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武辺無常譚2『慟哭剣 木霊返し』

「このような日和に、またお出かけになるのですか?」
 登世の深く沈むような声に、兼之丞は顔をしかめた。
 答えずに、足駄の歯を確かめる。多少欠けてきている。あとで家人に修理を申し付けよう。
 足駄を履いて玄関の引き戸に手をかけると、また登世の声が追いかけてきた。
「傘はよろしいのですか?」
 わかりきったことを。苛立ちがおさまらないが、努めて声を抑える。
「無用だ」
「お風邪を召されます」
「そのようなやわな体ではない」
「わざわざお寺参りを、雨足の強い日ばかりお選びになって……奇特なことと噂も立っております」
「言わせておけばよい」
 引き戸を開ける。中庭に、家人と用心棒が、雨にうたれて立っていた。
「亡き義父殿と――」
 背後から登世の暗い声が追いすがる。
「――志乃殿によろしくお伝えくださいまし」
 兼之丞はもはや答えることなく、雨の中に歩みを進めた。家人が二人、付き従う。さらに少し距離を置いて、用心棒の相良が一団を見守るようについてくる。
 長屋門を潜ると、門前の泥に足駄が沈んだ。歯がかけてきているせいもあり、泥が袴の裾に跳ねたのが見える。
 不快さに視線をあげて、歩き出す。八丁堀の武家屋敷が並んでいる。軒先には梅が植えられ、青い実をつけていたが、雨に打たれた葉は黒ずみ、項垂れている。
 その様子もまた不快で、兼之丞は再び視線を落として足を進めた。
 鉄砲洲に近づくにつれ、武家屋敷のかわりに町家が増えてくる。雨脚に、普段よりは人通りは少ないものの、屋敷周辺に比べれば人が多い。多ければ当然、人目にも付く。
 兼之丞の姿を認めた者も少なくない。
「くだんの八丁堀の旦那だよ、くわばらくわばら」
「目を合わせるなよ。どんな難癖をふっかけられるか知れたものじゃねえや」
「また雨の中に傘もささずにお寺参りかい。おかしなお人だ」
「しっ、声をひそめなよ、聞かれちまうよ」
 市井の声が雨音をわって耳まで届くが、気にせず跳ねる泥を見ながら進む。
 鉄砲洲の橋を渡り深川に至れば、人通りもまばらになり、兼之丞はわずかに顔をあげた。かわりに道はぬかるみ、都度足がとられる。だが、心はわずかにやすらいだ。川幅は広がり、雨に霞んだ対岸は朧だ。先が見えないのは心地よい。見えたところで行き付く先は知れている。
「まったく、歩きづらいったらねえぜ」
 中間上がりの家人のぼやきが聞こえた。暗にこんな日和をわざわざ選ぶ主人への非難も含まれているのだろう。
 だが、咎める気にはなれない。好きに思えば良い。
 兼之丞は己の両手を見つめた。雨に濡れて皺が深まっている気がする。だが、良い。もっと濡れて全て洗い流せ。
 手に、血の匂いが残っているように感じられる。
 ずいぶん、斬ったものだ。

 初めて人を斬ったのは、かたき討ちのためだった。
 榊原兼之丞の父もかつては与力の役目をいただいていた。だが、賭場の取り締まりの際、出入りしていた浪人相手に不覚をとった。剣で敗れたわけではない。不意をつかれて腹を薙がれた。それでも、兵法で知られた父の名は地に落ちた。そのままにしておけるわけがない。兼之丞は敵討ちを幕府に申し出て許可を得ると出立した。そして、江戸を離れようとしていた浪人を見つけ、うち果たした。これについては、後悔など微塵もない。
 だが、上役の奉行が、敵の素浪人が紀州筋の落胤であったことを告げてきた。事実をもみ消すかわりに仕事を手伝えと――幾度も恨みも何もない相手を斬った。
 手をみるたびに、血の匂いが鼻をつく気がする。

 寺参りから戻ると、登世が来客があったことを告げてきた。
