか!
心の中で怒鳴った途端、これまで忘れていた疲労がせきを切ったように溢れてきた。息がきれる。足が痛い。服は汗でびっしょりだ。
後ろを振り返る。祖父の気配はない。
大分距離は稼げたはずだ。もしかしたらすでに捲けたかも。下手に動くよりも、このままここにいて、休んだ方が……。
「ああああ――」
突然、頭上から雄叫びが降ってきた。
見上げると、四肢をいっぱいに伸ばして、両脇の壁に張り付いた祖父が無表情に雄叫びをあげていた。それでいて器用に右手で鉈を手放さずにいる。
「――ああああーっと驚く、助五郎!」
沈黙が訪れた。どこかの隣家で誰かがけたたましいくしゃみをした。年を取るとくしゃみがでかくなるもんじゃい。そう言って笑ういつかの祖父の笑顔を思い出した。
「助五郎はわしじゃい! 驚いたか? 笑えや!」
誰かのくしゃみに続いて祖父の叫びが静寂を破る。
祖父が飛び降りてきた。なんとか身をかわすと祖父は体勢を崩して未塗装の地面に顔をうちつけた。
すぐにのそりと顔を上げたが、祖父は血と汗と土まみれでぐちゃぐちゃになっていた。ぐちゃぐちゃで笑っていた。
「笑えや。死ねや。洋一やい」
祖父が身を起こした。洋一が背を向け逃げ出す。命がけの鬼ごっこの再開だった。
住宅街を抜けて駐在所の前を通る。あわよくば助けを請えるかと思ったが、時間が早すぎるのか、警官夫婦の姿はなかった。いまだ目が覚めていない商店街をかけていく。人通りはほとんどなかったが、朝の早い八百屋の親父が、軽トラから降ろそうとしていた野菜の山を、驚いて崩しているのが見えた。
「可愛い初孫、可愛い、死ねやい」
鉈を振り回して子供を追う姿に、目をしばたたかせている。現実だと思えないのかもしれない。洋一自身も布団の中で怖い夢を見ているだけではないかという疑念が捨てられない。
商店街を抜けた所で、洋一の足が止まった。そうしたかったわけじゃない。体力の限界だった。パチンコ屋の前で膝をつく。こんなに懸命に走ったのは初めてだ。こんなに長い時間走ったのも初めてだ。こんな目に合うのも……。
祖父が追いついてきた。
意外に優しそうに見える。
「大丈夫か? 洋一。疲れたのか、元気だせ、洋一。笑ってくれやい」
祖父はそう言うと何かを探すように視線を彷徨わせた。そして、パチンコ屋の電飾に目を留めるとニンマリ笑った。
「見れや、洋一! カッチンコッチンコッチンコとフニャフニャチンチン!」
鉈でパチンコ屋の電飾を、左の指でぶらぶらの股間を指した。
「って、だれがフニャフニャじゃい! 尾田さんの前ではカッチンコッチンじゃったわい! 初恋尾田さん胸でっかいおっぱい大好きじゃい! 尾田さん尾田尾田、尾ー田ー、尾ー田ー。なんで先に逝ってしまったんじゃー。尾ー田ーばあさーんやーい」
そうして空を見上げて嗚咽を漏らす。
が、突然、さっと洋一に視線を戻して涙のままに笑いかけてきた。汚れだらけの歪な笑顔。
「じゃあ、死ぬか?」
鉈を振り上げ、歩み寄る。
「やめなさい! 武器をすてなさい! いったい何をしているんですか! 助五郎さん!」
自転車の駐在夫婦が、駆けつけてきた。倒れる自転車を気にも留めずに放り出すと、祖父へと詰め寄る。
「あーん?」
祖父が警官夫婦を目に止めた。怒りに笑顔が消えていくのが見える。ぶるぶると肩を震わせた。
「こんのリア充がぁ! わしゃあ、もうばあさんおらんのにぃ!」
言うやいなや、鉈を横薙ぎに一閃させた。
男性警官の首が落ちるほどに大きく裂かれて血が飛び散った。
「大出血フィーバーぁっはぁ」
「ああ?! あなたぁ」倒れた男性警官にすがる婦人警官の頭頂部に鉈を振り下ろす。
「ほらよっと、ほい確変!」
今度は先程より出血は控えめだ。それでも、祖父は満足そうだった。
この街を見守ってくれる人たちがいなくなった。二人のことは別に嫌いじゃなかった。苦手だっただけだ。ここがより一層に馴染めない場所になってしまった気がした。
なのに、祖父は上機嫌だ。
「またフィーバー! 洋一に景品とったるわーい。新装開店満員御礼出玉快調本日快晴殺人日和」