「ご不在の折、お奉行様のご使者が参られました。先方までお運び願いたいとのことでございます」
 うつむき加減に、上目遣いに自分を見る登世から顔を背ける。
 上役からの使者か……登世の視線からは逃れられても、こればかりはどうしようもない。
 底冷えがするのは雨に打たれたせいばかりではない気がした。
「お困りのことがございましたら、私が実家の伝手を頼りましょう」
 はっと登世に目を戻す。内心を読まれた気がした。
 登世は顔をあげて、兼之丞を正面から見据えていた。
 登世は十が立ってはいるが美しい。気性に荒さはあるものの、立ち居振る舞いには気品があった。おのずと人を遠ざけるところがあるが、ふとした折に見せる情の深さだけは、志乃に似ていた。
 登世の切れ長の目に見据えられていると、体の芯が熱を帯びるような錯覚を受ける――だが、心惹かれるわけにはいかない。まして、この女の縁を頼れなど……。
「それには及ばぬ」
 兼之丞が言い放つと、登世はまた顔を下げた。
「さようでございますか」
 言いつつ、上目遣いに兼之丞を見た。
 雨の中をまた外出をすることとなった。明らかに気乗りしない様子の家人どもは捨ておいて、用心棒の相良直次だけを連れ立って上役の屋敷を目指す。相良は家人とは違い、文句の一つもこぼしたことがない。顔色を変えず、表情も動かさない。黙々と付き従う。無愛想だが、兼之丞にはそれが好ましかった。剣の腕も立つ。同じ中条流の使い手で、腕前はかなりのものだ。全盛期の兼之丞には及ばないだろうが、今の兼之丞よりは上だ。
 そんな相良の顔を横目に捉えると、ふと疑問が沸いた。
 いつもより表情が曇って見えた気がした。相良にしては珍しいことだ。
「なにか懸念でもあるのか?」
 何気なく放った一言だったが、相良は目を見開いた。
 が、すぐに動揺は消え、普段の相良に戻る。
「とくには」
 どうやら答える気はなさそうだった。
 上役の奉行の屋敷は同じ八丁堀の道行だ。さほどの時間もかからずたどり着き、相良と話す機会も断たれた。
 兼之丞がおとないをいれると、上役の家人がうやうやしく応対し、主の元へと案内にたった。奉行宅の庭には紫陽花が多く植えられている。
 かつては兼之丞の役宅の庭も、この時節には紫に染まっていた。
「淡い色合いが好ましいのです」
 志乃がそう言って紫陽花を世話していた。だがもう、兼之丞の庭の紫陽花はほとんど枯れはてている。志乃の後を追うかのように。
 案内された茶の間に入ると、上役の内藤主水正がしかめつらで茶をすすっていた。
「与力、榊原兼之丞、参りました」
 内藤が相好を崩す。
「おお、来たか。すまんな呼びたてて」
「とんでもございません」
 頭を下げると、内藤はかかかと笑った。
「そうかしこまらんでよい。貴公とわしの中ではないか」
 さらに深く頭をさげてから、身を起こす。そして居住まいを正した。
 内藤が満足げに目を細める。
 このお方はこういうお人だ。好々爺然としてはいるが、軽い口ぶりとは裏腹に、親しい振る舞いなど許しはしない。
「さっそくだが、本題に入ろうか」
 神妙にうなずいて見せる。
「実は松屋の件が少々、難儀しておってのう。あの頑固者め、なかなか首を縦にはふらぬ」
 内藤はそういうと溜息まじりにまた茶をすすった。雨音が大きくなった。雨が強くなったのだろう。
「ことによると代替わりしてもらうことになるやもしれぬ。その時はまた、貴公の力を借りたい」
 またか、これで何度目だ? いったい何人、咎なき者を切れば……。
 兼之丞は、胸の内の暗雲が広がっていく気がした。
「おおせのままに」
 深く頭を下げると、
「うむうむ」
 内藤が満足げに二度うなずいた。
「その折はまた使いを出す故、よろしく頼むぞ」
「ははっ」
 更に頭を下げる。
 そうして、身を起こすと、内藤は上機嫌に登世の話題を持ち出した。
「それはそうと、登世殿とはうまくやっておるか?」
 登世は、内藤の口利きで後添えとなった。紀州家江戸留守居、久世隼人正の娘だ。気難しい性格のせいで婚期を逃したが、内藤はその縁を世話することで久世に恩を売り、否と言えぬ兼之丞の家へもう一つ首輪をかけた。
 胸の内に稲光が走るが、落ちることはない。落とせない。
「はい。それがしにはもったいない女人でございます」
 兼之丞はまた仰々しく頭を下げた。
「うむうむ。尊き血筋のお方なれば、大事にしてやってくれ」
 だが、それは打ち果たした敵の素浪人の血筋でもある……。

「どのようなご用件でございました?」
 帰宅すると、手ぬぐいを差し出しながら、登世が尋ねてきた。
「そなたが気にすべきことではない」
 登世がまっすぐに見つめてくる。
「内藤様がご無体をおっしゃったのではございませんか? 私が実家に――」
「くどい。女人が口を挟むようなことではない」
 登世が顔をふせた。上目遣いに睨んでくる。
 もう話す気はなかった。手ぬぐいも受け取らず、兼之丞は自室へと大股に歩いて行った。
 夕餉の席で、登世は一言も口を聞かなかった。それはありがたかったが、上目遣いに見られていると心が荒れる。美貌の登世がそうしていると凄みがある。言外に非難されているようなものだ。
 平は筍と若布の煮物で、兼之丞の好物であったが口に含んでも味がしない。しかめ面でひたすら咀嚼した。
 日が暮れるとあちこちで蛙が鳴きだした。やつらにとっては良い一日だったのだろう。心なしか軽やかな声に聞こえる。うっとうしい。
 いつも通りに無為に一日が過ぎゆく。
 寝所に向かうと登世の姿があった。床は別にしている。一緒に居ると心が休まらない。
 月明りに登世の白い顔が浮かぶ。切れ長の目を伏せて憂いを見せる様は、心をうつものがあったが、兼之丞は唇を噛んで、それを振り払った。
「何用か?」
 冷たい声が出る。
 登世はうなだれるように足元をみつめながら、小さく首を振る。
「では、疾く休むとよい」
 兼之丞は、寝所に入ると襖を閉めた。力が入りすぎて、ぴしゃりと殊の外、大きな音がなった。
 床についても、登世の気配は長いこと部屋の前にあり、なかなか寝付けなかった。
 憐れと思う心はある。だが、どうしようもない。
 以来、登世はほとんど喋らなくなった。妻の勤めはしっかり果たす。まったくの無言というわけでもない。言伝などがあれば口を開く。だが、必要のないときはひたすら無言で、目を伏せるばかりだった。ときおり、上目遣いに兼之丞を見るが、以前のような非難がましいものはない。ただ、何かを訴えかけるような、弱々しい視線。それはそれで、兼之丞には辛かった。
 内藤からの連絡はこない。うまくすれば、この件は手を汚さずに済むのかもしれない。それは虫の良い考えなのだろうか。
 長雨の季節も終わりが近い、晴れが続き心が沈む。あるいはもう終わりか。
 そんな日々にあって、今日は朝から雨音が響いていた。幸いにと寺参りの支度を申しつけると、家内で騒ぎが起きた。
「どうか、お暇いただきたく」
「内儀が床に伏せておるからだと? かような理由で役を投げるとは、不届きであろうが」
 老家人が、玄関で相良を叱りつけている。他の家人どもも、老人の剣幕に当てられて身を縮めている。
 耳にした範囲だけでも、およそ、事情は汲めた。
「やめい」
 兼之丞が一喝すると、老家人は口をつぐみ、相良は頭を垂れた。
「相良、望み通りに暇を与える。ご苦労であった。それと――」
 老家人へ告げる。
「――御内儀への見舞金をいくらか用立ててやれ」
 相良が目を見開き、兼之丞を見つめる。老家人は「しかし、それは」となにやら意見をしようとしていたが、睨みつけて黙らせた。次いで、