言うと、神妙な面持ちに豹変して、洋一に向き直り、深々と頭を垂れた。
「謝謝」
一呼吸おいて顔をあげると、不気味に口の端を吊り上げる。
「ねえ、いい加減。そろそろ、死にましょうよ」
悪魔の姿が見えた気がした。体は限界だけれど、逃げるしかない。嫌がる足を叱咤して再び走り出す。
川辺へと出る。穏やかな朝の光景にみえた。ゆっくり流れる穏やかな川面で、水鳥の親子がのんびりしている。鉄橋が見える。早朝の電車はもう走っているようだ。洋一も走る。特に良い考えが浮かんだわけでもないけれど、とりあえず一番目につく鉄橋へとひた走る。
「洋一、洋一、洋一やーい」
振り向けば体をくねくね、股間をぶらぶら、鉈をぶんぶん。裸の祖父が追いかけてくる。
朝日を背にして祖父のまわりで散る血と汗が光って見えた。
鉄橋にたどり着く。橋桁の赤さびが浮いた鉄組に手をかけてよじ登る。思ったよりも遥かに上りづらかった。ジャングルジムが子供の遊具に思えるほど、いや、実際、子供の遊具なのだけれど。
「おお?! 危ないぞい、洋一。そんなことしちゃダメだぞ、洋一。やめろやい。落ちろやい。死ねやい」
祖父に足首を掴まれた。必死で空いている足で蹴りつける。
「危ない危ない痛い痛い。やめいや洋一。なにをするんじゃい」
なんとか振りほどいて欄干に上る。鉄道用のせいで渡橋スペースはないに等しい。鉄骨一本がかろうじて足場にできる程度だった。慎重に足を進める。
祖父が、洋一が苦労して上った欄干にあっさりと上ってきた。鉈を持ったまま、猿のような動きでところどころは跳ねるような動きだった。完全に悪魔に体を乗っ取られたに違いなかった。
少しずつしか進めずにいる、洋一をあざ笑うように口の端を吊り上げる。
「洋一やい。そろそろ終わりにしようかい。十分遊んでやったじゃろ?」
鉄骨一本の足場を気にも留めずにするすると、祖父が近づいてくる。
ふと、まったく何の前触れもなく、つまらない祖父のギャグで唯一、洋一が好きだったものが脳裏に浮かんだ。
「あの変な決めポーズして」
そのまま、口をついて出る。
祖父が動きをぴたりと止めた。満面の笑みが浮かぶ。
「あれかぁ! そうじゃな! 洋一はあれがすきじゃったな! 忘れっとったわい! 大事なことなのにのう! そうじゃな。もちろんじゃ! 可愛い初孫の頼み、聞かいでか!」
祖父は大喜びだった。すぐさま、ポーズに邪魔な鉈をあっさりと捨て、関節の相談もなしに体をひねり、片手を前、片手を後ろ、ついでに片脚まで上げて決める。
「どうじゃい! これじゃろ! このポーズじゃろ?! 笑えや、洋一!」
不安定な足場で不安定な恰好をとった祖父の体が傾いていく。
「満足か? 嬉しいか? 洋一ー」
そのままの姿勢で落ちていく。落下中ですら姿勢を崩しはしなかった。欄干に取り残された鉈が絶妙なバランスで鉄骨の上でふらふらしている。
川の半ばの橋の支柱。その土台のコンクリートへ、変なポーズの祖父が頭から叩きつけられた。悍ましい音がして頭部が半ば潰れる。だが、川に落ちる寸前で踏みとどまり、洋一を見上げてくる。
「楽しかったか? 洋一! わしの可愛い初孫やい。わしゃあ、洋一の笑顔が大好きじゃ。いつも見たくてたまらんかったんじゃ!」
鉄骨の上でふらふらしていた鉈が祖父を追って落ちていく。
そうして、嬉しそうに洋一を見上げる祖父の顔面に、ざくりと突き刺さった。
「お? おお? わしは洋一の辛そうな顔は、寂しそうな顔は、みとうない。だから、笑っていてくれやい。わ、わしの可愛い、か、か、かわいい、はつま、ご……」
祖父が仰向けに川へと落ちた。
水しぶきがあがる。まもなく仰向けに笑顔の祖父が浮かぶ。血と汚れは川の水が流してくれたみたいだ。意外に綺麗な鉈と顔。
ゆっくりと川の流れにのって遠ざかる。水鳥の親子が興味深そうに、顔面に鉈を生やした祖父を見送っている。
秋の一日の始まりの、きよらかな光が世界に降り注いでいた。それを水面がまばゆく照り返す。見上げれば空は澄み渡り、バカバカしいほどに青かった。
昨日は快晴だった。一昨日も快晴だった。
きっと今日も一日いい天気。
了

※危険な曲です