「今日は、共はいらん」
 と家人たちを下がらせた。金をうけとった相良は、深い辞儀を何度もしてから、ひたと熱い眼差しを兼之丞に向けた後、冷たい雨の中へ足早に去っていった。
 兼之丞はしばらくその背中を見送っていた。
 そうして一人、歯の治った足駄を支度していると、登世がつぶやくように「よその女にはやさしいのね」と言ったのが聞こえた。だが、あるいは幻聴かもしれなかった。登世らしからぬ言葉遣いに思えた。
 一人で黙々と雨の中を進む。その道行に兼之丞は救われる思いがする。市井の者はおのれを悪しざまに言うがそれも良い。今は良い。存分に言えば良い。顔を上げて雨を受ければ全てが流れていくのだから。
 深川を目前にした橋の手前に男が立っているのが目に止まった。かなり上背のある男だった。一本差しだ。士分ではない。あるいは素浪人かもしれないが、いなせな着流しは上等にみえた。身なりが悪くないので、おそらくは市井の者、無頼の類であろう。傘もささずに、兼之丞をじっと見据えている。殺気を感じた。雨脚の強さに人通りもない。
 狙いは俺か。
 右手の力を抜き、だらりと垂らした。いつでも刀を抜けるように、そうしてゆっくりと足を進めていく。
 かたき討ちの類であろうな。
 少なからず、無辜の者を手にかけてきた自覚がある。
 その縁者か。縁者の依頼を受けた助太刀か。
 いずれにせよ、面倒ごとは避けられまい。
 男がごく自然に刀を抜くと八双に構えた。
 兼之丞も若干の焦りと共に、刀を抜き、正眼に構えた。
 男の所作にただならぬ力量を感じた。
 タイ捨流か?
 僅かな所作からの憶測であるが、およそ間違いはない気がした。が、おそらくそこに我流もかなり混じっている。
 つまり、やりづらい相手であり、力量も備えているということだ。
 男の体がふっと雨の中に消えた気がした。次の瞬間、目前に来ていた男の刀が大上段から振り下ろされる。
 並々ならぬ圧力に、受けきれぬと判断した兼之丞は、刃で受け流すように斬撃をそらした。受け流したはずなのに、手に痺れが残る。
 手ごわい。
 続けざま、振り下ろされた刃が地面で跳ねるように向かってきた。これを大きく飛び下がってかわす。紙一重で逃れられたが、羽織紐を切り飛ばされた。さらに距離を取りつつ、おさまりが悪くなった羽織を脱ぎ捨てた。
 男がまた八双に構えて、にじり寄ってくる。捨て身の気迫を感じる構えだった。
 男の顔にはまだあどけなさが残っていたが、目の光は獣のそれだ。
 これは、助太刀の類ではない。縁者自身が仇討ちにきたのであろうな。
 まだ若いであろうに、見事な剣だ。これは敵わぬな。
 称賛と諦念の中で、ふと湧いてくる思いがあった。
 もう討たれてやってもいいな。
 柄を握る力がゆるむ。男がそれを隙とみたか、猛烈な踏み込みを見せた。
 再び、大上段からの降り下ろし。すでに一度見た太刀筋であるが、見切れない。
 あるいはこの技一つにしぼって鍛え上げてきたのではないか。仇を討つ、その一念で。
 そう考えれば、男の若さに似合わぬ凄みのある斬撃にも合点がいく。
 迷いがあった。雑念もあった。胸元を浅く切られ、鋭い痛みが走る。
 地面で跳ねた男の刀が雨を裂いて、襲い来る。反射的に身をひいたが、今度は腹を浅くやられた。
 兼之丞はよろめくように後ずさった。
 志乃の顔を脳裏に描こうとした。最後にもう一度、一目だけでも会いたかった。しかし、浮かんできたのは、なぜか登世だった。上目遣いに兼之丞を見ている。
 そうだ。俺は登世を娶った身、紀州筋の遠縁。俺を打ち取れば、この男を待つのは地獄だ。きっと俺のように……。
 男が再び八双に構え、にじり寄る。
 脳裏に、亡父が現れ登世に並んだ。憎い仇の血筋であるはずの登世の肩に、親しげに手を置く。
 唇が動いた。
 ――木霊返し。
 亡父が生み出した剣。
 相手の斬撃を紙一重でかわし、同じ軌跡の斬撃を返す。後の先の秘技。
 脳裏の幻が消えた。雨の音が遠のく。苦しみも悲しみも悩みも、溶けて消える。何もなくなる。
 兼之丞が呆けたような顔をさらした。口を半ばあけ。目も焦点があわずに泳いでいる。あほうのようだった。
 男は一瞬、その異様さに竦んだ素振りをみせたが、「おう」と叫び、自らを奮い立たせると、三度目の大上段からの斬撃を振り下ろした。
 兼之丞の体がわずかにゆれる。あたったかに見えた斬撃が空を切っていた。男が続く連撃を繰り出す前に、二人の間に、雷光が走ったようだった。
 兼之丞は気づけば、大上段からの切り落としを放ったかのような、残身をとっていた。
 男が不思議そうな顔をする。そうしているとなおのこと幼さが目立って見えた。一呼吸おいて、男の額が割れて血が吹き、雨に紛れた。
 男は気をとりなおしたように、八双の構えをとった。兼之丞を睨みつける。そうして、再び踏み込むと、そのままの勢いで地面のぬかるみに倒れこんだ。泥が跳ね上がり、男着流しと兼之丞の袴に派手な汚れをつける。
 兼之丞はしばらくの間、呆けたままに残身をとっていた。雨音がしきりと欄干を叩き、人気のない橋のたもとを騒がせている。川面が揺れて、川べりに括られていた無人の船が石積みに当たり、軋んだ。その悲鳴のような音に、はっと我に帰る。
 地面に倒れた男の姿を見下ろす。やっと返り討ちにした事実に気づいた。
 男は、今際に敗北を理解したのかもしれなかった。恨めし気な顔を半分、泥の中から覗かせていた。
「そのような顔をするでない」
 男から目を背け、泥まみれの羽織を拾い上げた。
 さすがに、今日は寺参りは断念せざるを得ない。
 空をあおぐ。
 兼之丞はほうと溜息をついた。
 雨はいい。
 涙がみえぬ。
 雨はいい。

 役宅に戻るとなにやら騒がしかった。
 老家人が、兼之丞の姿を見つけると、慌てて走り寄ってきた。
「旦那様、奥様が。奥様が……」
 最後まで聞かず、足駄を脱ぎ捨てると、羽織も玄関先に放って屋敷を大股にすすむ。
 登世の部屋の前に家人たちが集まっていた。女中どもは涙を流しているようだったが、雨音に紛れて泣き声は聞こえなかった。
 兼之丞が姿を見せると、家人たちは頭を下げて道を開けた。
 部屋に踏み入ると、雨の匂いの中に血の匂いが混じった。もはや慣れた匂いのはずなのに、眉をひそめたくなる。
 床に登世が倒れていた。懐剣で喉を突いていた。畳に黒い染みが広がっている。登世の白い肌は、もうこの世のものとは思えないほどに白く冷たく見えた。
 雨音の合間に女中の泣き声が耳に届いた。
「しばらく二人きりにしてくれ」
 兼之丞はしぼりだすようにそう言うと、背後に襖を閉じる音がして、人の気配が遠のいていった。雨の音も遠くなった。
 兼之丞はよろめくように、登世の傍らにひざまづいた。登世の目尻には涙の後が残っていた。
 これはいかん。いかんな。俺は、もう……。
 兼之丞は、懐剣を握る登世の手を取った。冷たい手だった。
「すまなかった、登世。せめて……持っていけ」
 兼之丞は、登世が握りしめている懐剣をとろうとした。それで、己の心の臓を突いてやりたかった。
 だが、いくらがんばっても登世は懐剣を手から離してくれない。か弱い手のはずなのに、固く握りしめて離してくれない。
 兼之丞は懐剣をあきらめると、屋内に雨が降らぬことを恨めしく思いながら、「ゆるしてくれ」と登世に縋りついた。


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